2019年07月21日

ペテロの第一の手紙

ペテロの第一の手紙

「苦難を通して聖別される寄留者の社会人的配慮」 

教会は、選民であって、しかもこの世では、
「旅人であり・寄留者です。」

そこに、
「この世の者でない者として、この世におかれている」(ペテロの第一の手紙2:9-11)キリスト者の位置と使命とがあります。

@寄留者の天的栄光に与る聖別(ペテロの第一の手紙1章)

キリストに在って選ばれた教会は、
「天にたくわえてある、朽ちず汚れず、しぼむことのない資産を受け継ぐ者」(ペテロの第一の手紙1:4)とされた者です。

しかしこのキリストは、すでに預言されていたように、「苦難を通して栄光」に入られました。

それを目撃させられた教会もまた、
「この世のものでない者としてこの世におかれた者」として多くの試錬を経る運命にありますが、それは、信仰が火で精錬されることにより、主の栄光に与るにふさわしい者とされるためです(ゼカリヤ書12-13章参照)。

【引用】(ゼカリヤ書12ー13の要点)
「主は言われる、全地の人の三分の二は断たれて死に、三分の一は生き残る。
わたしはこの三分の一を火の中に入れ、銀をふき分けるように、これをふき分け、金を精錬するように、これを精錬する。
彼らはわたしの名を呼び、わたしは彼らに答える。
わたしは『彼らはわが民である』と言い、彼らは『主はわが神である』と言う。」(ゼカリヤ書 13:8-9)


また教会は、選民として召されている以上、
「わたし(主)が聖なる者であるから、あなたがたも聖なる者になるべきである」
という選び主の要請に従って、自らを、苦難を通して、聖別されるべきです。

しかも、十字架のあがないに与る教会は、しみもきずもない「小羊キリストの血」によって聖別された者として、地上にあっては、「あらゆる行いにおいて聖なる者となる」(ペテロの第一の手紙1:3-21)課題がありますという。

ここに天的選びに与る、「この世の者でない者」が「この世におかれている」、寄留者としての特典と課題が指摘されています。

A寄留者の祭司的社会人的配慮(ペテロの第一の手紙2-5章)

⑴祭司的課題(ペテロの第一の手紙2:1-10)

教会のこの世での使命は、祭司的使命です。

「この主のみもとにきて、あなたがたも、それぞれ生ける石となって、霊の家に築き上げられ、聖なる祭司となって、イエス・キリストにより、神によろこばれる霊のいけにえを、ささげなさい」(ペテロの第一の手紙2:5)
と言われています。

それは、旧約聖書の選民が、「祭司の国、聖き民」として性格規定されていたことに基づいています(出エジプト記19:6、申命記7:6他)。

⑵社会人的配慮(ペテロの第一の手紙2:11-3章)

キリスト者は教会の肢として、祭司ではあるが、この世では「旅人であり・寄留者」として、「異邦人の中にあって、りっぱな行いをしなさい」と勧めています(ペテロの第一の手紙2:11-13)。

先立つヤコブの手紙も、行為を強調していました。

ところでヤコブの手紙は、信仰に対する行為の位置づけをするのに対し、ペテロの第一の手紙では、寄留者としてのキリスト者の行為を力説します。

つまり、寄留者でありつつ、社会人としての非の打ちどころのないように配慮しつつ生活すれば、
「彼らは、あなたがたを悪人呼ばわりしていても、あなたがたのりっぱなわざを見て、かえって、おとずれの日に神をあがめるようになろう」(ペテロの第一の手紙2:12)
という。

イエス御自身、反抗しつづけるユダヤ人に向かって、
「もしわたし(イエス)が父のわざを行わないとすれば、わたしを信じなくてもよい。
しかし、もし行っているなら、たといわたしを信じなくても、わたしのわざを信じるがよい。
そうすれば、父がわたしにおり、また、わたしが父におることを知って悟るであろう」(ヨハネ10:37以下)
と言いたまいました。

りっぱな行いとしてペテロの第一の手紙は、
「あなたがたは、すべて人の立てた制度に、主のゆえに従いなさい。
主権者としての王であろうと、あるいは、悪を行う者を罰し善を行う者を賞するために、王からつかわされた長官であろうと、これに従いなさい。
善を行うことによって、愚かな人々の無知な発言を封じるのは、神の御旨なのである。
自由人にふさわしく行動しなさい」
と勧めます。

初めの部分の「すべて人の立てた制度に」というような表現は、少なからず抵抗を覚えさせます。

しかし、ペテロの第一の手紙の全体に照らしてみる時、それが、あらゆる世的権威との無批判的妥協ではないことはあきらかです。

前記のように、その時、そのところに応じて、愚かな人々の無知な反発に対して、口実を設けさせないということに力説点があります。

しかも、その行為は、「自由人にふさわしい」と言われているのであり、権威との癒着や妥協には、自由がないことはいうまでもありません。

キリスト者が、絶対者なる神を知る者として「カイザルのものと神のもの」との混同から解放されている限り自由人でしょう(マタイ22:21)。

このように括弧の外の神の絶対支配を知りつつ、括弧の中の制約の中に生きる自由は、「自己限定の自由」とよぶべきでしょう(第一コリント9:19以下)。

そのような自己限定の自由が、ペテロの第一の手紙ではすべての人、兄弟、家族、社会関係に適用さるべきことを勧め、不当にも義のため苦しむことがあっても、主にならって、
「ののしられても、ののしりかえさず、ーー正しいさばきをするかたに、いっさいをゆだねる」(ペテロの第一の手紙2:20以下、3:13以下、3:18)
よう勧めています。

⑶終末感的配慮(ペテロの第一の手紙4-5章)

「万物の終りが近づいている。だから」と寄留者の本来生きる終末感的危機意識を呼びさまし、それぞれが与えられている賜物の用い方に言及し、それらを「神のさまざまな恵みの良き管理人として、お互いのために役立てるべきである」と勧めています(ペテロの第一の手紙4:7以下、第一コリント4:1-2)。

また終末感的に生きる時、火のような試錬をも、喜ぶことができるし、
「神の御旨に従って苦しみを受ける人々は、善をおこない、そして、真実であられる創造者に究極的には自分の魂を委ねる覚悟がなければならない」(ペテロの第一の手紙4:12以下)
という。

終末が近づけば近づくほど、キリストの血の賭けによって敗れたサタンがなお教会に対して、「ほえたけるししのように」挑戦するといい、これに対する教会の敵前感を喚起しています(ペテロの第一の手紙5:8以下)。


posted by 道川勇雄 at 16:54| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする


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