2019年07月21日

ペテロの第二の手紙

ペテロの第二の手紙

「再臨の主の威光と時熟の読解による教会の聖別」 

ペテロの第一の手紙は、「この世の者でない者としてこの世におかれている」寄留者としてのキリスト者の、対外的配慮に注意を向けていました。

それに対してペテロの第二の手紙は、再臨の主の威光を仰視することにより偽教師の誘惑を克服するよう奮起させています。

@目撃者による主の超絶的威光の証言(ペテロの第二の手紙1章)

ペテロの第二の手紙の著者は、死を予感している現在(ペテロの第二の手紙1:14)、ぜひ、各自に銘記してほしいこととして、主の威光の天的証明である、変貌山の出来事を語ります(ペテロの第二の手紙1:17以下)。

【参考】(変貌山の出来事)
「わたし(イエス)とわたしの言葉とを恥じる者に対しては、人の子もまた、自分の栄光と、父と聖なる御使との栄光のうちに現れて来るとき、その者を恥じるであろう。
よく聞いておくがよい、神の国を見るまでは、死を味わわない者が、ここに立っている者の中にいる。」
これらのことを話された後、八日ほどたってから、イエスはペテロ、ヨハネ、ヤコブを連れて、祈るために山に登られた。
祈っておられる間に、み顔の様が変り、み衣がまばゆいほどに白く輝いた。
すると見よ、ふたりの人がイエスと語り合っていた。
それはモーセとエリヤであったが、 栄光の中に現れて、イエスがエルサレムで遂げようとする最後のことについて話していたのである。
ペテロとその仲間の者たちとは熟睡していたが、目をさますと、イエスの栄光の姿と、共に立っているふたりの人とを見た。
このふたりがイエスを離れ去ろうとしたとき、ペテロは自分が何を言っているのかわからないで、イエスに言った、『先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。
それで、わたしたちは小屋を三つ建てましょう。
一つはあなたのために、一つはモーセのために、一つはエリヤのために。 』
彼がこう言っている間に、雲がわき起って彼らをおおいはじめた。
そしてその雲に囲まれたとき、彼らは恐れた。
すると雲の中から声があった、
『これはわたしの子、わたしの選んだ者である。
これに聞け。』
そして声が止んだとき、イエスがひとりだけになっておられた。
弟子たちは沈黙を守って、自分たちが見たことについては、そのころだれにも話さなかった。」(ルカによる福音書 9:26-36)


旧約聖書の選民史の端緒に立つ預言者モーセと、その最後に、「新契約」の主の先駆者として名のあげられた預言者エリヤ(マラキ書四・五)の現前で、イエスに対して、
「これはわたし(主なる神)の愛する子、わたしの心にかなう者である」と
いう天来の声があった、変貌山の啓示の出来事は、旧約聖書の預言の成就者としてのイエスの超絶的威光の証明です。

旧約聖書の預言と、天来の声とによって確証されたこのような預言は、上からの聖霊に基づくものであるから、それは、恣意的な解釈を許されません(ペテロの第二の手紙1:19以下)。

A放縦に誘う偽教師の実態看破に基づく警戒(ペテロの第二の手紙2章)

再臨の切迫したことの客観的兆しは、偽キリストや偽教師の出現です。

選民史も不義な者、汚れた情欲に身をゆだねる者に下された刑罰の記録にみちています。

ひとたび光に照らされた者の堕落は、絶望的です。
偽教師の甘言にさそわれないようにとの警告です。

B再臨遅延における神の忍耐の洞察(ペテロの第二の手紙3章)

「生に導く預言の読解」と、「死に導く預言の読解」とがあります。

死に導く読解とは「自分の欲情」を出発点としたものです。
「終りの時にあざける者たちが、あざけりながら出てきて、自分の欲情のままに生活し、
『主の来臨の約束はどうなったのか。
先祖たちが眠りについてから、すべてのものは天地創造の初めからそのままであって、変ってはいない』
というであろう」
といわれ、彼らは、
「ほかの聖書についてもしているように、無理な解釈をほどこして、自分の滅亡を招いている」(ペテロの第二の手紙3:3-7、3:16)
やからです。

これは致命的な近視眼的解釈です(ペテロの第二の手紙1:9)。

彼らは、神の思いは人の思いとは異なり、神の時は人の時とはちがうことを知らず、「主にあっては、一日は千年のようであり、千年は一日のようである」ことを悟らないのです。

主の再臨が延ばされているのは、
「ある人々がおそいと思っているように、主は約束の実行をおそくしておられるのではない。
ただ、ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔改めに至ることを望み、あなたがたに対してながく忍耐しておられるのである。
しかし、主の日は盗人のように襲って来る」
と言って、「再臨遅延」を、「神の忍耐」の時として洞察することが、再臨待望による自己聖別の秘義であることを教えています。
   
「イエスは、本当にキリストか?」と、頭の中で、「肯定」したり、「否定」したり〜〜。
それがキリスト者の実態です。


posted by 道川勇雄 at 16:56| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする


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