2019年07月22日

ヨハネの第一の手紙

ヨハネの第一の手紙

「主告白の交わりにおける原点としての既得的勝利」 

著者問題は別の次元に属するものとして今それを問いません。

だが、その思想からみると、ヨハネによる福音書がヨハネの第一の手紙の基盤にあることは否定出来ません。

ヨハネによる福音書は、主の告別の祈りにもひとしい大祭司の祈りにおいて、
「聖なる父よ、わたしに賜わった御名によって彼らを守って下さい。
それはわたしたち(父なる神とその独り子)が一つであるように、彼らも一つになるためであります」(ヨハネによる福音書17:11)
と祈られたことをしるしています。

それをうけるかのように、ヨハネの第一の手紙は、
「わたしたちが見たもの、聞いたものを、あなたがたにも告げ知らせる。
それは、あなたがたも、わたしたちの交わりにあずかるようになるためである。
わたしたちの交わりとは、父ならびに御子イエス・キリストとの交わりのことである」
といい、神とその独り子イエスと信仰者とが「一つ」とされたことを、主に在る交わり、否、「主告白の交わり」として展開し、しかも「わたし(イエス)はすでに世に勝っている」というイエスの「既得的勝利」(ヨハネによる福音書16:33)の再確認こそ、主告白の交わりのかけがえのなさであることを強調しています。

「世に勝つ者はだれか。
イエスを神の子と信じる者ではないか」(ヨハネの第一の手紙5:5)
というヨハネの第一の手紙の挑戦の秘義もそこにあります。

@主告白の交わりにおける贖罪の既得性(ヨハネの第一の手紙1章-3:9)

主を告白する教会とは、光であり、真理である神およびキリストとの「交わり」です。

この交わりに、罪人である人間を招き入れるため、神の独り子イエスは、十字架にその血を流されたのです。

故に、この主告白の交わりは、贖罪において成り立つ交わりであって、神と人間との直接的な、神秘的な合一としての交わりとは、全く異なるものであることを明示しています(ヨハネの第一の手紙1:8-10)。

しかし、贖罪に基づくということは、既に知られていることであるのに、わざわざこの手紙を書く理由は、
「あなたがたが罪を犯さないようになるためである」(ヨハネの第一の手紙2:1)
と念を押しています。

「罪を犯さないようになる」ということの根拠は何か。

まず「『彼(イエス)におる』という者は、彼が歩かれたように、その人自身も歩くべき」であるからです。
主告白と行為とは不可分であるべきだからです。

「『彼を知っている』と言いながら、その戒めを守らない者は、偽り者であって、真理はその人のうちにない」(ヨハネの第一の手紙2:4-6)からです。

ヨハネの第一の手紙は、その特徴として、ここにしるしていることは、既にキリスト者が知っている古い戒めであるが、しかもこうして書く以上、それは古い戒めであって、新しい戒めなのだと念を押していることに注目されます(ヨハネの第一の手紙2:7-8、2:13以下、2:20-27等)。

つまり、キリスト者の「知っている」という知り方が、いかに観念的なものに留まっているかを、指摘する厳しい姿勢がそこにあります。

「『光の中にいる』と言いながら、その兄弟を憎む者は、今なお、やみの中にいるのである」(ヨハネの第一の手紙2:9)という指摘も、光であり真理である神との交わりは、その中に異質的なものの混在を許さぬ純一性そのものであることをさし示すものとみられます。

ところが、告白と行為との不可分性を指摘するのは、未だ修養や努力が足りないという点をいっているのではないのです。

主に在る者は、「既に」獲得した位置に目を注ぐべきだという。

「あなたがたに書きおくるのは、あなたがたが、初めからいますかたを知ったからである」
「悪しき者にうち勝ったからである」
「父を知ったからである」
「あなたがたが強い者であり、神の言があなたがたに宿り、そして、あなたがたが悪しき者にうち勝ったからである」(ヨハネの第一の手紙2:12以下)
という反復は、それを証しして余りがあります。

それが「イエスを主と告白する者」の現実的既得性だという。

真理と虚偽とは共存できません。

「偽り者とは、だれであるか。
イエスのキリストであることを否定する者ではないか。
父と御子とを否定する者は、反キリストである。
御子を否定する者は父を持たず、み子を告白する者は、また父を持つ」、
それだから、主に在る者は、そのかけがえのない「既得性」を固守せよ、という(ヨハネの第一の手紙2:18以下)。

主を告白する者たちの「既得性」とは何か。
「すでに神の子である」ということです(ヨハネの第一の手紙3:1)。

その「既得性」を貫く者は「彼(キリスト)がきよくあられるように、自らをきよくする」はずです(ヨハネの第一の手紙3:3)。

「神の子(キリスト)が現れたのは、悪魔のわざを滅ぼしてしまうためである。」

それ故、
「すべて神から生れた者は、罪を犯さない」、
「その人は、神から生れた者であるから、罪を犯すことができない」という(ヨハネの第一の手紙3:4以下)。

このヨハネの第一の手紙の初めに、この手紙の目的は、信仰者が、「罪を犯さないようになるため」であるといわれていたことを再び想起させるのが、この断定です(ヨハネの第一の手紙2:1)。

すると、一見この両表現は矛盾しています。

その矛盾は何をいったい意味しているのでしょうか。

それは信仰によって義と認められた者に求められる「ロギーゾマイ」(確認)に当たるといえるのでしょう(ローマ人への手紙6:11、下記参照)。

【引用】
「このように、あなたがた自身も、罪に対して死んだ者であり、キリスト・イエスにあって神に生きている者であることを、認むべきである。」(ローマ人への手紙 6:11)


この「認む」は、実際勘定が合わないにも拘らず、額面どおりに受けとることを意味していました。

ヨハネの第一の手紙も、「すべて神から生れた者は、罪を犯さない」という前提として、「わたしたちは、すでに神の子なのである」と言っています(ヨハネの第一の手紙3:1-2)。

「神の子」としての上からの身分宣言に与る者は、またひとしく、「罪を犯さない」という、上からの宣言を、額面どおり受けとる他に生き方はないはずだということです。

主を告白する者は、贖罪の既得性にあります。

キリスト者の課題(自力的精進)は、キリストに在って与えられている、上からの賜物に先立たれていればこそ、この贖罪の既得性に立つ課題を放棄することは、賜物を否定していることでしかない、ということでしょう。

A主告白的交わりにおける贖罪愛の遡源性(ヨハネの第一の手紙3:10-4章)

この部分でも、本書独特の記述法にならって、まず、
「わたしたちは互いに愛し合うべきである」
といって、直ちにまた、
「わたしたちは、兄弟を愛しているので、死からいのちへ移ってきたことを、知っている。
愛さない者は、死のうちにとどまっている」(ヨハネの第一の手紙3:12対3:14)
といって、「未だ」と「既に」の順序をくつがえす論法をくり返しいます。

しかし主告白の交わりを支配すべき愛は、いわゆるヒューマニズの延長としての愛ではありません。

それは「下からの愛」であって「上からの愛」とはその源がちがいます。

「上からの愛」は、贖罪愛に根ざすものです。

「主は、わたしたちのためにいのちを捨てて下さった。
それによって、わたしたちは、愛ということを初めて知った」(ヨハネの第一の手紙3:16)のだからです。

この「上から」の贖罪愛を、神からのそれとして保証するものは、聖霊です(ヨハネの第一の手紙3:24)。

この聖霊の保証する贖罪愛は、「上から」のものという遡源性によって、「真理の霊」と「迷いの霊」とを峻別します。

「イエスを告白しない霊は、すべて神から出ているものではない。
これは反キリストの霊」
であり、その「反キリスト」がすでに、戦闘を開始している。

しかし、この反キリストの挑戦に対しても勝たしめるのは、キリストに在る「既得的勝利」に立つ姿勢である。

「子たちよ。
あなたがたは神から出た者であって、彼らにうち勝ったのである。
あなたがたのうちにいますのは、世にある者よりも大いなる者なのである。
彼らは世から出たものである。
ーーしかし、わたしたちは神から出たものである」(ヨハネの第一の手紙4:1-6)
と言っています。

主告白の交わりは、「知・信・行」が一元的な、全存在的な事柄ですから、
「世の富を持っていながら、兄弟が困っているのを見て、あわれみの心を閉じる者には、どうして神の愛が、彼のうちにあろうか。
子たちよ。
わたしたちは言葉や口先だけで愛するのではなく、行いと真実とをもって愛し合おうではないか。
それによって、わたしたちが真理から出たものであることがわかる」(ヨハネの第一の手紙3:17)
と言い、そのような愛は、愛の実践者が賞讃される性格のものとはちがって、むしろ、そのことにより、人間を超えた神があがめられる出来事であるという。

贖罪愛の遡源性が主告白の交わりとして強調されるゆえんです(ヨハネの第一の手紙3:11、3:19、4:7、4:10、4:12、4:14、4:15、4:16、4:19)。

B主告白的交わりにおける既得的勝利(ヨハネの第一の手紙5章)

教会の首として告白される主は、十字架と復活を通して、「既に世に勝った主」です(ヨハネによる福音書12:31、16:33)。

【引用】
「今はこの世がさばかれる時である。
今こそこの世の君は追い出されるであろう。」(ヨハネによる福音書 12:31)


「これらのことをあなたがたに話したのは、わたしにあって平安を得るためである。
あなたがたは、この世ではなやみがある。
しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている。」(ヨハネによる福音書 16:33)


主告白的交わりに入れられた者は、この主における「既得的勝利」を自己の「現実的勝利」とするよう挑戦されています。

「すべて神から生れた者は、世に勝つからである。
そして、わたしたちの信仰こそ、世に勝たしめた勝利の力である。
世に勝つ者はだれか。
イエスを神の子と信じる者ではないか」(ヨハネの第一の手紙5:4-5)と。

この勝利者は、受肉し、十字架上にその血を流され、復活し、聖霊によって証しされた、永遠の命であるが故に、死をのみこまれた勝利者イエス・キリストです(第一コリント15:55、第一ヨハネ5:6-8)。

その永遠の命の交わりにおかれているのが、教会としての主告白の交わりです(ヨハネの第一の手紙1:2)。

しかし、「上から」のキリストが「下から」の反キリスト的勢力によって挑戦されたように、主告白の交わりに入れられた者も、悪しき者の支配下にある全世界から挑戦される運命にあります(ヨハネの第一の手紙5:19)。

そのような運命にさらされている者としての心構えは、やはり、
「すべて神から生れた者は罪を犯さないこと」
と、わたしたちは、
「神から生れたかたが彼を守っていて下さるので、悪しき者が手を触れるようなことはない」
という、主に在る「既得的勝利」の再確認です。

ロマンチストは、情念だけが先行し、夢の実現への長い、複雑な工程を無視します。
「テロ」は、その代表格です。
イエスの弟子たちは、情念に走りませんでした。
正しい目的のためには、正しい手段を踏んでいます。


posted by 道川勇雄 at 06:48| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする


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