2019年07月21日

創世記

創世記

「隠れた歴史支配者の選民教育による『万民祝福の構図』」

@被造者的越権による宇宙の混沌化(創世記1-11章)

旧約聖書は、「選民史」です。
選民史として、新約聖書の「教会史」に対応しています。

選民史の端緒は、創世記12章に登場する選民の太祖アブラハムの召命です。
したがって1-11章は、選民史の序奏です。

「はじめに神は天と地とを創造された」
として紹介される神は、「原理」(根本となる仕組み)とか、「第一要因」(すべてには原因があり、その原因の連鎖を遡ると「第一原因」にたどりつくと考える。)としての神ではなく、あくまでも、全宇宙の「創造主」としての「人格神」(人間的な容姿・意志・感情をもって、人間と交わりを結ぶ神。 未開宗教のマナのような力の観念や近世の合理主義的宗教の神性の観念とは違い、特に人格性が明瞭。)。

「神は、
『光あれ』
と言われた。
すると光があった」
という表現の反復は、人の言葉と異なって、「神の言は必ず成る」ということ。
この信仰は、聖書全体を貫いて力説されています。

神の言葉は、語られると必ず実現します。
「このように、わが口から出る言葉も、むなしくわたしに帰らない。
わたしの喜ぶところのことをなし、わたしが命じ送った事を果す」(イザヤ書55:11)
と言われている通りです。

神の言葉は語られると必ず成る。
だが神の言葉が成るのは、「人の欲する時」とか、「人の欲する形」とかにおいて成るのではありません。
ただ、神のよしと視たもう時に成るのです。
これが、聖書の一貫した見方です。

宇宙万物の創造のわざの頂点として人間が創造されました。
人間は、他の被造物とは異なり、神の言葉を聴き分けることが出来る存在、「人格的主体」としてつくられています。

「自由と責任の主体」
これが人格的主体としての人間です。

人格的主体としての人間は、あくまでも「被造者としての主体」にしかすぎません。
「創造主」に対する「被造者」というこの秩序を想起させるのが、エデンの園で与えられた禁令です。

「善悪を知る木から取ってーー食べると、きっと死ぬ」(創世記2:17)。

創造主の言葉を聴き分けうる存在として造られた人間には、神の言葉の「解釈のし方」が問われています。

この禁令の言葉は、創造主に対する信頼で受けとられるか、それとも自己の判断を信頼するかの二者択一を迫っています。

へびの判断は、
「食べても決して死なないだろう」
という表現のように、神から人の目をそらそうとするサタンの言葉ですが、禁令を犯した人間の側に責任のあることは、
「その木を見ると、それは食べるに良く、目に美しく、賢くなるには好ましいと思われた」(創世記3:1以下)
という解説に余すところなく示唆されています。

ここで問われているのは、「創造主への信頼」か、「自己信頼」かの二者択一です。
「ひとは自己を信ずる度合に応じて神を疑う」(H・ティーリッケ)。

神・創造主への信頼で、この禁令が聞かれないーー神を畏れる心の伴わない知識の独走は、破壊的にしか働きません。
創造主の禁令は、そのことをおもんぱかった、遠く及ぶ配慮を証しする言葉です。

「神のように善悪を知る者となる」というサタンの誘惑の言葉は、禁令を破ることは、被造者的越権であることを示唆しています。
神の代わりに自己を立てる行為、すなわち、神に対する「主客倒錯」に他ならないのです。

創世記は、宇宙を初めとして、人類、人種の起源に言及していますが、その関心は、やはり、人間の原罪の事実にしぼられています。

きわめて素朴な、神話的表象を通してですが、神と人間との秩序である、創造主と被造者の主客関係の倒錯、ひいては被造者的越権に、原罪の根拠をみています。

神の如くなろうとする被造者的越権が、神と人との交わりの喪失であることは、
「人とその妻とは主なる神の顔を避けて、園の木の間に身を隠した」(創世記3:8)
という記述に明示されています。

創造主と被造者の交わりの断絶は、やがて被造者対被造者の交わりに暗い影をおとします。

神に背いた行為を問われた原人は、相互に責任をなすりあいました。

創造主を創造主とするとは、創造主を畏れる在り方ですが、創造主への畏れを拒否した原罪は、被造者相互の関係にもあるべき「畏れ」を失わせたのです。

それは自由と責任の主体としての人格の分裂をまねきました。

原人相互の「責任転嫁」は、「自由は求めるが、責任は負わない」という人格的崩壊を暴露しています。

カインの弟殺しを初めとして、加速度的な罪悪の拡大が、
「主は人の悪が地にはびこり、すべてその心に思いはかることが、いつも悪い事ばかりであるのを見られた。
主は地の上に人を造ったのを悔いて、心を痛め、
『わたしが創造した人を地のおもてからぬぐい去ろう』」(創世記6:5以下)
という叙述を生み出しています。

「ノアの洪水」は、人を地の表からぬぐい去るという、「刑罰的・環境改造的」方法ですが、それが継続的に採用されなかったことは、地上のすべての生物との間に立てられた「永遠の契約」の提示によって示唆されています。

また、
「町と塔とを建てて、その頂を天に届かせよう」(バベルの塔)
とする企ては、人間の自律的文化形成力を証しするものですが、同時にそこに隠されている、「自己神格化」と、「相互分裂」への宿命をはらむものであることが予見されています(創世記11:1以下)。

「刑罰的改造」でも「環境的改造」でもないとしたら、より根源的、より徹底的な改造とは何でしょうか。

A神言に賭ける選民の教育(創世記12-36章)

創世記12章が、創世記全体の分水嶺であることは、次のような角度からあきらかです。

創世記11章までの神は、「創造主」としての神であるのに対し、選民の太祖アブラハムの召命を語る創世記12章からは、イスラエルの「選び主」としてしぼられた神の自己啓示とみられます。

創造主という表象は、全世界の民族に対する「普遍愛」を強調しますが、選び主という表象は、当然、イスラエルという特定の民族に対する「特殊愛」を高調します。

聖書とりわけ旧約聖書は、全体的には、一見相反する「普遍愛」と「特殊愛」の両極の相剋からなっています。

「あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい。
わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。
あなたは祝福の基となるであろう。
あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。
地のすべてのやからは、あなたによって祝福される」(創世記12:1以下)
という、アブラハム召命の言葉は、イスラエルの選びは、イスラエルのためではなく、「世界万民の祝福」のためであることを明示しています。

しかも、そこでは、選民が、万民祝福のための「実験民族」であることは、後の記述を通して示されることですが、「選び主」のイスラエルに対する「特殊愛」と、「万民祝福を意図する普遍愛」とは、完全な緊張で示されています。

アブラハムは、あきらかにイスラエルの太祖として召されながら、同時に人種を超えて万民の父とよばれています(創世記17:4-5)。
それは彼が、神の召命の言葉をきいて、
「主が言われたようにいで立った」(創世記12:4)
からでした。

この極端に短い記述の中に、あらゆる人間的拠りどころをけって、文字どおり、神の約束の言葉に全存在を「賭けた」姿勢が示されています。

しかし、創世記の目的は、神の約束の言葉に全存在を「賭ける」ことが徹底するために、アブラハムさえ、いかにきびしく訓練されなければならなかったかをのべることにあります。

年老いたアブラハムには、相続する子が容易に与えられませんでした。
彼にとっては、そのことが、神の約束が実現するための、絶対的条件でしたから、待ちきれず、僕エリエゼルを相続人に定めようとしました。
でもそれは彼の不信仰を暴露する出来事でした。
その不信仰を指摘されることで、 アブラハムは、改めて、神の約束の言葉に賭けることは、人間的条件「の故」を全面的に否定することであることを、学ばされたのです。

さらに年老いてようやく与えられた独り子イサクを、
「燔祭としてささげなさい」(創世記22章)
との神の命令の記事も、神の約束が実現するのは、そのための人間的条件(イサク)の故ではなく、ひたすら神の約束の言葉なるが故に、であることを徹底させるための、極限的試みでした。

イサクの双子、ヤコブとエサウの物語では、決して、ヤコブが理想化されて描かれず、むしろその狡猾さがあくどく露出されていますが、神に対する畏れ、という点では、あきらかにエサウは落伍者でした。

それは、彼が「長子の特権を軽んじた」(創世記25:34)という人物描写であきらかでです。

何故ならイスラエル民族として、長子の権は、神の祝福を受けつぐ規定であり、長子の権を軽んずることは、すなわち祝福の与え主である神を軽んずることを意味したからです。

他方、狡猾なヤコブが神から「イスラエル」と命名されて祝福を受けるまでには、さまざまの試練を経なければならなかったのです。

B隠れた歴史支配者の証人の教育(創世記37-50章)

人は、歴史の中におかれながら、歴史解明の鍵を持っていません。
そこに文明人の限界があります。

ところで、その鍵をにぎる者として登場るのが創世記のヨセフです。

ヨセフとその兄弟たちの間柄は、
「あの夢見る者(ヨセフ)がやって来る。
さあ、彼を殺して穴に投げ入れ、悪い獣が彼を食ったと言おう。
そして彼の夢がどうなるか見よう」(創世記37:19以下。37:5)
といった兄たちの言葉に明示されています。

兄たちの手によって奴隷商人に売り渡され、エジプトのパロの役人に買いとられたヨセフについては、
「主がヨセフと共におられたので、彼は幸運な者となり、その主人エジプトびとの家におった。
その主人は主が彼とともにおられることと、主が彼の手のすることをすべて栄えさせられるのを見た」(創世記39:1以下)
としるされています。

さまざまの流転を経つつ、夢の解明者として重じられながらヨセフは栄光を主に帰して、
「解くことは神によるのではありませんか」(創世記40:8)
といっています。

異教の神を奉ずるパロさえ、ヨセフの夢の読解力を、神に由来するものとして認めざるをえなかったのです。
「われわれは神の霊をもつこのような人を、ほかに見いだし得ようか。……
神がこれを皆あなたに示された。
あなたのようにさとく賢い者はない。
あなたはわたしの家を治めてください」(創世記41:38以下)
といって、パロはヨセフをエジプト全国のつかさに任命しました。

エジプトのつかさとなってから、その兄弟たちと再会した時、兄弟たちは、かつて亡き者にしようとしたヨセフの前で、ただ驚き恐れました。

その彼らに向かって、
「わたしはあなたがたの弟ヨセフです。
あなたがたがエジプトに売った者です。
しかしわたしをここに売ったのを嘆くことも、悔むこともいりません。
神は命を救うために、あなたがたよりさきにわたしをつかわされたのです。
ーーそれゆえわたしをここにつかわしたのはあなたがたではなく、神です」
(創世記45:1以下)
とヨセフは、「人間中心的な歴史解釈」を、「神中心的歴史解釈」から受け取り直して語っています。

隠れた歴史支配者としての神への信仰によって再解釈された歴史観です。

創世記の終わりに、その点は、ヨセフの口を通して反復されています。

「恐れることはいりません。
わたしが神に代ることができましょうか。
あなたがたはわたしに対して、悪をたくらんだが、神はそれを良きに変らせて、今日のように多くの民の命を救おうと計られました。
それゆえ恐れることはいりません」(創世記50:19以下)
という言葉を通して、隠れた歴史支配者は人の悪意をも変容し、逆用しつつ、その万民祝福の計画を遂行する主として証しされている。
これこそ、神言に「賭ける」選民への極限的挑戦と言えます。


posted by 道川勇雄 at 09:41| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする


< ▲トップページへ戻る >
ツイッター始めました。お気軽にフォロー・コメントどうぞ。(Twitter)