2019年07月21日

出エジプト記

出エジプト記

「反神的権力を逆用する契約主の恵みによる選民の確立」 

@反神的権力を逆用する選民解放者(出エジプト1章-15:21)

選民としての確立は、「契約の主」である神の自己開示に基づいています。

「出エジプト」という表題に明記されているように、エジプトに奴隷とされている歴史的、具体的民族であるイスラエルと関わる神は、同時に、イスラエルの出エジプトを阻止する世俗的権威と関わることになります。

その歴史的状況が、
「多くの日を経て、エジプトの王は死んだ。
イスラエルの人々は、その苦役の務のゆえにうめき、また叫んだが、その苦役のゆえの叫びは神に届いた。
神は彼らのうめきを聞き、神はアブラハム、イサク、ヤコブとの契約を覚え、神はイスラエルの人々を顧み、神は彼らをしろしめされた(神に届いた)」(出エジプト2:23以下、3:7)
のです。

出エジプトの出来事で顕著なことは、イスラエルの神に背反するエジプト王・パロの悪意は、実は神によって逆用されている、ということです。

「わたし(主)があなた(パロ)をながらえさせたのは、あなたにわたしの力を見させるため、そして、わたしの名が全地に宣べ伝えられるためにほかならない」(出エジプト9:16)
がそれです。

この部分でさらに顕著なことは、出エジプトの指導者モーセに注目させず、「主の強い手」によったことの強調です(出エジプト3:19、6:1、9:3、13:3、13:14、13:16等)。

【事例】
「しかし、エジプトの王は強い手をもって迫らなければ、あなたがた(イスラエル人)を行かせないのをわたし(主、神)は知っている。」(出エジプト記 3:19
)

エジプトからの解放、すなわち奴隷状態からの救出は、恵みによることを銘記させるためです。

この点は、出エジプトの最後の手段が、主の「過越」とされていることによっても徹底されています(出エジプト記12章)。

「その夜わたし(主)はエジプトの国を巡って、エジプトの国におる人と獣との、すべてのういごを打ち、またエジプトのすべての神々に審判を行うであろう。
わたしは主である。
その血はあなたがたのおる家々で、あなたがたのために、しるしとなり、わたしはその血を見て、あなたがたの所を過ぎ越すであろう」(出エジプト記12:12以下)
と言われています。

A「契約の主」を試みる選民の訓育(出エジプト記15:22-8章)

奴隷イスラエルから、選民となる道のりは遠いのです。
「奴隷根性」から、「全人類のモデルの自覚」(選民)への転換の道程です。

出エジプトの成就を祝い、モーセの讃美に声を合わせた民が、その直後には、つぶやく民としての正体を現わしました。

エジプトの苦役の下のうめきをきかれた「契約の主」は、彼らのつぶやきをもきかれたのです。

選民として知らなくてはならないことは、主によって立てられた指導者へのつぶやきは、直ちに、主に向かうつぶやきだということでした。

【注意】
(出エジプト記7:1)
「主はモーセに仰せられた。
『見よ。
わたしはあなたをパロに対して神とし、あなたの兄アロンはあなたの預言者となる。」
とあります。

これはモーセを「神の代理人」にするという意味です。
モーセは神から告げられたことをアロンに告げ、そしてアロンがエジプト王・パロに宣言します。
したがって、エジプト王・パロにとっては「モーセが神のような存在」になるということです。

教会時代のいまは、法王、神父、牧師、宣教師などは、いわば「教職」(使徒6:1以下)であって、「神の代理人」ではありません。
聖書と違った言動があれば徹底的に論戦すべきです。


彼らに向かってモーセは、
「主はあなたがたが主にむかってつぶやくのを聞かれたからである。
あなたがたは、いったいわれわれを何者として、われわれにむかってつぶやくのか」、
「あなたがたのつぶやくのは、われわれにむかってでなく、主にむかってである」(出エジプト記16:7以下)
とくり返しています。

出エジプトから約束の地カナンに至るまでの四十年間、イスラエルの人々は、天からのパンである「マナ」をもってやしなわれました(出エジプト記16:35)。

しかしそれについては日々の分を日ごとに集めるという規定がついていました。

それは、朝に夕に、日毎に、出エジプトさせた主を覚え、主が日毎の糧の与え主であることを各自に銘記させるためでした。

また安息日を「主の日」として聖別するため、六日目には二倍のパンを集めることを命じられていました。

さらに他の訓育とみられるのは、与えられるマナを多く集めた者も、すくなく集めた者もいったん全部を出させて、全体に公平に分配する、という方法がとられたということです(出エジプト記16:13以下)。

それは人間各自の能力の差を認め、
「働く時は能力に応じて働き、受ける時には必要に応じて受ける」
という原則を各自に銘記させるためでした。

荒野を旅する日々の食糧配分という、きわめて素朴な記述ですが、能力を異にする人間社会での、「平和共存のための不可避的条件」を示唆しています。

これはやがて、定住生活に入ると、五十年目毎の「ヨベルの年」(イエスは、ご自身を「ヨベルの主」として自現されています。ルカ4章16-21の「主の恵みの年」がそれです。)の規定において活用されています(レビ記25章)。

イスラエルの民の背信は、つぶやきと主を試みる罪として、しばしば反復されました。

試みることは主においてのみふさわしいのに、選民が逆に主を試みたのは「主客倒錯」です。

B契約に与る選民の聖別と連帯(出エジプト記19-31章)

契約の民に求められることは、「契約の主」のための「聖別」と、万民の罪をとりなすための「連帯」との、両極緊張的在り方です。

出エジプト後、三ヶ月目に到達したシナイの荒野で、モーセを通してイスラエルに告げられた契約は、
「あなたがたは、わたしがエジプトびとにした事と、あなたがたを鷲の翼にのせてわたしの所にこさせたことを見た。
それで、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば、あなたがたはすべての民にまさって、わたしの宝となるであろう。
全地はわたしの所有だからである。
あなたがたはわたしに対して祭司の国となり、また聖なる民となるであろう」(出エジプト記19:4以下)
と言われています。

「契約の主」は、選民を出エジプトさせたもう恵みの主です。

契約を守るということは、選民にとっては、その恵みに答えることです。

選民の在り方は、「祭司の国」「聖なる民」です。

「祭司の国」で象徴されているのは、神の前に、万民の罪をとりなすことで、万民との深い次元での「連帯」を意味し、「聖なる民」で象徴されているのは、神のために「聖別」されることです。

「連帯」は、他に対して開かれた在り方であるのに対し、「聖別」は、他から閉ざされた在り方です。

「連帯」と「聖別」とは、相反する両極です。

選民としては、この両極を緊張的に保たなければなりません。

この両極を緊張的に保つための条件となるのが「主の声に聞き従う」ということとして示されています。

神との「垂直関係の規定」は、偶像礼拝の禁止、安息日の厳守です。
「社会的水平関係」の規定からなる十誡をはじめ、細則が与えられていますが、それらを貫くのは、無条件に上から与えられた恵みに触発される畏れを、あらゆる「対人関係にも映し出してゆく」ことです。

選民を出エジプトさせた目的は、「契約の主」が選民の中に住むためであり(出エジプト記29:46)、その目的の実現として、聖所を造る細かい規定が与えられました(出エジプト記25:8)。

C契約の民の背信行為のとりなし(出エジプト記32-40章)

契約は、本来、契約を結ぶ資格ありと認めた者、相互の間に初めて成り立つものです。

しかし、イスラエルとその選び主との間の契約は、絶対に相容れない、「聖なる者」と「汚れた民」との間の契約です。

出エジプト記は、その契約関係のはなはだしい矛盾を、赤裸々に暴露します。

その極端な例としてあげられているのは、モーセの不在中におこった、子牛の像の鋳造でした(出エジプト記32章)。

「ああ、この民は大いなる罪を犯し、自分のために金の神を造りました。
今もしあなたが、彼らの罪をゆるされますならばーー。
しかし、もしかなわなければ、どうぞあなたが書きしるされたふみから、わたしの名を消し去って下さい」(出エジプト記32:31以下)
とは、民の罪を神の前にとりなしたモーセの言葉です。

そのとりなしも、主が「契約の主」である、というただその一点にすがるより他はないのです。

それを示しているのは、モーセの、
「わたしとあなたの民とが、あなたの前に恵みを得ることは、何によって知られましょうか。
それはあなたがわたしたちと一緒に行かれて、わたしとあなたの民とが、地の面にある諸民と異なるものになるからではありませんか」(出エジプト記33:16)
という訴えです。

それに対して、
「わたし(主)は恵もうとする者を恵み、あわれもうとする者をあわれむ」(出エジプト記33:19)
という言葉が、「契約の主」の回答としてのべられています。


posted by 道川勇雄 at 09:45| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする


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