2019年07月21日

レビ記

レビ記

「選民性の矛盾を自覚させる祭儀的聖別」

先の出エジプト記が「選民の確立」の書で、レビ記は「選民の聖別」の書です。

出エジプト記は「契約の主」の自己開示、レビ記は「聖別する主」の自己開示です。

レビ記の礼拝規定の煩雑さと、あくどいまでの反復に抵抗を覚えない人はいないでしょう。

これらの規定が、「誰に向かって」「いつ」「どこで」語られたかを考えてみる必要があります。

イスラエルが選民とされたことは、何ものによっても制約されない、絶対に自由な神が、選ばれる「ねうち」のない汚れた民族と契約関係を結んだという、絶大な矛盾の出来事です。

「契約」は、契約の当事者を拘束します。
結婚、就職、賃貸借、業務etc.みな当事者を拘束します。

「何ものによっても制約されない、絶対に自由な神」が、契約によって「拘束される者」になったことを意味します。
「イエスの十字架」は、契約の神の側の履行です。

レビ記による、聖なる「契約の主」の選民に対する至上命令は、何らの譲歩もなしに、
「あなたがたの神、主なるわたしは、聖であるから、あなたがたも聖でなければならない」(レビ記10:3、11:44、19:2、20:7、20:26、22:32等)
という言葉を反復しています。

【事例】
「その時モーセはアロンに言った、
『主は、こう仰せられた。
すなわち《わたしは、わたしに近づく者のうちに、わたしの聖なることを示し、すべての民の前に栄光を現すであろう》
アロンは黙していた。』」(レビ記 10:3)


人間すべてに欠落しているのが、「聖なるもの」の感覚です。
人は、真・善・美の感覚は持っていますが、「聖」の感覚はありません。
生来、欠落している感覚を、汚れている上に、心のかたくなな人間に培養するという課題の至難さは、まさに想像を絶する事柄です。

@「聖なるもの」への畏れと狎れ(レビ記1-11章)

レビ記はその冒頭から「供え物」の規定に入ります。

供え物とは、それなしにはとうてい近づけないほど神から隔絶した人間が、それによって神に近づくことを許される象徴です。

その規定で顕著なことは、「全きもの」のみを献げる、ということです。
献げものの対象である「聖なる主」に対する「畏れ」の要請です。

人の世は、汚れとの接触の中にあります。
ですから、人が全く「聖くある」ことは到底のぞめません。
だから、そのまま見のがすべきだと、レビ記は言いません。

そこには「罪に対するつぐない」が求められています。

「自覚的な罪」だけでなく、「無自覚的な罪」についても「つぐない」を求める、ということが聖なる神の要請です。

「また、もし彼が人の汚れに触れるならば、その人の汚れが、どのような汚れであれ、それに気づかなくても、彼がこれを知るようになった時は、とがを得る」(レビ記5:3以下)
といい、その犯した罪のための償いとして供えものをするように命じられています。

レビ記は、汚れとの接触を免れられない者たちに対して、「聖なるもの」と「汚れたもの」とを峻別することを求めることで、「聖なるもの」に対する鋭敏な感覚を訓練する、という緊迫感にあふれています。

「聖なるもの」に対する鋭敏な感覚とは、「聖なるものへの畏れ」に他なりません。
「畏れ」の感覚と対立するのが「狎れ」です。

レビ記は、この「狎れ」の致命的なことをイスラエルのすべての人々に銘記させるように、主の前に、「異火(ことび)」をささげ、その結果死に至った実例をあげています。

「異火」をささげたのは、祭司アロンの子ナダブとアビフでした。

聖なる祭司職を任じているアロンの子たちは「聖なるもの」に対しては、その幼時から関心をもたされていたはずです。
それなのに、厳禁されていた「異火」をささげた行為は、「聖なるもの」に対する「狎れ」を暴露する出来事でした。

「これは主の命令に反することであったので、主の前から火が出て彼らを焼き滅ぼし、彼らは主の前に死んだ。
その時モーセはアロンに言った、
『主は、こう仰せられた。
すなわち、
《わたしは、わたしに近づく者のうちに、わたしの聖なることを示し、すべての民の前に栄光を現すであろう》
アロンは黙していた」(レビ記10:1以下)
としるされています。

「狎れ」の恐ろしさは、「聖なるもの」と「汚れたもの」との弁別力を失わすことです。

会見の幕屋に入る時、ぶどう酒と濃い酒を飲むことを禁じる理由も、また、
「これはあなたがたが聖なるものと俗なるもの、汚れたものと清いものとの区別をすることができるため」(レビ記10:8以下、11章全体、11:44-47等)
と、くり返し強調していることに注目させられます。

【事例】
「『わたしはあなたがたの神、主であるから、あなたがたはおのれを聖別し、聖なる者とならなければならない。
わたしは聖なる者である。
地にはう這うものによって、あなたがたの身を汚してはならない。
わたしはあなたがたの神となるため、あなたがたをエジプトの国から導き上った主である。
わたしは聖なる者であるから、あなたがたは聖なる者とならなければならない』
これは獣と鳥と、水の中に動くすべての生き物と、地に這うすべてのものに関するおきてであって、 汚れたものと清いもの、食べられる生き物と、食べられない生き物とを区別するものである。」(レビ記 11:44-47)


いわゆる「食物禁忌」です。

A「聖なるもの」の要請する「あがない」(レビ記12-17章)

祭儀的聖別を通して、清いものと汚れたものとの峻別を強調するレビ記は、そのことの徹底のために、「聖なるものの要請するあがない」に注目させます。

その強調のし方は、汚れた者である人間に対し、とりわけ不浄の極限におかれている人間に対して、なお「聖別されたい」という主体的願望を触発しつづける点にみられます。

イスラエル全体のための大贖罪日の規定に関しては、
「こうして聖所と会見の幕屋と祭壇とのために、あがないをなし終えたとき、かの生きているやぎを引いてこなければならない。
そしてアロンは、その生きているやぎの頭に両手をおき、イスラエルの人々のもろもろの悪と、もろもろのとが、すなわち、彼らのもろもろの罪をその上に告白して、これをやぎの頭にのせ、定めておいた人の手によって、これを荒野に送らなければならない。
こうしてやぎは彼らのもろもろの悪をになって、人里離れた地に行くであろう。
すなわち、そのやぎを荒野に送らなければならない」(レビ記16:20以下)
と言われています。

これは今も、「アザゼルの山羊」あるいは、「スケープゴート」という言葉として使われています。
身代わりに他人の罪を負わされる者、不安や憎悪のはけ口として迫害の標的にされる者のことです。

この規定を通して、選民は、それぞれの罪とがは、消されるものではなく、その罪とがは、必ず「代わって負う者」を要請することを銘記させられました。

聖なるものに召されて、聖なる者とよばれる選民性が、絶大な矛盾であるかを直視しつづける以外に、「聖なるもの」の感覚は培われないのです。

選民性の矛盾が、矛盾として自覚されるのは祭儀的聖別による、というのが、レビ記の意図です。

B社会生活における聖別の適用(レビ記18-27章)

選民にとっての不断の誘惑は、周囲の異教的慣習にまき込まれて、その独自な使命感を失ってしまうこと、つまり「ミイラ取りがミイラになってしまう」危険でした。

それへの配慮が、レビ記18章冒頭の言葉です。
「わたしはあなたがたの神、主である。
あなたがたの住んでいたエジプトの国の習慣を見習ってはならない。
またわたしがあなたがたを導き入れるカナンの国の習慣を見習ってはならない。
また彼らの定めに歩んではならない。
わたしのおきてを行い、わたしの定めを守り、それに歩まなければならない。
わたしはあなたがたの神、主である」(レビ記18:2以下)
と言われています。

選民の拠るべきおきての特色といえば、その根本規定は、「人間も土地も聖なる神の所有である」という一点です。

それはすでに出エジプト記の契約の中でのべられていたことで、
「契約を守るなら、イスラエルは主の宝となるであろう。
全地は主の所有だからである」(出エジプト記19:5)
です。

淫らな性関係は、相手の人格を犯すことであり、また神につける身を汚すこととしてきびしく戒められています。

他国人をも、
「あなたがたと同じ国に生れた者のようにし、あなた自身のようにこれを愛さなければなない。
あなたがたもかつてエジプトの国で他国人であったからである。
わたしはあなたがたの神、主である」(レビ記19:33)
と言われています。

安息日の厳守、口寄せ、占師の厳禁等の規定も、その都度、聖なる主との「垂直的関わり」からーー聖なる神に所有されている一人一人としての、聖なるものへの畏れからーー「社会的在り方」は規制されるべきことが明示されています。

人間だけでなく、「土地も神の所有」という根本規定の強調が目立ちます。

「安息の年」の規定で、六年間用いた耕地も、七年目には、「地に全き休みの安息を与え」(レビ記25:2以下)るため配慮しなければならないということです。

さらに、「安息の年」を七度かぞえた五十年目は、「ヨベルの年」(イエスは、「ヨベルの主」)として聖別されています(レビ記25:8以下)。

「ヨベルの年」は、奴隷は無条件に釈放され、貧しさのため売っていた土地は、無条件に元の所有者に返還される、「自由の回復の年」として守るべきでした。

これはすでに出エジプト記(16章)で「マナの分配法」の規定として素朴に示されていたことの社会制度化です。

能力差のさけられない人間社会で、当然結果する、経済的格差が、五十年目毎のヨベルの規定によって是正されるべきでした。

この規定は、「能力に応じて働き、必要に応じて受ける」ことを意味し、したがって、結論的には、「より強い者が、より弱い者の弱さを負う」ことの要請です。

これは当然、より強い者から、「特権意識」をうばう法則でもあります。

これを一般社会に適用するためには、より強い者からの強烈な抵抗が予想されますから「統制」的制度の導入はさけられないでしょう。
共産主義の祖・マルクスは、この「ヨベルの年」を下敷きにして「資本論」を書きました。
もちろん「統制」が必須になっています。

でも聖書は「統制」の途をとりません。

イスラエルにおいてさえ、「ヨベルの年」の規定が必ずしも継続的に実施された証拠はありません。

ただ、このヨベルの規定の背後には、イスラエル選民に限って、このことに対して、異次元からの理解がありました。

「人間も土地も元々神の所有」であり、恵みにより、無条件に与えられたものに対しては、「所有権に基づく特権意識」は許さるべきではない、という理解です。

新約聖書のイエスの十字架は、「イエスのもたらす神の国」と「ユダヤ人の特権意識」との激突の客観的出来事です。


posted by 道川勇雄 at 09:52| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする


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