2019年07月21日

民数記

民数記

「神聖を犯す不信仰の招いた選民的淘汰」

先立つレビ記が、礼拝規定に終始する「点的」であるのに対して、民数記は、「約束の地」に向けての前進という「線的」描写です。

両書ともに、その目的は、神の「聖なること」の選民としての体認におかれていますが、レビ記では、「清いものと汚れたものとの対照」で示したのに対して、民数記では、前進途上の「その都度の状況判断」との関わりで、「神の聖」を、絶対的指標として仰がせます。

選民の荒野放浪の四十年は、選民の不信仰の客観的自己暴露を語ると同時に、選民の選民たるゆえんは、あくまでも、「神の聖」をさし示すためであることを銘記させます。

「神の聖」をさし示すことこそ目的であり、選民はその目的のための手段だということです。

@選民の不信仰による状況判断の暴露(民数記1-21章)

シナイの荒野からの選民の前進は、民数記という書名に表われているように、人口調査で始められています。

それは「約束の地」に向けての前進がきびしい秩序を要請されたことを示します。

しかもその秩序とは、「神の聖」に対する鋭敏な感受性を全体に浸透させることに向けられていました。

「宿営の進むとき、アロンとその子たちとが、聖所と聖所のすべての器をおおうことを終ったならば、その後コハテの子たちは、それを運ぶために、はいってこなければならない。
しかし、彼らは聖なるものに触れてはならない。
触れると死ぬであろう」(民数記4:15以下)
と言われている通りです。

宿営を清く保つために細心の注意が要請されているのも、それは「わたし(主)がその中に住んでいるからである」(民数記5:3)。

そういう秩序での態勢の下での前進をはばんだのは、欲心をおこし「災難に会っている人のように、主の耳につぶやいた」民たちでした(民数記11:1以下)。

「主の強い手」を体認させた出エジプトの体験は、いったいどこに行ってしまったか。
彼らに対する「選び主」の失望の深さが、
「主の手は短かろうか。
あなたは、いま、わたしの言葉の成るかどうかを見るであろう」(民数記11:23)
という言葉にうかがえます。

選民の卑しさとその不信仰は次に、指導者モーセに対するつぶやきとして、ミリアムやアロンのモーセに対するねたみとして表面化しました(民数記11-12章)。

選民の不信仰を決定的に致命的なものとして暴露したのは、「約束の地」カナンの偵察にさいしての出来事でした(民数記13-14章)。

「約束の地」偵察の報告は全く正反対の二つに分かれました。

一つは、人間的条件の不備に基づく、不信仰による状況判断で、イスラエルの前進をはばむ結果をもたらしました。

ただカレブとヨシュアだけは、「主が良しとされるならば」という言葉に示されているように、主に対する信頼に基づく信仰的状況判断をのべたのです(民数記14:6以下)。

このような相反する状況判断に対して語られたのが、
「わたしの栄光と、わたしがエジプトと荒野で行ったしるしを見ながら、このように十度もわたしを試みて、わたしの声に聞きしたがわなかった人々はひとりも、わたしがかつて彼らの先祖たちに与えると誓った地を見ないであろう。
またわたしを侮った人々も、それを見ないであろう。
ただし、わたしのしもべカレブは違った心をもっていて、わたしに完全に従ったので、わたしは彼が行ってきた地に彼を導き入れるであろう」(民数記14:22以下)
という主の言葉です。

次には更にモーセとアロンがカナン入国を許されない理由としてあげられる出来事に注意をひかれます。

水に渇いたイスラエルの会衆の訴えをきいたモーセが、かつて、「岩を打って」水を出すことができたという過去の経験に基づいて(出エジプト記17章)、その過去の経験による惰性から、「岩に命じて水を出させなさい」という主の言葉があったにも拘らず、「つえで岩を二度打って水を出した」という記事ですが、その時、主はその行為をとがめ、
「あなたがたはわたしを信じないで、イスラエルの人々の前にわたしの聖なることを現さなかったから、この会衆をわたしが彼らに与えた地に導き入れることができないであろう」(民数記20:12以下)
という、審きの言葉でした。

この出来事の解説として、
「これがメリバの水であって、イスラエルの人々はここで主と争ったが、主は自分の聖なることを彼らのうちに現された」
という言葉が改めて付されている点にも注目させられます。

前掲のカナン偵察の場合の状況判断は、不信仰が、人間的条件を拠りどころとしたことに見られますが、このメリバの水の場合の状況判断は、過去の経験を拠りどころとした惰性によることが、不信仰としてきびしく指摘されています。

しかもさらに顕著なことは、主に対するその不信は、「神の聖」をおおいかくす程の致命的なものとして指摘されている点です。
神の聖は、「今ここ」という、その都度の現在的聴従において仰がれるべきだということを指摘する出来事だというのです(民数記20:8以下、出エジプト記17:1以下)。

A異邦人を通して証しされた神的祝福の不変(民数記22-24章)

イスラエルを恐れたモアブの王バラクが、イスラエルを呪うためにやとったのに、かえって、バラムは、神の祝福の言葉の不変性を証しさせられました。
「神ののろわない者を、わたしがどうしてのろえよう。
主ののろわない者を、わたしがどうしてのろえよう。
岩の頂からながめ、丘の上から見たが、これはひとり離れて住む民、もろもろの国民のうちに並ぶものはない」。

「神は人のように偽ることはなく、また人の子のように悔いることもない。言ったことで、行わないことがあろうか、語ったことで、しとげないことがあろうか。
祝福せよとの命をわたしはうけた、すでに神が祝福されたものを、わたしは変えることができない」(民数記23:8以下、23:19以下)
とは、異邦(メソポタミヤ)の占卜者(せんぼくしゃ)の口を通して証しされた、神の祝福の不変性です。

その不信仰の故に、モーセを初めとして、不信仰な選民は、「約束の地」に入ることを拒絶されているこの荒野放浪のさなかで、神の祝福の言葉の不変性の託宣はいったい何を意味するのでしょうか。

B神の聖の証しのための選民の淘汰(民数記25-36章)

その不信仰の罪を暴露する四十年の荒野放浪の後、行われた第二回目の人口調査は、前回と比べて二千人弱が欠けていました。

それについては、
「これらはモーセと祭司エレアザルが、エリコに近いヨルダンのほとりにあるモアブの平野で数えたイスラエルの人々の数である。
ただしそのうちには、モーセと祭司アロンがシナイの荒野でイスラエルの人々を数えた時に数えられた者はひとりもなかった。
それは主がかつて彼らについて、
『彼らは必ず荒野で死ぬであろう』
と言われたからである。
それで彼らのうちエフンネの子カレブとヌンの子ヨシュアのほか、ひとりも残った者はなかった」(民数記26:63以下)
と解説されています。

不信仰の罪が、選民としては、神の聖を犯すものであることが、民数記では、具体的な選民の淘汰(ふるいわけ)として示されています。

民数記の終の部分には、カナン侵入後の心得として、先住民を追いはらうこと、偶像礼拝所を破壊すること、土地をくじによって分割することなどが記録されています。

モーセではなく、その後継者ヨシュアによって「約束の地」に入国するよう命じられた折にも、再び、メリバの水のかたわらで、モーセが「彼らの目の前にわたし(主)の聖なることを現さなかった」罪が反復して指摘されていることは見のがせません(民数記27:12以下)。

神の祝福の言葉の不変性も神の聖とは不可分である、故に「神の言葉の不変性は、神の言葉への現在的聴従」(神聖への畏れ)と不可分である、というのが、民数記の意図です。


posted by 道川勇雄 at 09:59| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする


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