2019年07月21日

ヨシュア記

ヨシュア記       

「未得を既得とする選民の実践的課題」

「律法の受領者」としてのモーセの特異性は、旧約聖書、新約聖書を貫いて変わりません。

旧約聖書全体を「主イエス・キリストへの証言」として意味づけるヨハネによる福音書が、その序文に、
「律法はモーセをとおして与えられ、めぐみとまこととは、イエス・キリストをとおしてきたのである」
としるしていることは、注目に価します(ヨシュア記5:39、ヨハネ1:17)。

旧約聖書冒頭の五書が、すべてモーセの記述とはいえないのに、これを「モーセ五書」とよぶ慣例は、旧約聖書におけるモーセおよびモーセを代表的指導者とする五書の担わせられている特別な権威を示唆するものとみられます。

そのことを立証するかのように、先立つ五書とヨシュア記との間には、画然とした、時代別の展開が自覚されていたことが示されています。

モーセ五書では、幼い未熟なイスラエルに対する「選び主」からの無条件的恵み(賜物)が力説されていたのに対し、ヨシュア記では「約束の地」を獲得する実践(課題)が強調されているからです。

聖書全体を貫く「賜物に先行された課題」という信仰の原理が、選民教育を通して、歴史的、体験的に客観化されていたことを、モーセ五書とヨシュア記との配列によってうかがうことができます。

@所有権の意味する先取的課題(ヨシュア記1-12章)

モーセに代わってヨシュアを指導者として与えられたイスラエルは、「約束の地」の占拠に当たって、それぞれが「足の裏で踏む」実践に目を注がせています。

「わたし(主)のしもべモーセは死んだ。
それゆえ、今あなた(ヨシュア)と、このすべての民とは、共に立って、このヨルダンを渡り、わたしがイスラエルの人々に与える地に行きなさい。
あなたがたが、足の裏で踏む所はみな、わたしがモーセに約束したように、あなたがた(イスラエル)に与えるであろう」
というヨシュア記の冒頭の宣言は、選民史における実践的課題と共に始まった時代的転移を示唆しています。

「足の裏」というヨシュア記の特異な表象の反復が(ヨシュア記1:3、3:13、3:15、4:9、4:18等)、先立つ五書での「主の強い手」と、明確な対照をなしていることに気づかされます。

「約束の地」の「所有権」は、選民に与えられています。

所有権を与えられた者としては、各自がそれを自己の足の裏で踏むことによって、初めて「賜物」が「賜物となる」のです。

各自の足の裏で踏む実践は、「未だ」実践的に獲得していない「約束の地」(所有権として与えられている)を、「既に」与えられたもの、として先取する冒険的決断であるというのです。

その代表的な事例は、ヨルダン渡渉でした。

「ごらんなさい。
全地の主の契約の箱は、あなたがたに先立ってヨルダンを渡ろうとしている。
それゆえ、今、イスラエルの部族のうちから、部族ごとにひとりずつ、合わせて十二人を選びなさい。
全地の主なる神の箱をかく祭司たちの足の裏が、ヨルダンの水の中に踏みとどまる時、ヨルダンの水は流れをせきとめられ、上から流れくだる水はとどまって、うず高くなるであろう」
という記述が注目されます(ヨシュア記3:11)。

「ヨルダン渡渉の記述と、紅海渡渉のそれとの対比を見るべきです。」(渡辺善太博士)。

出エジプト記における紅海渡渉は、
「モーセが手を海にさし伸べたので、主は夜もすがら強い東風をもって海を退かせ、海を陸地とされ、水は分れた。
イスラエルの人々は海の中のかわいた地を行ったが、水は彼らの右と左にかきとなった」(出エジプト記14:21以下)
としるされています。

出エジプトの時には、神の干渉による奇蹟が先行した結果、イスラエルはかわいた地を渡らせられたました。

ところがこの度のヨルダン渡渉にさいしての神の命は、奇蹟に先行して、イスラエルの先頭に立つ祭司たちの足の裏が、ヨルダンの水の流れのさ中に踏みとどまることでした。

奇蹟「が」先行したのではなく、奇蹟「に」先行して足を踏み出すという行為は、冒険的決断の要請です。

この冒険的決断の要請は、「未だ見ていない、神の干渉(助け、ひいては神の勝利)を、あたかも既に見ているかの如く歩み出す決断」です。

「未得を既得とする」ことこそ、選民としてのかけがえのない実践原理だということです。
「さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。」(ヘブル11:1)。

これにつづいてエリコの町の攻略の進め方にも適用されています。

他方、アイの攻略の失敗は、契約を破った少数者に対する神の審判とされ、「目的は手段を正当化しない」ことを選民は実践の原則として銘記させられています(ヨシュア記7:1以下、7:10以下)。

ヨシュアによる南北パレスチナ征服の成就の秘密は、ヨシュアが、主の契約の言葉に悉く服従した結果と解され、ヨシュアについては、
「すべて主がモーセに命じられたことで、ヨシュアが行わなかったことは一つもなかった」(ヨシュア記11:15以下、8:34)
という賞讃が注意をひきます。

A嗣業(産業)の意味する危機的確認(ヨシュア記13-24章)

ここからの主題は、「約束の地」の分割に向けられています。

イスラエル各部族に分け与えられる土地は「嗣業(産業)」とよばれていますが、それに対するヨシュア記の意図に注目させられます。

嗣業は、各自の「足の裏」で確認しなければならないものとされながら、それはあくまで「契約の主」に属するものであり、
「もし、ーー主が命じられたその契約を犯し、他の神々に仕えそれを拝むならば、主はーー怒りを発し」(ヨシュア記23:15以下)
と、主が賜わった良い地から滅び失せるような危機的なものです。

ヨシュア記の「約束の地」獲得の記述で特に注意をひくのは、「未獲得」と「既獲得」という相反する見解が並べられているということです。

「このように、主が、イスラエルに与えると、その先祖たちに誓われた地を、ことごとく与えられたので、彼らはそれを獲て、そこに住んだ。
主は彼らの先祖たちに誓われたように、四方に安息を賜わったので、すべての敵のうち、ひとりも彼らに手向かう者はなかった。
主が敵をことごとく彼らの手に渡されたからである」(ヨシュア記21:43以下)
としるされているかとおもうと、他方には、
「さてヨシュアは年が進んで老いたが、主は彼に言われた、
『あなたは年が進んで老いたが、取るべき地はなお多く残っている』」(ヨシュア記13:1、18:2-3、23:5等)
という言葉を初めとして、嗣業の未獲得を強調する叙述が散在しています。

嗣業についての、このように一見矛盾した記述は、選民にとっては、嗣業はその与え主との正しい関係とは不可分なものであるということです

「あなたがたの前から、その国民を打ち払い、あなたがたの目の前から追い払われるのは、あなたがたの神、主である。
そしてあなたがたの神、主が約束されたように、あなたがたは彼らの地を獲るであろう。
それゆえ、あなたがたは堅く立って、モーセの律法の書にしるされていることを、ことごとく守って行わなければならない。
それを離れて右にも左にも曲ってはならない。
あなたがたのうちに残っている、これらの国民と交じってはならない。
彼らの神々の名を唱えてはならない。
それをさして誓ってはならない」(ヨシュア記23:4以下)
と言われていることでもあきらかですし、またレビ人に対しては、
「主の祭司たることが、彼らの嗣業」(ヨシュア記18:7以下)
であるからとの理由で、彼らの住むに足る土地だけが与えられたということからもヨシュア記の嗣業に対する意味づけがうかがえます。

嗣業は、その与え主である主への畏れと主への排他的忠誠を意味するとみる、ヨシュア記の意図を、改めて力説するかのように、最後は、ヨシュアの次のような宣言で終わっています。

「それゆえ、いま、あなたがたは主を恐れ、まことと、まごころと、真実とをもって、主に仕え、あなたがたの先祖が、川の向こう、およびエジプトで仕えた他の神々を除き去って、主に仕えなさい。
もしあなたがたが主に仕えることを、こころよしとしないのならば、あなたがたの先祖が、川の向こうで仕えた神々でも、または、いまあなたがたの住む地のアモリびとの神々でも、あなたがたの仕える者を、きょう、選びなさい。
ただし、わたしとわたしの家とは共に主に仕えます」(ヨシュア記24:14以下)。


posted by 道川勇雄 at 14:02| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする


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