2019年07月21日

士師記

士師記       

「無政府状況下における選民の敵前感の喪失」 

選民は選民でありつつ、選民と「なるべき」課題をになっています。

異邦の中におかれた選民がその特殊性を失わないために最も大事なことは、異民族との交渉において、「わな」(罠)となるものを追いはらう敵前感です。

「あなたがたは、なんということをしたのか。
それでわたしは言う、
『わたしはあなたがたの前から彼ら(敵)を追い払わないであろう。
彼らはかえってあなたがたの敵となり、彼らの神々はあなたがたのわなとなるであろう』」
という「選び主」の警告を通して、士師記は「わな/おとり」の魔力的な力を、見破らせるものは、主を畏れることに基づく危機意識であることを力説します(士師記2:1以下、2:20以下)

@危機意識保留者の「弱さにも拘らざる」勝利(士師記1-10章)

選民の背信→圧迫→悔い改め→士師による救出という悪循環のサイクルで、礼拝所の集中なく、王による国家的統一もない選民の無政府状態を露呈するのが士師記ですが、その描写のし方の特色の一つは、常識的には弱い者と見なされている者が、その危機意識の故に、かえって勝利をかちうるとする視点です。

たとえば、「左ききのエホデ」は、その不利を有利に活かすことで、敵王の油断につけこむという敵前感を示して勝利した人物として登場しています(士師記3:15以下)。

女預言者デボラは、主を畏れる者としての危機感をもって立ち上がった結果、イスラエルに四十年間の太平を保たせた有能な指導者として特筆されています(士師記4-5章)。

士師の中でも傑出したギデオンは、神共に在す、という聖前感にこだわった勇士として描写され(士師記6:12、6:17、6:34、7:9以下、7:15等)、人々から王におされーー人間として最高の人気を獲得したその時点でのギデオンの告白は、彼の主に対する畏れが、本ものであったことを証ししています。

「わたし(ギデオン)はあなたがたを治めることはいたしません。
またわたしの子もあなたがたを治めてはなりません。
主があなたがたを治められます」(士師記8:22以下)
とは、その時の応答でした。

ギデオンの敵前感を何よりも如実に示したエピソードは、その精兵の選び方でした(士師記7:1以下)。

そのさいギデオンは兵を水際につれて行き、その水の飲み方で、及落を定めました。

「『すべて犬のなめるように舌をもって水をなめる者はそれを別にしておきなさい。
またすべてひざを折り、かがんで水を飲む者もそうしなさい』。
そして手を口にあてて水をなめた者の数は三百人であった」(士師記7:5以下)
とし、この三百人のみが選ばれたという。
渡辺善太博士の解説によると、「一は顔を水際につけて、口を以て直接に水を飲んだ者で、他は水際に膝を折り、手で水をすくい、眼を河の彼岸にある敵陣に注ぎつつ、これを飲んだ者であった。
いうまでもなく、選ばれたのは後者であった。
もちろん聖戦の兵卒といえども、衣食住は必要である。
しかしてその求め方に二種類ある。
一は敵を忘れ、これに没頭するもので、他は『敵前感』を鋭く保持しながら、これを求める者である」(『旧約聖書各巻概説』日本基督教団出版部、1950年、108頁)。

このエピソードも、神によって用いられるとは、どんなことかということに対して、新鮮な洞察を与えます。

それは、いうまでもなく、世間一般の通念としての、強い人、弱い人、有能か無能かの判定規準を退けます。
そこで問われているのは、主を畏れることに基づく、敵前感ともいうべき、危機意識だといえます。

A敵前感喪失者の「強さにも拘らざる」敗北((士師記11-16章)

士師エフタとサムソンとは、神に対する誓約をめぐって、劇的な対照を演出しています。

エフタは、戦勝を勝ちえるなら、彼を最初に出迎える者を主のものとし、その者を燔祭として献げるという誓願をしたので、その娘をあえて燔祭としました。
その誓願の死守を特徴としたエフタに対して、サムソンは、誓願の無視において彼とは正反対でした。

サムソンは、生まれる前から、神にささげられた「ナジル人」として成長しました(士師記13:4以下)。

ナジル人は、選民の規定として、ぶどう酒や濃い酒をのまず、その頭にかみそりをあてない者とされています(士師記13:3以下、民数記6:1以下)。
サムソンは、生まれる前から、母・マノアの元に主の遣いが「不思議」という名で臨み、生まれると同時に、「やがて女は男の子を産んで、その名をサムソンと呼んだ。その子は成長し、主は彼を恵まれた。」(士師記 13:24)と書かれている通りの超エリートです。
 
サムソンはここに、強さを誇る無比の勇士として登場し、エリート中のエリートとして、はなやかなエピソードをふりまきます。

だが彼は、いつしか、敵ペリシテの女デリラを愛するようになると、それが、彼の命とりのわなであることには、極めて鈍感でした。

デリラがペリシテ軍に買収されていることにも気づかず、その執拗さに負けて、ついに、ナジル人として剛力の秘密である髪をすり落とされる日がきてしまったのです。

「サムソンよ、ペリシテびとがあなたに迫っています」というデリラの声に目をさました時、彼は「主が自分を去られたことを知らなかった」(士師記16:1-9)。

彼には、わなを予め見破る敵前感が欠落していたのです。

しかも、士師記は、それを、根源的には、神との間の誓願の無視に深く根ざす、敵前感の喪失として洞察しています(士師記16:16以下)。

B礼拝所集中の欠落に基づく選民的頽落(士師記17-21章)

この部分には、ダンの聖所の起源の物語とベニヤミン族の暴行事件とその処理が言及されていますが、それの解説ともとれるのは、
「そのころイスラエルには王がなかったので、人々はおのおの自分たちの目に正しいと思うことを行った」
ということで、それが士師記のこの部分に反復されているだけでなく、士師記全体の結びの言葉とされています(士師記17:6、18:1、19:1、21:25)。

ベニヤミン族の物語では、「会衆はひとりのようにミヅパで主のもとに集まった」イスラエルの危機意識(士師記20:1以下、20:13)と、
「災の自分たちに迫っているのを知らなかった」ベニヤミン族(士師記20:34、20:13)の敵前感喪失の対照が際立っています。

士師記の指摘する選民としての頽落は、つづく王制時代との関連でみれば、国家的統一のない無政府状態の悲劇とみられているといえます。

ダン族とベニヤミン族の物語をはじめ、
「神の家がシロにあったあいだ、常に彼ら(ダン)はミカが造ったその刻んだ像を飾って置いた」
という記述等を通して、申命記が指針とした礼拝所集中が欠ける結果の、「歯止めを失った」状態を暴露するところに、士師記的意図があります。



posted by 道川勇雄 at 14:05| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする


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