2019年07月21日

ルツ記

ルツ記

「選民の排他的枠を破って開示される包容的救拯史の構図」
 
物語の形式の場合、結尾の部分にその意図へのヒントが示されていることが多くあります。

ルツ記の主人公ルツは、モアブの女です。

モアブ族は、創世記で父娘姦淫の子であり、申命記で「被差別民族の代表」とされています((創世記19:37、申命記23:3、ネヘミヤ記13:1-2)。

【引用】
「こうしてロトのふたりの娘たちは父によってはらんだ。
姉娘は子を産み、その名をモアブと名づけた。
これは今のモアブびとの先祖である。
妹もまた子を産んで、その名をベニアンミと名づけた。
これは今のアンモンびとの先祖である。」(創世記 19:36-38)

「アンモンびととモアブびとは主の会衆に加わってはならない。
彼らの子孫は十代までも、いつまでも主の会衆に加わってはならない。」(申命記 23:3)

「その日モーセの書を読んで民に聞かせたが、その中にアンモンびと、およびモアブびとは、いつまでも神の会に、はいってはならないとしるされているのを見いだした。
これは彼らがかつて、パンと水をもってイスラエルの人々を迎えず、かえってこれをのろわせるためにバラムを雇ったからである。
しかしわれわれの神はそののろいを変えて祝福とされた。」(ネヘミヤ記 13:1-2)


ルツ記の結尾によると、その被差別民族であるモアブの女が、選民史の代表的王者・ダビデの曽祖母とされています。

ここではあきらかに、申命記に強調されていたようなイスラエルに集中する選び主の「特殊愛」とは、全くの対極をなすような「普遍愛」を仰がせます。

隠れた歴史支配者の開示する救拯史は、選民にとって偏りがちな「排他性」をさばく「包容性」を志向しているのです。

しかし、聖書は、そう単純に、包容性一辺倒で貫かれてはいません。

聖書によれば、「義のない愛」は示されていないように、「審きのない救い」は語られていません。

また、「排他性を全く欠いた包容性」も、「自力を促さない他力」も、聖書の関知しないところです。

聖書を貫いて、開示される救拯史は、対極的な潮流からなっている、ということです。

以上のことから、ルツ記が、その救拯史の文脈の中で占める位置と役目から、目をそらすことは許されません。

物語の配列のされ方で示された意味は、次のようになります。
@異邦の女の奇縁の甘受(ルツ記1章)
A異邦の女をおおったいつくしみ(ルツ記2-3章)
B異邦の女を包んだ栄誉(ルツ記4章)

上記のように項目にルツとせず、「異邦の女」とすることで、ルツ記と、聖書全体を貫く、救拯史との関係づけ、選民と異邦人という人種的相剋が、背景として浮かび上がります。

ルツ記に先立つ士師記では、「選び主」に対する選民の忠誠が試みられました。

その事態にあって、他民族とその神々との癒着は、選民を亡ぼすわな(罠)でしかないことが明らかにされています。
「わたし(主)はあなたと結んだ契約を決して破ることはない。
あなたがたはこの国の住民と契約を結んではならない。
彼らの祭壇をこぼたなければならない」(士師記2:1以下)
と言われていた通りです。

選民が、その使命完遂のため、「聖なる民」として固有性を貫くために、排他性は不可欠なのです。

しかし、救拯史は、選民のためではなく、選民の歴史は、「万民の祝福」(創世記12:1-3、神の「根源約束」)のためです。

そのような救拯史の排他性と包容性の対極性(緊張)に耐えないのが選民の在りのままの姿でした。

選民には、選民にとって都合のよい前提がはぐくまれつつあったのです。

そのさいたるものは、選民至上主義的な発想であり、それが選民の「選び主」に向けての自己投影であり、他民族に向けての狭く醜い差別意識であり、それがやがて彼らのはなもちならない優越感を培ってきたのです。

ルツ記の物語は、選民中心的な枠とか、制約とは全く逆に、無制約的にあふれ出る「いつくしみ」をもって浸透(しんとう)されています。

それは、無条件に「外国人であるルツを顧みる」ボアズを通して(ルツ記2:10-12)、選民のみならず、異邦人をも、その翼の下に身を寄せさせる主の無制約的ないつくしみを通して(ルツ記2:12、3:9)、異邦の女ルツにイスラエル人ボアズの子をみごもらせた出来事において示されています。

引用】
「彼女(モアブの女・ルツ)は地に伏して拝し、彼(ボアズ)に言った、
『どうしてあなたは、わたしのような外国人を顧みて、親切にしてくださるのですか。』
ボアズは答えて彼女に言った、
『あなたの夫が死んでこのかた、あなたがしゅうとめにつくしたこと、また自分の父母と生れた国を離れて、かつて知らなかった民のところにきたことは皆わたしに聞えました。
どうぞ、主があなたのしたことに報いられるように。
どうぞ、イスラエルの神、主、すなわちあなたがその翼の下に身を寄せようとしてきた主からじゅうぶんの報いを得られるように。』」(ルツ記 2:10-12)


下からの枠(制約)は、作為にみちているのに反して、上からのいつくしみは、溢れ出る性格で、あらゆる作為を不必要なものとします。

不思議なくらい、この物語の筋書には、強制がありません。

「ルツはしゅうとめを離れなかった」(ルツ記1:14)
というが、それは何らナオミ(しゅうとめ)の強制によったのではないのです。

むしろナオミはルツを去らせようとしかしていません。

ルツにはその時、将来への明るい見通しとか、打算とかがあったのではないのです。

それは、ごく平凡なひたむきな真実でした。

ルツに寛容を示したボアズでさえ、自分が強いて、親族エリメレクの家名や財産の「贖い人」をかって出ようとたくらんだのではなかったのです。

神の愛の包容性、普遍性を示すものとして、ルツ記ときわめて近いのが、ヨナ書です。

しかし両書は似ているので、かえって、その対照性をあざやかに浮かび出しています。

ヨナとボアズとの対照はいうまでもありませんが、ルツ記では、神の救拯史の通念からすれば、「最も縁遠い」と思われていた異邦の女がその中心的な位置を占めており、反対に、神の思いに「最も近く」あるはずの預言者ヨナの思いが、天地ような隔りと、くいちがいを暴露させられている、ということです。

隠れた歴史の支配者の自己開示が、選民の狭く・浅く・低い自己投影の枠を破りつつ展開される救拯史の構図として示されているところに、聖書の啓示の意図をみせられます。


posted by 道川勇雄 at 14:07| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする


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