2019年07月21日

サムエル記上

サムエル記上

「人的評価と異なる神的評価に基づく王国定礎」 

モーセ五書では、選民の「育成時代」にふさわしく、主の選びの「無条件性」が、力説されていました。

しかし、王国時代は、選民としては、「未成年性から脱出」しつつある時代です。

王国定礎の物語であるサムエル記では、単なる選びの無条件性の強調ではなく、神の選びは、「無条件的かつ条件的」なものとして力説されています。

サウルが、主によって選ばれた王でありながら、ついに棄却された、という物語を通して示されています。

それは、退けられた王サウルが、祝福された王ダビデに対する血みどろの反撃を浮き彫りにする、壮絶をきわめた絵巻物として展開されています。

@神より人を畏れた王サウルの棄却(サムエル上1-22章)

サウルは、9章から登場しますが、1章から8章までは、王国定礎に与ったサムエルの伝記に費されています。

その伝記は、祭司とその子等の堕落に焦点をしぼっています。

祭司エリの子たちは、よこしまで、主を畏れなかったといわれ(サムエル上2:12)、エリ自身も、
「どうしてあなたがたは、わたし(主)が命じた犠牲と供え物をむさぼりの目をもって見るのか。
またなにゆえ、わたしよりも自分の子を尊び、わたしの民イスラエルのささげるもろもろの供え物の、最も良き部分をもって自分を肥やすのか。
ーーわたしを尊ぶ者を、わたしは尊び、わたしを卑める者は、軽んぜられるであろう」(サムエル上2:27以下)
という、厳粛きわまる主の審判をうけています。

また選民にとっては、神の臨在の象徴である神の箱を敵軍ペリシテにうばわれる、イスラエルの敗戦に言及されています。

その幼時から神に選ばれた、先見者サムエルの一生の間は、主の手がペリシテ人を防いだとはいうものの、サムエルの晩年に彼がさばきづかさとした子等の乱行も、民が強力な王を求めるにいたった大きな要因とされています。

「あなた(サムエル)は年老い、あなたの子たちはあなたの道を歩まない。
今ほかの国々のように、われわれをさばく王を、われわれのために立ててください」(サムエル上8:3以下)
とは、イスラエルの長老たちの訴えでした。

王政の要求は、選民としては、「他の国々のようになる」という世俗化を意味し、神の支配に対する不服従を表わすものですが、それにも拘らず、主が許したという解説がなされています(サムエル上8:4以下)。

現代のいわゆる、「成人」した信仰者(ボンヘッファー)の「神の前で、神と共に、我々は神なしに生きる」という、神との関係とでもよべるものの、きわめて素朴な端緒をおもわせる記述です。

現代神学を引用しないまでも、新約聖書でも、イエスが語ったとして紹介される「放蕩息子」の譬え(ルカ15:8以下)から、この出来事の叙述の解明に対するヒントが得られるでしょう。

ある人に二人のむすこがあったが、弟の方は、父親から自由になりたくて、「父よ、あなたの財産のうちでわたしがいただく分をください」
と申し出た。
「そこで、父は、その身代をふたりに分けてやった」としるしています。

賢明な父親は、いつまでも、自立心に逆らってまでも、その子を自分の保護の下に留めておこうとはしませんでした。

しかし、自立の道を進むことは、自己が「自由と責任の主体」であることを、自分の足で、体験的に体得させられる途です。
すべてを知りつつ「つき放す」親の愛ゆえの冒険が示唆されています。

そのような視点からすると、「主の王制容認」は、選民史の実践時代として位置づけられます。

最初の王サウルは、エリート中のエリートです。
「キシにはサウルという名の子があった。
若くて麗しく、イスラエルの人々のうちに彼よりも麗しい人はなく、民のだれよりも肩から上、背が高かった」(サムエル上9:2)
と言われています。

このサウルに対する讃辞は、「人が与える評価」です。

人の評価は、神の評価とはなりません。
神の評価は、人の評価とは異なるのです。

王選定のさいに、主がサムエルにいわれた、
「顔かたちや身のたけを見てはならない。
わたし(主)はすでにその人(サウル)を捨てた。
わたしが見るところは人とは異なる。
人は外の顔かたちを見、主は心を見る」(サムエル上16:7)
という言葉に明示されています。

サウルは「神よりも人を恐れた」王でした。

それは何にも増して、致命的な人格的弱点でした。

サウルは、神への全幅的信頼に代えて、人為的手段と技巧をもってしたのです。

イスラエルの敵国ペリシテにイスラエル全軍が向かうに先立って、サムエルによる祭儀が命じられていたにも拘らず、予定の時刻がきてもサムエルが現われず、その間に、民衆が、サウルの許から散り始めた時、サウルの犯した誤りにおいて、まず暴露されたました。

何よりも自己の人気に敏感なサウルは、その時サムエルを待たずに、自分で勝手に燔祭をささげたのです。

ささげ終わった時その場に到着したサムエルは、
「あなたは愚かなことをした。
あなたは、あなたの神、主の命じられた命令を守らなかった。
ーー今は、あなたの王国は続かないであろう。
主は自分の心にかなう人を求めて、その人に民の君となることを命じられた。
あなたが主の命じられた事を守らなかったからであるというさばきの言を告げた」(サムエル上13:13以下)。

サウルのこの時の行為は、自己の世俗的体面を保持するために、神を利用し、冒涜した行為でした。

【雑話】
ある牧師が、牧師試験の時に、
「サウルが、サムエルを待たずに燔祭を捧げた行為は、なぜさばかれたのか?」
との設問に答えられなかった、と言ってました。


この出来事をはじめとして、「神を畏れない」サウルの品性は、物欲としても暴露されたました(サムエル上15:1以下)。

彼は、悔い改めを知らない人物でした。
それは彼が神を畏れない人間であることの当然の結果でしょう。

その時サムエルがサウルに語ったのが、
「主はそのみ言葉に聞き従う事を喜ばれるように、燔祭や犠牲を喜ばれるであろうか。
見よ、従うことは犠牲にまさり、聞くことは雄羊の脂肪にまさる。
そむくことは占いの罪に等しく、強情は偶像礼拝の罪に等しいからである。
あなたが主のことばを捨てたので、主もまたあなたを捨てて、王の位から退けられた」(サムエル上15:22以下)
という、主のさばきの言葉でした。

このようなさばきの言葉をうけたあとでもなお、サウルは、
「わたしは罪を犯しましたが、どうぞ、民の長老たち、およびイスラエルの前で、わたしを尊び、わたしと一緒に帰って、あなたの神、主を拝ませてください」(サムエル上15:30)
といったと記録しています。

やがてダビデが登場すると、サウルの最も醜悪な姿が暴露されました。

主の霊の代わりに、主からくる悪霊に悩まされつづけたサウルは、かろうじてダビデのならす琴の音で気をしずめていましたが、ダビデに人気をうばわれたのを知ると、サウルの心はいちはやく殺意のとりこになったのです。

それは女たちが、
「サウルは千をうち殺し、ダビデは万をうち殺した」(サムエル上18:6以下)と歌ったことに始まりました。

神に棄てられたサウルの最後については、
「姿を変えてほかの着物をまとい、二人の従者を伴って、夜の間にエンドルの口寄せの女を訪れた」(サムエル上28:5以下)
と記されています。

A人より神を畏れた王ダビデの祝福(サムエル上23-31章)

ダビデが勇士として公に認められるにいたったのはーー史実は別としてーー強敵ペリシテ人に石投げと石のみで勝ったことです。

その時のダビデの敵に対する挑戦の言葉が、次のようにしるされています。「おまえはつるぎと、やりと、投げやりを持って、わたしに向かってくるが、わたしは万軍の主の名、すなわち、おまえがいどんだ、イスラエルの軍の神の名によって、おまえに立ち向かう。
きょう、主は、おまえをわたしの手にわたされるであろう。
ーーまたこの全会衆も、主は救を施すのに、つるぎとやりを用いられないことを知るであろう。
この戦いは主の戦いであって、主がわれわれの手におまえたちを渡されるからである」(サムエル上17:45以下)。

ダビデを無き者にするため、あらゆる権力を行使したサウルとの対照で、ダビデの高潔な人物像が描き出されていますが、中でも、特筆すべきは、エンゲデの野での出来事です(サムエル上24章)。

そこへサウルは、全イスラエルからえらんだ三千人をひきいてダビデを追跡してきましたが、たまたま途中でサウルが立ち寄ったほら穴の奥には、ダビデと従者がすでにかくれていました。

それはダビデにとっては、サウルを殺す絶好のチャンスでした。

しかしダビデは、その事態の証拠として、サウルの上着のすそを切ったのみでした。
「主が油を注がれたわが君に、わたしがこの事をするのを、主は禁じられる。
彼(サウル)は主が油を注がれた者であるから、彼に敵して、わたしの手をのべるのは良くない」
というのが、その時のダビデの心情でした。

神を畏れず、人を恐れたサウルと、人よりも神を畏れたダビデとの対照をこれ以上に歴然と語るエピソードはないでしょう。

しかもこれは一度ならず二度もくり返された両者のめぐり合わせでした(サムエル上26:1以下)。

神を畏れる心は、対人関係にも投影されます。

戦争のぶんどり物の分配が、前線に出た者たちと陣営にとどまった者たちとの間で差別されようとした時、ダビデはそれをとがめ、
「兄弟たちよ、主はわれわれを守って、攻めてきた軍隊をわれわれの手に渡された。
その主が賜わったものを、あなたがたはそのようにしてはならない。
だれがこの事について、あなたがたに聞き従いますか。
戦いに下って行った者の分け前と、 荷物のかたわらにとどまっていた者の分け前を同様にしなければならない。
彼らはひとしく分け前を受けるべきである」
と、主張したとされています。

さらに、そこには、
「この日以来、ダビデはこれをイスラエルの定めとし、おきてとして今日に及んでいる」(サムエル上30:21以下)
と付言されています。

荒野放浪中のモーセによる「マナの分配」を通し、また「ヨベルの年」の規定を通し、無条件的恵みの証人としてのイスラエルは、くり返しくり返し、「能力に応じて働き、必要に応じて受ける」という社会生活の基本理念を、民族的特質として植えつけられてきたはずでした。

しかし、そのような選民としては当然な発想が、彼らの現実生活からはいかに無縁なものになりかかっていたか、ということは、察するにかたくありません。

「特権意識」をすて切れない人間性が、選民においては、より鋭角的に暴露されます。

ダビデは、戦士たちをいましめて、理想的指導理念を確立したばかりでなく、かつて彼およびその従者がさまよい歩いた道中、交友を結んだ人々に、ぶんどり物の一部を贈ったことがしるされています(サムエル上30:26以下)。

サムエル記上は、エリート中のエリートとして選ばれながら、「人を恐れて、神を畏れなかった」王サウルの悲惨きわまる最期をしるし、「人的評価と異なる神的評価に基づく王国定礎」をさし示しています。


posted by 道川勇雄 at 14:09| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする


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