2019年07月23日

ヨハネの第二の手紙

ヨハネの第二の手紙

「真理とアガペの実存的緊張に基づく、反キリストの弁別」 

信仰と行為の関係で、行為のない信仰は欺瞞であるように、愛の伴わない真理は空虚です。

逆に、真理を無視した愛はあさはかです。

真理と愛の緊張があって初めて、人間的に豊かな成長があるといえますが、実際生活にあってはそうはいきません。

多くの場合、人は「実践型」か「理論型」かのいずれかに偏りがちであって、真理を偏重する類の人においては愛に冷淡になりやすいのです。

教会の交わりも、誤りやすい人間の群れとしては、そのような分裂から解放されているとはいえません。

しかし、教会の本来の在り方は、真理のみ霊によって先導され、首なるキリストの贖罪愛によって浸透されている「キリストのからだ」です。

そこを支配するのは「アガペ(聖愛)」であって、いわゆる生まれつきの人間のもつ愛である「エロス(自己愛)」ではないはずです。

「あなたがたを愛しているのは、わたしだけではなく、真理を知っている者はみなそうである」、
「父なる神および父の御子イエス・キリストから、恵みとあわれみと平安とが、真理と愛のうちにあって、わたしたちと共にあるように」
という、長老から婦人とその子たちへの語りかけにおいて、真理と不可分であるアガペの支配が力説されています。

教会の「在るべき姿」からいうと、真理と愛とは緊張的に活かされるということであるとしても、教会とて、人間の集まりである以上、その「在るがまま」の姿が即「在るべき姿」なのではありません。

世の終わりには、反キリスト的勢力が顕著になりますが、教会の立つべき真理と愛の実存的緊張が本ものかどうかをためされるのは、反キリスト勢力との出会いにおいてこそなのです。

反キリスト勢力の特徴は、まず、
「キリストが肉体をとってこられたことを告白しないで、人を惑わす」(ヨハネの第二の手紙7節)ことにあります。

「このイエス・キリストは、水と血とをとおってこられたかたである」と、ヨハネの第一の手紙が力説する理由がそこにありました(ヨハネの第二の手紙5:6、4:1-3)。

さらに、その反キリストの特徴は、
「キリストの教をとおり過ごして、それにとどまらない」(ヨハネの第二の手紙9節)
ということです。

その点に対して、光を投げるのは、
「もしわたし(主イエス)の言葉のうちにとどまっておるなら、あなたがたは、ほんとうにわたしの弟子なのである。
また真理を知るであろう。
そして真理は、あなたがたに自由を得させるであろう」(ヨハネによる福音書8:31以下)
と言われたイエスの在世中の言葉です。

主イエスのみ言葉によって「拘束」される真理は、いわゆる理性に基づくのみの、普遍的真理とは次元を異にしています。

人間から生まれた真理の合理的概念としての真理は、根源的に人を束縛している罪から解放する力はなく、したがって、イエス・キリストの言葉によって拘束される真理のみが、自由を与える真理だからです。

したがって、教会の交わりを支配すべき愛もヨハネの第二の手紙が指摘するように、「父の戒めどおりに歩く」愛すなわち、上から与えられるアガペです(ヨハネの第二の手紙6節)。

受肉したイエス・キリストの言葉によって「拘束」されることが、真理とアガペの実存的緊張の秘義であり、したがって、反キリストの誘惑に勝つ力です。
   
ギリシャ人の「真理」は、科学の実験のように同じ方法で、同じ結果が得られることでした。
ローマ人は、「真理」などというものに無関心でした。
聖書の記者であるヘブル人は、歴史の彼方に結晶するモノを「真理」としました。
日本人一般も、多分、ギリシャ的「真理」の中に生きているのでしょう。


posted by 道川勇雄 at 05:56| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする


< ▲トップページへ戻る >
ツイッター始めました。お気軽にフォロー・コメントどうぞ。(Twitter)