2019年07月21日

サムエル記下

サムエル記下

「聖前感」と「畏れ」 

サムエル記上の描くダビデは、サウル王に妬まれた結果、その生命をねらわれ、前半生を波瀾の中に生きました。

サムエル記下のダビデは、サウルも死に、
「すべて王のすることは民を満足させた」(サムエル記下3:36)
とあるように、王位に安定したダビデです。

王者として確立されることは、人間的誘惑が伴います。

大罪を犯したダビデの描写を通して、人より神を畏れた王ダビデにも、並外れた長所と共に、致命的な欠点をそなえた人間であることを知らされます。

そのことを通して、聖書の、「非陶酔的」ともいえる人間評価の前に立たされます。

神に対する「畏れ」は、決して特定の人間の品性、とよばれるようなーーいわば「所有」されるものではなく、「きわめて危機的な」、神との関わり方です。

「神に対する畏れ」を、サムエル記下は、ダビデの完璧さ「の故に」ではなく、むしろその失態を通してーーダビデをその否定媒介としてーー主に対する畏れの在り方を示しています。

@溢れ出る被造者としての聖前感(サムエル記下1-10章)

並外れた音楽的才能にめぐまれていたダビデの情感のゆたかさは、彼に関するあらゆるエピソードを貫いている特色です。

ダビデとヨナタンとの友情が、「女の愛にもまさった」それであったといわれていますが、対人関係における配慮の木目の細やかさと、その範囲の広さも見のがしえないものとして特筆されています(サムエル記下4:1以下、9:7以下等)。

端的にいって、神を畏れず、人を恐れたサウルの場合は、王者としての「特権意識」が顕著ですが、それとの対照で、人よりも神を畏れたダビデの場合は、「被造者としての聖前感」 です。

ダビデは、選ばれた王としての「確信」と、選び主に対する「被造者感」とが、両極的に緊張的に活かされています。

この点を示す最も代表的なエピソードは、「神の箱」を敵陣から取り返した時のそれです。

「主の箱をかく者が六歩進んだ時、ダビデは牛と肥えた物を犠牲としてささげた。
そしてダビデは力をきわめて、主の箱の前で踊った。
その時ダビデは亜麻布のエポデ(ちゃんちゃんこ、普段着)をつけていた。
こうしてダビデとイスラエルの全家とは、喜びの叫びと角笛の音をもって、神の箱をかき上った」(サムエル記下6:13以下)。

この情景を、外側から見ていた人物がいます。
それは、ダビデの妻、サウル王の娘です。

「主の箱がダビデの町にはいった時、サウルの娘ミカルは窓からながめ、ダビデ王が主の前に舞い踊るのを見て、心のうちにダビデをさげすんだ」(サムエル記下6:16以下)

そればかりではありません。
その日、帰宅したダビデに、妻・ミカルは、
「きょうイスラエルの王はなんと威厳のあったことでしょう。
いたずら者が、恥も知らず、その身を現すように、きょう家来たちのはしためらの前に自分の身を現されました」(サムエル記下6:20)
と言ったのです。

神を畏れないサウル王の娘として育ったのですから、これは余りにもよくうなずける皮肉です。

神の箱の前に、舞い踊ったダビデには、畏れが、歓びをあふれ出させています。

それは、
「あなたの父(サウル王)よりも、またその全家よりも、むしろわたし(ダビデ)を選んで、主の民イスラエルの君とせられた主の前に踊ったのだ。
わたしはまた主の前に踊るであろう。
わたしはこれよりももっと軽んじられるようにしよう。
そしてあなたの目には卑しめられるであろう。
しかしわたしは、あなたがさきに言った、はしためたちに誉を得るであろう」(サムエル記下6:21以下)
と答えたダビデの言葉に余すところなく示されています。

このダビデにみられる、畏れと歓びは、溢れ出る被造者としての聖前感とよべます。

「見よ、今わたしは、香柏の家に住んでいるが、神の箱はなお幕屋のうちにある」(サムエル記下7:1以下)
というダビデの心中は、察するにかたくありません。

「主なる神よ、わたし(ダビデ)がだれ、わたしの家が何であるので、あなたはこれまでわたしを導かれたのですか」(サムエル記下7:18以下)
と、神の前に問うダビデを通しても、その被造者としての聖前感(畏れ)があります。

A審判の下でも、なお!!(サムエル記下11-24章)

ダビデの強さは、弱さでもありました。
情感のゆたかさは、たやすく人を情欲のとりこにします。
そのことは、「バテシバとの不倫関係」、「息子アブサロムへの溺愛」で露呈されています。

ヘテ人ウリヤ(ダビデの部下)を殺し、その妻・バテシバをうばって自分の妻とした行為に対し、ダビデは主から、
「どうしてあなたは主の言葉を軽んじ、その目の前に悪事をおこなったのですか」(サムエル記下12:7以下)
と責められました。

また、年老いてからのダビデには、人気をつなぐことのみに専念した息子・アブサロムをいさめるきびしさが欠けていただけでなく、あきらかに、神への畏れを失っていたことを示す証拠として、アブサロムの顧問官アヒトペルに全幅の信頼をおくようになっていたのです。

「そのころアヒトペルが授ける計りごとは人が神のみ告げを伺うようであった。
アヒトペルの計りごとは皆ダビデにもアブサロムにも、共にそのように思われた」(サムエル記下16:20以下)
としるされています。

今で言う「忖度」の極致でしょう。
あるいは「丸投げ」です。

しかし、ダビデには、サウルの場合とはちがって、弱さから犯した罪に対しては、神の前に悔いる、砕けた心の持ち主でしたし(サムエル記下12:13以下)、
「主の前を」意識して生きつづけたことは、戦いのさ中に生命がけで、ダビデの求めに応じて、敵陣から水を汲んできた三勇士のエピソードにも示されています(サムエル記下23:13以下)。

サムエル記下の最後でも、「神の審判」の前に立たされたダビデを浮き彫りにしています。

民を数え(人口調査)たことは、ダビデとしては、「心に責められ」ることだったし、主の前に彼はひどくへりくだらされています。

預言者を介し、三つの刑罰の一つを選びとることを命じられた時のダビデの答えが注意をひきます。
「わたしはひじょうに悩んでいますが、主のあわれみは大きいゆえ、われわれを主の手に陥らせてください。
わたしを人の手には陥らせないでください」(サムエル記下24:14)
という言葉がそれです。

このダビデの言葉には、神に対する「畏れ」の深さが、逆説的にさし示されています。

それは、ダビデが、認罪において、神のあわれみの高さ・広さ・深さを、下から限定しないで、むしろ、神のあわれみの「無限」に対して、自己を投げ込んでいるからです。

認罪において、神に背を向けるのでなく、神のあわれみの中に、自己を投げ込むこととしての「畏れの徹底」は、「神の箱」の前に舞い踊るあの、被造者としての聖前感への徹底の深さからしか生まれない性格のものです。

「神を畏れる人」とは、神の審判の下でなお、「神のうちに生き、動き、存在」(使徒17:28)していることを証しさせられる人だといえます。


posted by 道川勇雄 at 14:12| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする


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