2019年07月21日

列王紀上

列王紀上

「妥協」が招いた王国分裂」 

列王紀上は、サムエル記につづくイスラエル王国史であり、「統一王国」「分裂王国」「単一王国」時代を経て、エホヤキン王の「バビロン虜囚」地における獄中からの「釈放」(紀元前561年頃)までの記事をふくんでいます。

歴史は解釈です。
選民の「王国史」は、申命記の評価に基づく歴史解釈です。

@神言にそむく「妥協」(列王紀上1-16章)

神言の威力は、異邦的なものとの対決によってのみ、歴史的、具体的に発揮される、というのが、列王紀の第一の意図です。

ダビデに次いで登場する列王紀上でのソロモン王は、対決とは正反対に、「妥協の人」でした。

列王紀上の前半は、「栄華をきわめた王・ソロモン」の鮮烈な描写についやされています(列王紀上1-11章)。

ソロモンのスケールの大きい才覚は、「領土の拡張」「神殿の建立」「王宮の建立」「名裁判官」など多方面に表われましたが、とりわけ注目されるのは、その「天与の知恵」です。

「神はソロモンに非常に多くの知恵と悟りを授け、また海べの砂原のように広い心を授けられた。
ソロモンの知恵は東の人々の知恵とエジプトのすべての知恵にまさった。
彼はすべての人よりも賢く、エズラびとエタンよりも、またマホルの子ヘマン、カルコル、ダルダよりも賢く、その名声は周囲のすべての国々に聞えた。
彼はまた箴言三千を説いた。
またその歌は一千五首あった。
ーー諸国の人々はソロモンの知恵を聞くためにきた。
地の諸王はソロモンの知恵を聞いて人をつかわした」(列王紀上4:29以下)
というその伝説的説得性をもつ記述が、ある異和感を触発します。

その異和感に似た不安は、やはり、正しかった。

というのは、そのソロモンは、
「多くの外国の女を愛した。
すなわちパロの娘、モアブびと、アンモンびと、エドムびと、シドンびと、ヘテびとの女を愛した。
主はかつてこれらの国民について、イスラエルの人々にいわれた、
『あなたがたは、彼らと交わってはならない。
彼らもまたあなたがたと交わってはならない。
彼らは必ずあなたがたの心を転じて彼らの神々に従わせるからである』。
しかしソロモンは彼らを愛して離れなかった。
彼には王妃としての妻七百人、そばめ三百人があった。
その妻たちが、彼の心を転じたのである。
ソロモンが年老いた時、その妻たちが彼の心を転じて他の神々に従わせたので、彼の心は父ダビデの心のようには、その神、主に真実でなかった」(列王紀上11:1以下)。

主の怒りを招く決定的な動因でした(列王紀上11:9以下)。

ソロモンの業績は、その神殿建立をはじめとして、一見、神に向けられているようです。
しかしながら、「決定的な点において」欠けていたのです。

列王紀上が一貫して、主ヤーウェの神殿を「たかおか」(異神礼拝所)との対立において高調し、「たかおか」に対する対決如何を、王に対する評価の規準としているところに、列王紀上の意図があります。

「ソロモンは主を愛し、父ダビデの定めに歩んだが、ただ彼は高き所で犠牲をささげ、香をたいた」(列王紀上3:3以下)
という記述も、異教的なものと訣別せず、それと妥協したという点に、ソロモンの致命的な欠点があったのです。

ソロモンの知性の証しとしての栄華が強調されればされる程、神からの心の「転向」を招く「わな」についての無知の致命性が描かれています(列王紀上3:1以下、9:6以下、11:1以下、11:9以下等)。

選民としては、異教的なものとの妥協は、「神言にそむく」罪を意味するというのが、列王紀上の指摘です。

ソロモンの知恵を、異常なほど力説したのも、結局は、人間にとって最高の武器(賜物)である知恵といえども、神に対する「畏れ」を失った時、それは、自己礼讃、したがって、対神的自己神格化を招くことを示唆しています。

神に対する「畏れ」の欠如が、異教的なものとの「妥協」を招き、「わな」を「わな」として見破る判断力をも失わせてしまうのです。

これはすでに創世記が、畏れを知らぬ人間の知的独走性の致命的な結果を予見的に記していたことを想起させます(創世記2:16-17、3章)。

A神言の迫る「対決」(列王紀上17-22章)

この部分からは、預言者エリヤに照明が転じています。

エリヤの証しの特色は、「神言の迫る対決」です。

カルメル山上でのアハブ王(異邦の王女イゼベルをめとり、主の前に悪を行った)との劇的な対決です(列王紀上18章)。

アハブはその王国の外形的繁栄に勢いを得、近隣諸国を糾合、異邦アッスリヤと同盟を結び、異邦フェニキヤのツロの王女を妃として迎えたことにより、バアル礼拝をイスラエルに導入しました(列王紀上16:32)。

列王紀上は、異教的なものとの妥協が、イスラエルを滅亡させた一大動因であったという結論を、そのクライマックスともいうべき預言者エリヤによってで示しています。

「あなたがたはいつまで二つのものの間に迷っているのですか。
主が神ならばそれに従いなさい。
しかしバアルが神ならば、それに従いなさい」(列王紀上18:21)
というカルメル山上での預言者エリヤの言葉は、妥協か対決かを劇的に迫る神言の威力そのものです。

先に、ソロモンの栄華と知恵を媒介として、妥協の反神性を暴露していますが、カルメル山上での、この「妥協か、対決か」の二者択一を盛り上げる伏線となっています。

カルメル山上での劇的なエリヤの勝利の記述と、復讐を企てるイゼベルに追われたエリヤの失意の告白とは、どう関係づけられるでしょうか。

「出て、山の上で主の前に、立ちなさい」という主の声に、ほら穴から這い出たエリヤを包んだ孤独感。

「その時主は通り過ぎられ、主の前に大きな強い風が吹き、山を裂き、岩を砕いた。
しかし主は風の中におられなかった。
風の後に地震があったが、地震の中にも主はおられなかった。
地震の後に火があったが、火の中にも主はおられなかった」(列王紀上19:11以下)
という、記述を通して映し出されています。

ここに指摘されるエリヤの姿は、次から次へと、自己の抱く予想を裏切られる者のむなしさを映し出しています。

先には、「火をもって答えた神」ではなかったか。

「火の中にも主はおられなかった」という素朴な表現を通して、エリヤは、彼の予想、彼の前提を、「突き放して」語る神を仰ぐべきでした。

エリヤの前提を否定するかのように、エリヤの予想に反して、語る神。
それは「火の後に静かな細い声」で語りたもう神でした。

エリヤのその時の自己告白が、
「わたしは万軍の神、主のために非常に熱心でありました。
イスラエルの人々はあなたの契約を捨て、あなたの祭壇をこわし、刀であなたの預言者たちを殺したからです。
ただわたしだけ残りましたが、彼らはわたしの命を取ろうとしています」
(列王紀上19:14)
という言葉で示されています。

神言の迫りが、エリヤに、異教的なものと「対決」させる威力を発揮しました。
しかし、「エリヤの熱心」は、エリア自身も気づかないうちに「自分への熱心」にかわっていたのです。

自己の予想や前提が、神言の威力を下から規定してはならないのです。

エリヤはーー彼の熱心、人間の近視眼的制約を免れないーー「人の熱心」と、「主の熱心」との次元の違いに対して、眼を開かされる必要があったのです。

近視眼的なエリアには隠されていますが、「主の熱心」は「バアルにひざまずかず、それに口づけしない七千人をイスラエルのうちに残す」という、隠れた歴史の支配者なのだからです。

神言の威力は、人の予想や、人の前提に沿って発揮されるのではないのです。

神の意志は、人の予想や、人の前提の枠を超えて実現されます。

列王紀上は、そのことを実証するかのように、終わりに、イスラエルへの偶像礼拝の導入者、アハブ王の悲惨な死の記述しています。

「王は死んで、サマリヤへ携え行かれた。
人々は王をサマリヤに葬った。
またその戦車をサマリヤの池で洗ったが、犬がその血をなめた。
また遊女がそこで身を洗った。
主がいわれた言葉のとおりである」(列王紀上22:37以下)。


posted by 道川勇雄 at 14:14| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする


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