2019年07月21日

歴代志上

歴代志上

「『神の箱』の内在性と超越性」 

歴代志は、「祭儀優位」の歴史観で書かれています。

旧約聖書は全体として「選民史」ですが、その中には、さらに、「申命記的歴史哲学」によって貫かれたものと(ヨシュア記、士師記、サムエル記、列王記)、「祭司法典的歴史哲学」を反映する一群(歴代志、エズラ記、ネヘミヤ記)とがあります。

歴代志が、その系図を原人アダムにまで遡り、紀元前538年のペルシャ王クロスの元年までの歴史を包括している点は、「申命記的歴史観」の選民中心的のそれと、著しい対照をなしています。

歴代志の系図の記載は、
「アダム、セツ、エノス、 ケナン、マハラレル、ヤレド、 エノク、メトセラ、ラメク、 ノア、セム、ハム、ヤペテ。 ヤペテの子らはゴメル、マゴグ、マダイ、ヤワン、トバル、メセク、テラス。 ゴメルの子らはアシケナズ、デパテ、トガルマ。 ヤワンの子らはエリシャ、タルシシ、キッテム、ロダニム。 ハムの子らはクシ、エジプト、プテ、カナン。 クシの子らはセバ、ハビラ、サブタ、ラアマ、サブテカ。ラアマの子らはシバとデダン。 クシはニムロデを生んだ。ニムロデは初めて世の権力ある者となった。」(歴代志上 1:1-10)

と、延々と続き、歴代志上29章中、おおよそ9章を費やしています。

マタイによる福音書の系図が、アブラハムから始められ、ルカによる福音書の系図が、歴代志と同じように、アダムまで遡っているのは、異邦万民を対象としているからです。

歴代志上の系図が、「アダムから始められ」、「ダビデの系図」を明らかにすることにあるのですから、ごく要約的に記せば、
この世の君の支配のだけが「顕わ」で、主の統治が全く「隠され」ている現実において、主の支配の手を「今ここに見る」かのように決断的に生きるーーその具体的な在り方は、この暗い現実世界で行なわれる讃美礼拝は、そのまま神の究極的勝利の「先取り」です。
すなわち、「正しい礼拝こそ世界を救う」という信仰告白です。

聖書中の書物相互間の「重複」という観点でみますと、サムエル書と列王紀に対する、この歴代志の歴史的記録が最もよい実例です。

歴代志は、サムエル書と列王紀のしるしている記録とは、その見地、その思想などを異にしていますが、その記録している歴史はまったく「重複」したものです。

歴代志上が、南王国ユダを重点に描いており、列王紀の中にみられる預言者物語を全面的に省略している点は、その史観の特徴です。

歴代志上では、神殿建築に対して、ダビデ王は、その準備者であるにすぎず、ソロモンが神殿建築者としての栄誉を担わせられていますが、これは、歴代志上の祭儀優位的視点を力説するものに他なりません。

@神殿建築を拒まれた王ダビデの主畏敬(歴代志上1-22章)

歴代志上が北王国イスラエルには殆んどふれず、南王国ユダの記述に偏重していますが、それは結局は、ダビデ的系図に焦点をおいているということです。

系図を詳述したのち歴代志上は、
「こうしてサウルは主にむかって犯した罪のために死んだ。
すなわち彼は主の言葉を守らず、また口寄せに問うことをして、主に問うことをしなかった。
それで主は彼を殺し、その国を移してエッサイの子ダビデに与えられた」(歴代志上10:13-14)
といって、ダビデ王の隆盛の事例の紹介に移っています。

ダビデ王の治世の最大課題として歴代志上は、「神の箱」の奪還と、その中心的位置の確立をあげています(歴代志上13:1以下)。

歴代志上は、歌と琴と立琴等、あらゆる楽器をもって、ダビデおよびすべてのイスラエルが讃美と踊りをもって「神の箱」を迎えた時に、つづいておこった不吉な出来事についてのべています。

「神の箱」をひく牛がつまずいたので、思わずウザが手を伸べて箱を押えましたが、そのことについて、
「ウザが手を箱につけたことによって、主は彼に向かって怒りを発し、彼を撃たれたので、彼はその所で神の前に死んだ。
主がウザを撃たれたので、ダビデは怒った」(歴代志上13:9以下)
というのです。

この出来事の解明に光を当てるのは、イスラエルが荒野放浪中に聖所の運搬に関して与えられた警告です。
レビの子たちのうちコハテの子たちがその運搬を命じられていたのですが、そのさい、
「しかし、彼らは聖なる物に触れてはならない。
触れると死ぬであろう」(民数記4:15)
とつけ加えられています。

祭司アロンの子らが主の前に、その命令に反して「異火をささげ」、主の前から火が出て、たちどころに死んだ、という出来事について、レビ記は、
「主は、こう仰せられた。
すなわち
『わたしは、わたしに近づく者のうちに、わたしの聖なることを示し、すべての民の前に栄光を現すであろう』」(レビ記10:1以下)
と解説しています。

「神の箱に手をかけた行為」は、「主の前に異火をささげた行為」と同列にはおけません。

しかし、主の怒りの結果、死んだという点で、その出来事は、神の「聖なる怒り」を、改めて銘記させるものであったといえます。

主はかつてモーセに命じて、
「わたしのために聖所を造らせなさい。
わたしが彼らのうちに住むためである」(出エジプト記25:9)
と約されています。

「神の箱」は、聖所に代わり、神がイスラエルの中に内住したもうことの象徴である、という意味では、その前に「踊らせる」ものです。

また、「神の箱」は、あくまでも「聖なる神」の臨在の象徴としては、「畏るべき」ものです。

「『神の箱』の内在性と超越性」が、歴代志上の意図です。

この点は、ダビデと神殿建築との関係の記述でも反映しています。

歴代志上は、神の契約の箱を安置するための神殿建築をダビデが望んだにも拘らず、神から拒まれたこと、しかもダビデは、その時にも、神のあふれるばかりの配慮と恵みを讃え、主に栄光を帰したとみているからです(歴代志上17章)。

A神殿建築の準備者としてのダビデの寄留者感(歴代志上23-29章)

年老い、ソロモンに王位をゆずってからのダビデは、余生を専ら、神殿建築のための準備に費しました。

ダビデは、自己の金銀の財宝のすべてをも神の宮の建立のためにささげた時
「われわれはあなたの前ではすべての先祖たちのように、旅びとです、寄留者です。
われわれの世にある日は影のようで、長くとどまることはできません。
われわれの神、主よ、あなたの聖なる名のために、あなたに家を建てようとしてわれわれが備えたこの多くの物は皆あなたの手から出たもの、また皆あなたのものです」(歴代志上29:10以下)
という言葉をもって、主に栄光を帰しています。

神殿建立を拒絶され、ただその準備者であることに甘んじた王ダビデは、「神の箱」(神の臨在)の内在性、超越性を見失わない神への畏れの証人でした。

ダビデの最期が、サウルのそれとは全くちがっていたことは、歴代志上のしるす、
「彼は高齢に達し、年も富も誉も満ち足りて死んだ」
という評価にうかがえます(歴代志上29:28)。

【参考】
「そこでサウルはその武器を執る者に言った、
『つるぎを抜き、それをもってわたしを刺せ。
さもないと、これらの無割礼の者どもがきて、わたしを刺し、わたしをなぶり殺しにするであろう。』
しかしその武器を執る者は、ひじょうに恐れて、それに応じなかったので、サウルは、つるぎを執って、その上に伏した。」(サムエル記上 31:4)


posted by 道川勇雄 at 14:20| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする


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