2019年07月21日

ネヘミヤ記

ネヘミヤ記

「聖都再建妨害者への不退転の抵抗」 

エズラ記とネヘミヤ記とは、その登場人物エズラとネヘミヤに関する限り、かなり錯綜しています。

しかし、両書の意図を主眼としてみる限り、エズラ記は、「反省的」であるのに対し、ネヘミヤ記のそれは「攻撃的」です。

@不退転の抵抗による城壁の完成(ネヘミヤ記1-7章)

ペルシャ王アルタシャスタ王の侍臣となっていたユダヤ人ネヘミヤが耳にしたのは、
「かの州で捕囚を免れて生き残った者は大いなる悩みと、はずかしめのうちにあり、エルサレムの城壁はくずされ、その門は火で焼かれたままだ」
という情報でした。(ネヘミヤ記1:3)

聖都エルサレムの城壁工事を、「神が彼の心に入れられた」使命とさとったネヘミヤの行動に一貫していたのは、文字どおり「不退転」の一事に尽きます。

城壁工事の手ごわい妨害は、サマリヤ人の首長サンバラテによる波状攻撃でした。

サマリヤ人としては、イスラエル北王国滅亡後、アッスリヤによりサマリヤに移住させられた結果生まれた「混血民族」であり、彼らを排斥するユダヤ人に対しては深いうらみをもっていました(列王紀下17:24以下)。

ネヘミヤの不退転の抵抗に対して、サマリヤのサンバラテは、最後の切り札として、中傷をもってあたったのです。

それは、
「諸国民の間に言い伝えられ、またガシムも言っているが、あなた(ネヘミヤ)はユダヤ人と共に反乱を企て、これがために城壁を築いている。
またその言うところによれば、あなたは彼らの王となろうとしている。
またあなたは預言者を立てて、あなたのことをエルサレムにのべ伝えさせ、『ユダに王がある』
と言わせているが、そのことはこの言葉のとおり王に聞えるでしょう。
それゆえ、今おいでなさい。
われわれは共に相談しましょう」(ネヘミヤ記6:1以下)
としるされた、サンバラテからの五度目のいやがらせの手紙でした。

ネヘミヤの不退転の抵抗が、最悪の状況下でも「片手に工事、片手に武器」という戦闘態勢を民のうちに確保しつづけ、ついに城壁は五十二日を経て完成しました。

そしてその完成については、
「われわれの敵が皆これを聞いた時、われわれの周囲の異邦人はみな恐れ、大いに面目を失った。
彼らはこの工事が、われわれの神の助けによって成就したことを悟ったからである」
としるされ、ネヘミヤを強敵の面前でなお不退転にさせた者(主)が、ネヘミヤを超えたところに証しされています。

A不退転の説得による契約の遵守(ネヘミヤ記8-13章)

「その時、民は皆ひとりのようになって、水の門の前の広場に集まり、主がイスラエルに与えられたモーセの律法の書を持って来るように、学者エズラに求めた」
というこの部分の冒頭の記述は、「神の言葉あっての聖都」であり、「神の言葉あっての神殿」であることの選民の「証し」です。

学者エズラの目的は初めから、律法の権威の確立でしたから、この時、すべてのイスラエルに向かって、
「エズラは初めの日から終りの日まで、毎日神の律法の書を読んだ」(ネヘミヤ記8:18)。

エズラによる公的な律法の朗読は、多くの選ばれた人々の解明によって、その意味の徹底が期されましたが、エズラ自身による律法の解明は、選民史の回想であり、その反芻(はんすう)、ざんげです。

「われわれに臨んだすべての事について、あなた(主)は正しいのです。
あなたは誠実をもって行われたのに、われわれは悪を行ったのです」(ネヘミヤ記9:33)
とは、民の罪を神の前にとりなす祭司エズラに最もふさわしい告白の言葉といえます。

ネヘミヤ記は、祭司エズラに劣らず、平信徒であり、総督であったネヘミヤが、いかに律法の遵守において、不退転をもってした有力な指導者であったかを力説しています。

ネヘミヤはたまたまエルサレムに帰った折、
「神の宮のへやをつかさどっていた祭司エリアシブは、トビヤ(付き合いを禁じられていたら「モアブ人の兄弟民族・アンモン人」)と縁組したので、 トビヤのために大きなへやを備えた。
そのへやはもと、素祭の物、乳香、器物および規定によってレビびと、歌うたう者および門を守る者たちに与える穀物、ぶどう酒、油の十分の一、ならびに祭司のためのささげ物を置いた所である。
その当時、わたしはエルサレムにいなかった。
わたしはバビロンの王アルタシャスタの三十二年に王の所へ行ったが、しばらくたって王にいとまを請い、 エルサレムに来て、エリアシブがトビヤのためにした悪事、すなわち彼のために神の宮の庭に一つのへやを備えたことを発見した。
わたしは非常に怒り、トビヤの家の器物をことごとくそのへやから投げだし、 命じて、すべてのへやを清めさせ、そして神の宮の器物および素祭、乳香などを再びそこに携え入れた。」(ネヘミヤ記 13:4-9)

その他、ネヘミヤがレビ人に対する不公平な分配を、つかさたちの責任として徹底的につきとめ、あるいは安息日の禁を犯したユダの指導者たちを責めた、というふうに、文字どおり、権威者を恐れず、律法厳守のために闘いぬいた不退転の姿勢が力説されています(ネヘミヤ記13章)。

先立つ歴代志では、選民の上に審判としての「破局」がもたらされたのは、選みの神に対する民の「礼拝形式」における誤謬のためであるとし、その自覚で、過去における「選民のあるべき姿」が祭儀中心的に描かれ、続くエズラ、ネヘミヤ書では、その自覚で「審判」のもとにおかれた「イスラエルのあるべき姿」が、律法的に表現されています。


posted by 道川勇雄 at 14:27| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする


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