2019年07月21日

エステル記

エステル記

「隠れた歴史支配者への賭けがもたらす運命の逆転」 

異邦権力の中に投げ出された弱小民族・イスラエルの救出物語の一つですが、エステル記は、その教出物語の中に「神」や「主」をもち出さず、運命の逆転の鍵が、一女性の決断にあったことを示しています。

@民族の危機におけるエステルの位置(エステル記1-4章)

選民イスラエルの歴史は、「亡国」「捕囚」を境として、一大変貌をとげました。

神に選ばれた民族としての歴史をもっているので、他民族との「水平的関係」の変貌だけではなく、その「選び主」との「垂直関係」の変貌を意味しました。

「捕囚」前のイスラエルの神は、使者や預言者を介して、「親しく」導く神として、自らを啓示しましたが、虜囚後においては、「神は死んだ」といわせるほどに、その選民からも、自らを「隠す」神として示されています。

エステル記は、ペルシャ王朝の時代であり、その属国・イスラエルの運命の鍵は、ユダヤ人全滅を企てるペルシャ王の奸臣ハマンの手に握られていました(エステル記3:1-11)。

奸臣ハマンは、
「一日のうちにすべてのユダヤ人を、若い者、老いた者、子供、女の別なく、ことごとく滅ぼし、殺し、絶やし、かつその貨財を奪い取る日をアダル(十二月)の月の十三日と定めた」
のです。

ヒットラーの率いるナチ・ドイツが行った「ユダヤ人絶滅行動」の西暦前版です。

選民「殺戮」の日は、奸臣ハマンの投げた「ブル(くじ)」によって定められたのです。

絶体絶命のユダヤ人の危機にさいしての唯一の望みは、「たまたま」ペルシャ王妃とされているユダヤ人女性・エステルにかかっていました。

エステルの養父モルデカイは、ペルシャ王廷の法律で、
「すべて召されないのに内庭にはいって王のもとへ行く者は、必ず殺され」ることを知らされていながら、エステルにユダヤ民族の全運命が、エステルに賭けられていることを訴えました。

「あなたは王宮にいるゆえ、すべてのユダヤ人と異なり、難を免れるだろうと思ってはならない。
あなたがもし、このような時に黙っているならば、ほかの所から、助けと救がユダヤ人のために起こるでしょう。
しかし、あなたとあなたの父の家とは滅びるでしょう。
あなたがこの国に迎えられたのは、このような時のためでなかったとだれが知りましょう」(エステル記4:13-14)。

ユダヤ人とは、
「ペルシャ王の法律を守らず、生かしておくことは決して王のためにならない」(エステル記3:8)
といわれていたのです。

そうであればこそ、エステルの養父モルデカイさえ、エステルが王妃となった時、その血統を隠しておくよう勧告せざるをえなかったのです。

そのユダヤ人の「生命乞い」に王の前に出頭することは、エステルにとっては文字どおり、生命がけでした。

だが、
「あなたがこの国に迎えられたのは、このような時のためでなかったとだれが知りましょう」
という養父モルデカイの言葉には、単なる「賭け」以上のものが訴えられています。

人がおかれている「位置の受け取り直し」です。

一ユダヤ人女性、しかも奴隷扱いされる身分の女が、ペルシャ王妃という位置を与えられたことは、彼女の生れつきの美しさのためであるとしても、その位置を「偶然的」なものとみなすことが、むしろ当然でしょう。

しかし、それ以外の考え方はありえないのだろうか。

そのような位置を与えられたことは、「全民族の救出の突破口」として役立てられるためでないと、果たして言い切れるだろうか。

してみれば、「この時のため」にすべてを投げ出すことは、「人的偶然」は、「神的必然」に他ならないことの証しとなります。

果たしてこれが「神的必然」と言い切れるか否か、それが生への途か、死への途か、「だれも知らない」のです。

そこには、「賭け」があるだけです。

賭けるか否か、それはエステルの決断一つにかかっているのです。

エステルには、賭けるチャンスが与えられている。
そしてチャンスが与えられている以上、「チャンスは人をさばく」。

モルデカイの口をかりて語られているこの訴えは、「民族の運命」と、「個人の決断」との関係について、また「歴史の偶然」と「歴史の必然」の問題に対して、深遠な洞察に基づく真実を語っています。

この物語は、このモルデカイの訴えに触発されて、
「わたしは法律にそむくことですが王のもとへ行きます。
わたしがもし死なねばならないのなら、死にます」
という決意をもって賭けたエステルの実践にしぼられていきます。

A民族の運命の逆転を招いたエステルの賭け(エステル記5-10章)

権力者の心の楽しみは、「邪魔者を次々に消す」という一事でしょう。

奸臣ハマンにとっては、
「ユダヤ人モルデカイが王の門に座しているのを見る間は」(エステル記5:13)
あらゆることの楽しみが徹底しなかったのです。

そこでユダヤ人・モルデカイ殺害のために、「高さ五十キュビトの木を立てさせ」ることにしたのです。

他方、モルデカイの隠されていた過去の業績がたまたま王に知られて賞賛され、ハマンは逆に、エステルによってその陰謀を告発され、ついに、ハマン自身がモルデカイのためにハマンによって備えてあった木に掛けられたのです(エステル記7章)。

ユダヤ人は全滅を免れました。

運命は逆転したのです。

くじ(運命を定める)は、くじを投げた者の上に、投げ返されたからです。

「このゆえに、この両日をプル(くじ)の名にしたがってプリムと名づけ」、ユダヤ人には、憂いが喜びに変えられた記念の日となりました(エステル記9章)。

エステル記は、「神」ということについては一言も言及していませんが、運命を定めるため、人が投げたくじを「投げた者の上に投げ返した者は誰か」を問わせずにはおきません。

エステルの賭けが、民族の運命を逆転させるために用いられたというのが、この物語の筋ですが、エステル記は、「用いたもう神」を、「隠れた歴史の支配者」として仰がせます。

隠れた歴史支配者を仰がせる歴史の中では、「いつ」「誰が」「どこで」「如何に」「用いられるか」さえ隠されていることを力説していることが、エステル記の意図です。

ディートリッヒ・ボンヘッファーは、「成人した世界」を、「神の前で神と共に神なしに生きる」という表現をしています。
魅力的な表現ですが、現今の情勢は「神なしに生きる」という在り方が、「神の前に・神と共に」という在り方から切り離して受け取られています。
ボンヘッファーのこの表現の強調は、「作業仮説の神なしに、われわれにこの世の生を営ましめ給う神」を言っています。

「われわれが常にその前に立っている神」と「われわれがそれなしに生きなければならない神」とは、同一の神であるということこそ、その強調点です。

エステル記のエステルは、このボンヘッファーの言葉通りの「生き方」を示しています。

(「作業仮説の神」とは、呼び出せば、都合良く答えてくれる神。人間の幻想のきわみです。)


posted by 道川勇雄 at 14:29| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする


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