2019年07月21日

ヨブ記

ヨブ記

「人に賭ける神の暴露する主客倒錯」 

「神が人を創造したのではなく、人が神をつくったのだ。
人間はその宿命的な弱さ、有限性を何とか克服したいので、そのような欲求を充たしてくれるものとして、神というような、ありもしないものを考え出したのだ。
それゆえ、神とか宗教とかは、しょせん、幻想にすぎない。」

宗教否定論者・フォイエルバッハの「宗教願望説」「宗教幻想説」に代表される発想です。

さらに彼によると、
「人は、自己を神に投影しているのに、その投影しているということさえ気がついていない。
そこにこそ信仰者すべての本質がある」
と言います。

この言葉は、信仰者にとっては、かなりむごい挑戦とひびくかもしれませんが、同時に、これくらい、宗教ひいては信仰が、無意識のうちに陥りやすい傾向性を鋭く指摘したものはありません。

ヨブ記は、このような「宗教願望説」「宗教幻想説」に対する、聖書からの回答です。

キリスト教の拠りどころである聖書そのものが、「幻想の体系」にすぎない、という挑戦をうけているのが、キリスト教信仰の現在です。

しかしこれは、フォイエルバッハたちからの挑戦と共に、既に旧約聖書のヨブ記において「先取されて挑戦」されているのです。

スイスの神学者エーミル・ブルンナーは、フォイエルバッハからの挑戦に対して、「宗教が幻想だというなら、キリスト教は宗教ではなく、『啓示』である」と答えています。

ところが、「啓示」は、必ずしも、キリスト教の専売特許ではありません。

果たして、聖書は、「宗教幻想説」に対して、どう答えるか。

端的にいって、聖書は、「幻想暴露者としての神の自己『啓示』」です。

その点におけるヨブ記の意図を追跡してみます。

@御利益宗教をめぐる神とサタンの賭け(ヨブ記1章―2:10)

先のエステル記では、賭けるのは神ではなく、エステルであり、「人からの、神への賭け」でした。

ヨブ記は、それと反対に、「神からの、人への賭け」です。

主人公ヨブは義人としてあがめられ、家族ぐるみ信心深さの典型とされていました。

だが、その信心深いヨブといえども
「いたずらに神を恐れましょうか。
あなた(神)は彼(ヨブ)とその家およびすべての所有物のまわりにくまなく、まがきを設けられたではありませんか」(ヨブ記1:9-10)
という、サタンの問題提起から、ヨブ記は始まります。

つまり、人の世にあるのは、「御利益あっての宗教」だというのです。

だから、
「今あなた(神)の手を伸べて、彼(ヨブ)のすべての所有物を撃ってごらんなさい。
彼は必ずあなたの顔に向かって、あなたをのろうでしょう」(ヨブ記1:12、2:6)
とはサタンの洞察です。

このサタンからの挑戦に対して、神はヨブの命以外のすべてをサタンの手にまかします。

そこで、御利益宗教をめぐって、「神とサタンの賭け」が始められます。

御利益宗教をめぐる賭けとは、本質的には、「ヨブをめぐる神とサタンの賭け」です。
「人間をめぐる神とサタンの争奪戦」です(H・ティーリッケ)。

相手を「自由と責任の主体」として遇する人格関係の本質は、「賭け」以外ではありえないでしょう。

その視点からするなら、神と、そして、人間の誘惑者であるサタンとの間の「賭け」をめぐって、人間の自由意志を照射してゆく、奇抜で、しかも的確なヨブ記の記述のレントゲン的操作には、驚かされます。

神とサタンの賭けは、両極を示しています。

神のそれは、「人間への信頼に傾く賭け」であり、サタンのそれは、「人間への懐疑」に基づく賭けです。

見過ごしてならないことは、「人間は信頼するに足るから、神は人間に信頼的に賭けているのではない」という一点です。

人間は、本来、神に対しては、神を裏切ることしかできない者です。
それ「にも拘らず」、なお信頼的に賭ける、これが、冷厳な「人格的」要請です。

あらゆる富、あらゆる所有物をうばわれてなお、ヨブは、
「わたしは裸で母の胎を出た。
また裸でかしこに帰ろう。
主が与え、主が取られたのだ。
主のみ名はほむべきかな」(ヨブ記1:20、2:10等)
と、主を讃美したヨブを通してヨブ記は、御利益宗教に解消し尽くされない神信仰の勝利を語っています。

これは、概念的には到達不可能な、創造主の「現前感」「被造者感」による告白です。

A「応報的・教育的神義論」との葛藤(ヨブ記2:11-37章)

ヨブ記は、御利益宗教でない神信仰の勝利を示す部分を序奏として、36章までヨブと三人の友との対決を長々と展開しています。

序奏の部分では、苦難の問題は、素朴に、被造者的実存的に照射されていますが、この部分は、いずれかというと、知的反省的な展開として、苦難を神義論的に扱っています。

「なにゆえ、わたしは胎から出て、死ななかったのか。
腹から出たとき息が絶えなかったのか。
なにゆえ、ひざが、わたしを受けたのか」
と自分の生まれた日をのろうヨブに、
「考えてみよ、だれが罪のないのに、滅ぼされた者があるか。
どこに正しい者で、断ち滅ぼされた者があるか。
わたしの見た所によれば、不義を耕し、害悪をまく者は、それを刈り取っている。
彼らは神のいぶきによって滅び、その怒りの息によって消えうせる」
というエリパズの応報説についで、
「彼(神)は賢い者を、彼ら(人間)自身の悪巧みによって捕え、曲った者の計りごとをくつがえされる。
ーー見よ、神に戒められる人はさいわいだ。
それゆえ全能者の懲らしめを軽んじてはならない。
彼(神)は傷つけ、また包み、撃ち、またその手をもっていやされる」(ヨブ記4:7以下、5:13以下等)
と、「教育的神義論」がのべられています。

三人の友の神義論に触発されて、ヨブ自身も、
「わたしは自分の命をいとう。
わたしは自分の嘆きを包まず言いあらわし、わが魂の苦しみによって語ろう。
わたしは神に申そう、わたしを罪ある者とされないように。
なぜわたしと争われるかを知らせてほしい。
あなたはしえたげをなし、み手のわざを捨て、悪人の計画を照すことを良しとされるのか。
あなたの持っておられるのは肉の目か。
あなたは人が見るように見られるのか」(ヨブ記10:1以下)
と、「あなたはそれでも神なのか」と言わんばかりの告発調になって来ます。

「わたしは知る、わたしをあがなう者は生きておられる、後の日に彼は必ず地の上に立たれる。
わたしの皮がこのように滅ぼされたのち、わたしは肉を離れて神を見るであろう。
しかもわたしの味方として見るであろう。
わたしの見る者はこれ以外のものではない。
わたしの心はこれを望んでこがれる」(ヨブ記19:25)
と告白するヨブの神信頼も、苦難の重圧の下で、いつしか「自己信頼」と結びついたことは、
「このようにヨブが、自分の正しいことを主張したので、これら三人の者はヨブに答えるのをやめた。

その時ラム族のブズびとバラケルの子エリフは怒りを起したのです。

「ヨブが神よりも自分の正しいことを主張するので、エリフはヨブに向かって怒りを起した」(ヨブ記19:25以下、32:1以下)
としるしているところによってあきらかです。

ところで、このヨブをかこむ三人の友との間で継続される神義論的記述の部分は、視点を改めると、「神の沈黙」の期間です。

「神の沈黙」は、そのまま、ヨブへの「賭け」です。
「神の沈黙」は、神義論者との葛藤を通して、ヨブに、「神信頼」と「自己信頼」とは両立しえないことを悟らせる時なのです。

「自己信頼」は、自己の狭さ・浅さ・低さに基づくつじつま合わせによって、神の主権と自由を犯す、ということを悟らせるためでした。

B「主客倒錯的神義論」の暴露(ヨブ記38-42章)

これまで第三者として語られ、論じられていた神が、ここでは、「私と汝」という形でヨブと対決し始めます。

「この時、主はつむじ風の中からヨブに答えられた、
『無知の言葉をもって、神の計りごとを暗くするこの者はだれか』」(ヨブ記38:1-2)
と。

これまで、神が「第三者」として語られた神義論は、主の前には「無知の言葉」として評価されました。

この評価は42章にも再びくり返されています(ヨブ記42:3)。

その無知は、いわゆる「応報的神義論」でないまでも、「義なる神が、義人を苦しめるはずはない」と言わんばかりの、ヨブにとって納得のいく前提です。

苦悩するヨブがいつしか無意識のうちに陥っていた自己信頼に基づく前提でした。

全く無意識のうちに、創造主が、ヨブの「問題解決者」(「仮説作業の神」)とされていたのです。
(「作業仮説の神」とは、呼び出せば、都合良く答えてくれる神。人間の幻想のきわみです。)

その創造主と被造者ヨブとの間の「主客倒錯」が、ヨブの無知の根源として照射され、暴露されたのです。

ヨブの無知の言葉が「神の計りごとを暗くする」のです。

それ故被造者であるヨブは、創造主が、
「地の基をすえた時、どこにいたか。
ーーだれがその度量を定めたか。
だれが測りなわを地の上に張ったか。
その土台は何の上に置かれたか。
その隅の石はだれがすえたか」(ヨブ記38:3以下)
に答えられない、主客の不可逆性を銘記させられます。

「神の義」の妥当性について、問うていた被造者ヨブは、今や、彼こそ、逆に「問われるべき者」として、その主客倒錯をあばき出されのです。

「『非難する者(ヨブ)が全能者と争おうとするのか。
神と論ずる者はこれに答えよ。』
そこで、ヨブは主に答えて言った、
『見よ、わたしはまことに卑しい者です。
なんとあなたに答えましょうか。
ただ手を口に当てるのみです』」(ヨブ記40:1以下)。

「わたしは知ります、あなたはすべての事をなすことができ、またいかなるおぼしめしでも、あなたにできないことはないことを。
『無知をもって神の計りごとをおおう、この者はだれか。』
それゆえ、わたしはみずから悟らない事を言い、みずから知らない、測り難い事を述べました。
ーーわたしはあなたの事を耳で聞いていましたが、今はわたしの目であなたを拝見いたします。
それでわたしはみずから恨み、ちり灰の中で悔います」(ヨブ記42:1以下)
という自己暴露の告白が、そのことを証ししています。

冒頭に、ヨブ記の神をーーサタンの人に対する懐疑的賭けとは反対にーー「信頼的賭けの主体」と書きました。

ヨブは、神から単なる試練をうけているとはいえません。

「試練」は、消極的かつ忍従的です。

それに反して、「賭け」は、積極的であり、主体的であり、個別的で挑戦的です。

それは、ヨブ記の序文で消えてしまってはいません。
つむじ風の中からヨブに語りかける創造主の、
「無知の言葉をもって、神の計りごとを暗くするこの者はだれか」
という問いは、直ちに、
「あなたは腰に帯して、男らしくせよ。
わたしはあなたに尋ねる、わたしに答えよ」(ヨブ記38:1-3)
という、文字どおり、挑戦的な言葉でひきつがれているからです。

人に賭ける主だからこそ、「人に、挑戦する」のです。

聖書は、この200年余間続いた世界最高の頭脳による「歴史神学」が明らかにしたように、聖書の素材は、膨大で、しかも全世界に及んでいます。
その素材にまで遡ってみれば、聖書は、膨大な人びとの思索をつなぎ合わせて、思考の枠組みとした「壮大な知的伝統」の産物と言えます。

フォイエルバッハ程度の個人によって覆されるようなモノではないのです。

聖書を読んで、
「来てみれば、さほどでもなし、富士ヶ嶺、釈迦も孔子も、かくやあるらん」と思う人もいるでしょう。

でも、
「聞きしより、思いしよりも、見しよりも、登りて高き、富士ヶ嶺」
と受け取る人もいます、
この差は「天と地」です。


【イエスによる止揚点】
エリフの「教育的神義論」を別にして、ヨブの三人の友は、各相異なるようにみえますが、その本質は、一様に「応報的苦痛観」または「刑罰的苦痛観」で、すべてエゼキエルのそれから出ているもので、虜囚後時代においては一つの預言的正統主義信条となったものです。
それが新約聖書に至って、イエスによって麗しい止揚点を展開しています。
「イエスが道をとおっておられるとき、生れつきの盲人を見られた。 弟子たちはイエスに尋ねて言った、「先生、この人が生れつき盲人なのは、だれが罪を犯したためですか。本人ですか、それともその両親ですか」。 イエスは答えられた、「本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである。」(ヨハネによる福音書 9:1-3)

【参考】
ヨブの三人の友の論点とエリフのそれ。
三人の友の一人、エリパズは、「霊知論」で、
「時に、霊があって、わたしの顔の前を過ぎたので、 わたしの身の毛はよだった。
そのものは立ちどまったが、 わたしはその姿を見わけることができなかった。
一つのかたちが、わたしの目の前にあった。
わたしは静かな声を聞いた、
『人は神の前に正しくありえようか。
人はその造り主の前に清くありえようか。
見よ、彼はそのしもべをさえ頼みとせず、 その天使をも誤れる者とみなされる。
まして、泥の家に住む者、 ちりをその基とする者、 しみのようにつぶされる者。
彼らは朝から夕までの間に打ち砕かれ、 顧みる者もなく、永遠に滅びる。
もしその天幕の綱が 彼らのうちに取り去られるなら、 ついに悟ることもなく、死にうせるではないか。』」(ヨブ記 4:15-21)

二人目のビルダテは、「歴史論」で、
「先の代の人に問うてみよ、先祖たちの尋ねきわめた事を学べ。
われわれはただ、きのうからあった者で、何も知らない、われわれの世にある日は、影のようなものである。
彼らはあなたに教え、あなたに語り、その悟りから言葉を出さないであろうか。
紙草は泥のない所に生長することができようか。
葦は水のない所におい茂ることができようか。
これはなお青くて、まだ刈られないのに、すべての草に先だって枯れる。
すべて神を忘れる者の道はこのとおりだ。
神を信じない者の望みは滅びる。」(ヨブ記 8:3-13)

三人目のツオファルは、「神知論」で、
「あなたは神の深い事を窮めることができるか。
全能者の限界を窮めることができるか。
それは天よりも高い、あなたは何をなしうるか。
それは陰府よりも深い、あなたは何を知りうるか。」(ヨブ記 11:7-8)

いずれも「応報的苦痛観」または「刑罰的苦痛観」で、すべてエゼキエルから出ているもので、虜囚後時代においては一つの預言的正統主義信条となったものです。

最後に登場するエリフは、前三者になかった「教育論」を展開しますが、ヨブを納得させることはできませんでした。

エリフは、
「彼(神)は苦しむ者をその苦しみによって救い、彼らの耳を逆境によって開かれる」とか(ヨブ記36:15)、「神はみずから賢いと思う者を顧みられない」(ヨブ記37:24)というような論法が示すように、かなりな説得性の持ち主ですが、それも、いわゆる「苦痛の教育的效果」に傾く議論として、ヨブ記の中では、ヨブ記の尖端的メッセージに対しては、一種の否定媒介的なものとしてしか位置づずけられていません。


posted by 道川勇雄 at 14:38| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする


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