2019年07月21日

詩篇

詩篇

「深渕からの叫びを讃美に変えさせる『神の賭』」 

やむにやまれぬ感動が詩となるとすると、信仰者の体認させられる圧倒的な感動が、讃美となり、詩となります。

主の恵みに対して溢れ出る応答としての讃美は、その「非作為的性格」ですから、これほどおおらかな証しはないといえます。
「最後の審判」の基準(マタイによる福音書25:31-46)でも、顕著なことは、「作為的なものが審判の対象」となり、「非作為的なものが祝福の対象」としてあげられていることです。
「何時したか」を自覚しないような行為の非作為性が、主によってよみせられるものとして評価されています。

詩篇という、主題的に、思想的に、時代的にも、複雑な構成から成るものの意図を探ることは至難のことですが、全体的存在から、「深渕からの叫びを讃美に変えさせる『神の賭』」と言えます。

信仰者の確信は、究極的勝利者としての「神の支配」の確かさ、「天的決定」(詩篇119:89)におかれているとはいえ、地的現実としては、それは「既に」ではなく「未だ」ですから、底しれない「不安」「恐怖」「焦燥」が渦巻いているのは当然です。

被造物としての人間は、神でもなければ、動物でもありません。
人間ほど謎にみちた存在はないのです。

「わたしは、あなた(創造主)の指のわざなる天を見、あなたが設けられた月と星とを見て思います。
人は何者なので、これをみ心にとめられるのですか、人の子は何者なので、これを顧みられるのですか。
ただ少しく人を神よりも低く造って、栄えと誉とをこうむらせ、これにみ手のわざを治めさせ、よろずの物をその足の下におかれました」(詩篇8:3以下)
というのが、その実感です。

「中間者」といわれるように、人間実存は、徹頭徹尾、動揺的です。

イスラエルの信仰的情感の表現である詩篇も、その情感のはげしい起伏に特色があります。

それは、霊性的、情感的周波サイクルとでもよべます。

キェルケゴールが、実存を、「美的」「倫理的」「宗教的」の三段階の展開として解明したことは、きわめて示唆に富んでいます。

詩篇を、大きく、うずまき状の三つのサイクルに分けてみると、
第一サイクルは、孤立的・非守護的愁訴、
第二サイクルは、公同的・終末感的告白、
第三サイクルは、包越的・聖前感的讃美、
となるでしょう。

@孤立的・非守護的愁訴(詩篇1-89篇)

この世におかれながら、この世の者でない信仰者の姿は、「寄留者」とよばれます。

「隠れた歴史の支配者」を仰ぐ信仰者は、絶対に否定出来ない、「神は死んだ」といわせる地平に投げ出された者であり、この世では、異質的な孤立者だからです。

「地のもろもろの王は立ち構え、もろもろのつかさはともに、はかり、主とその油そそがれた者とに逆らって言う、
『われらは彼らのかせをこわし、彼らのきずなを解き捨てるであろう』
と。
天に坐する者は笑い、主は彼らをあざけられるであろう」
というのが、地的現実の一切に「にも拘らざる」天的現実であることを知りつつも(詩篇2:1-4)、在るがままの信仰者は、
「主よ、わたしに敵する者のいかに多いことでしょう。
わたしに逆らって立つ者が多く、
『彼には神の助けがない』
と、わたしについて言う者が多いのです」(詩篇3:1以下、5:4以下、7:9以下等)
と訴え、不義者が権力を振い、義人が苦しむ社会的矛盾を見ないかのように、沈黙をつづける神に向かって叫びつづけています。

「沈黙する神」「隠れて在す神」に耐え切れない叫びが、詩篇では「いつまで?」「何故?」という句で反復されています。

「主よ、なにゆえ遠く離れて立たれるのですか。
なにゆえ悩みの時に身を隠されるのですか。
悪しき者は高ぶって貧しい者を激しく責めます。
ーー悪しき者は自分の心の願いを誇り、むさぼる者は主をのろい、かつ捨てる」(詩篇10:1以下)、

「主よ、いつまでなのですか。
とこしえにわたしをお忘れになるのですか。
いつまで、み顔をわたしに隠されるのですか」(詩篇13:1)
という訴えは、イスラエルの先祖たちのみならず、現代の紛争地帯を始め、世界各地の被圧迫民の叫びを代弁しています(詩篇22:1、35:17、42:9、43:2、44:24、74:1、74:11、79:5、83:1、88:14、89:46等)。

人の欲求不満をみたす者として、人が幻想する神ではなく、真に活ける神は、「自らを隠す神」、否、「自らを顕わしつつ隠す神」です。

「神は死んだ」といわせるほどに自らを隠す神を仰ぐ信仰者は、「守られていない者」としてこの世におかれています。

バアル(異教の神)にひざをかがめない七千人は隠されている地平で、
「ただわたしだけ残りましたが、彼らはわたしの命を取ろうとしています」(列王紀上19:9以下)
と神に向かって訴えるエリヤの孤立的・非守護的実存の叫びが、ここにはこだましています。

A公同的・終末感的告白(詩篇90-118篇)

詩篇の意図は、「深渕からの叫びを讃美に変えさせる『神の賭』」と言えるでしょう。

それは、詩篇22篇に、次のような形でうたわれています。

「わが神、わが神、なにゆえわたしを捨てられるのですか。
なにゆえ遠く離れてわたしを助けず、わたしの嘆きの言葉を聞かれないのですか。
わが神よ、わたしが昼よばわっても、あなたは答えられず、夜よばわっても平安を得ません。
しかし、イスラエルのさんびの上に坐しておられるあなたは聖なるおかたです」(詩篇22:1-3)
と。

この詩篇22篇が、十字架上でのイエスの最期の言葉とされていることは、信仰者のおかれている現実は、「神は死んだ」と言われるような現実、すなわち、神は自らを隠し、沈黙したもう現実であることを言い得て余りあります。(マタイによる福音書27:46、マルコによる福音書15:34)

だがそれ「にも拘らず」信仰者が仰がせられるのは、「聖なる主」、しかも「イスラエルの讃美の上に坐しておられる聖なる主」です。

「イスラエルの讃美」という表現は、イスラエルを選び、これを育て、出エジプトさせ、聖き民として教育したもうた選民からの、栄光と讃美とを受ける主を仰がせ、その民の中に住むため、そのみ名をおく所としての聖所での讃美を想起させます。

イスラエルの歴史を通して自らを啓示された主は、畏れの対象としての聖なる神でありつつ、同時に、詩篇の証しする、「イスラエルの讃美の上に坐す聖なる主」です。

そこに人は、詩篇の意図である証しを見出します。

主は、イスラエルの讃美の上に坐しておられるから、詩人は、
「わたしの生きるかぎり、主の家に住んで、主のうるわしきを見、その宮で尋ねきわめることを求め」(詩篇27:4)、
そこに現臨したもう主に向かって、
「全能者なる神、主は詔みことのりして、日の出るところから日の入るところまで、あまねく地に住む者を召し集められる。
神は麗しさのきわみであるシオンから光を放たれる。
われらの神は来て、もだされない」(詩篇50:1以下)
と歌うことができたのです。

イスラエルの讃美の上に坐する主の前には喜びの叫びと、踊りがふさわしいのです。

「しかし正しい者を喜ばせ、神の前に喜び踊らせ、喜び楽しませてください。
神にむかって歌え、そのみ名をほめうたえ。
雲に乗られる者にむかって歌声をあげよ。
その名は主、そのみ前に喜び踊れ。
その聖なるすまいにおられる神は、みなしごの父、やもめの保護者である。
神は寄るべなき者に住むべき家を与え、めしゅうどを解いて幸福に導かれる。しかしそむく者はかわいた地に住む」(詩篇68:3以下)。

イスラエルの讃美の上に坐する「主の宮」の麗しさは、また、
「万軍の主よ、あなたのすまいはいかに麗わしいことでしょう。
わが魂は絶えいるばかりに主の大庭を慕い、わが心とわが身は生ける神にむかって喜び歌います。
すずめがすみかを得、つばめがそのひなをいれる巣を得るように、万軍の主、わが王、わが神よ、あなたの祭壇のかたわらに、わがすまいを得させてください。
あなたの家に住み、常にあなたをほめたたえる人はさいわいです。
その力があなたにあり、その心がシオンの大路にある人はさいわいです」(詩篇84:1八以下)
と歌われています。

他方、聖なる者の坐したもう公同の「礼拝所」は、信仰者の視野を拡げ、その見えなかった次元を照らし出し、その思いの狭さ・浅さ・低さを暴露し、反省に導く場です。

「神は正しい者にむかい、心の清い者にむかって、まことに恵みふかい。
しかし、わたしは、わたしの足がつまずくばかり、わたしの歩みがすべるばかりであった。
これはわたしが、悪しき者の栄えるのを見て、その高ぶる者をねたんだからである。
彼らには、苦しみがなく、その身はすこやかで、つやがあり、ほかの人々のように悩むことがなく、ほかの人々のように打たれることはない。
ーーしかし、わたしがこれを知ろうと思いめぐらしたとき、これはわたしにめんどうな仕事のように思われた。
わたしが神の聖所に行って、彼らの最後を悟り得たまではそうであった。
ーーわたしの魂が痛み、わたしの心が刺されたとき、わたしは愚かで悟りがなく、あなたに対しては獣のようであった」(詩篇73:1以下)
と言われている通りです。

しかし信仰者の喜びの根拠は、自己の勝利ではなく、「神の終末的勝利」であるという点まで反省は深められなければなりません。

「新しき歌を主にむかってうたえ。
主はくすしきみわざをなされたからである。
その右の手と聖なる腕とは、おのれのために勝利を得られた。
ーー地のもろもろのはては、われらの神の勝利を見た」(詩篇98:1-3)
といわれているようにです。

「主は王となられた」(詩篇96:10他)という告白とひとしく讃美は本来、終末感的な応答です。

B包越的・聖前感の讃美(詩篇119-150篇)

聖書によると、生命とは、単に肉体的生命のそれではなく、むしろ、神との交わりにある関係を意味しています。

したがって、死とは、神との交わりの断絶です。

しかも、神との交わりは、神秘的、直接的なものではなく、あくまでも、「言葉による」交わりです。

詩篇119篇は、176節からなる最長篇ですが、その主題は、「み言葉」ひいてはおきての讃美からなっています。

「あなたのしもべを豊かにあしらって、生きながらえさせ、み言葉を守らせてください。
わたしの目を開いて、あなたのおきてのうちのくすしき事を見させてください。
わたしはこの地にあっては寄留者です。
あなたの戒めをわたしに隠さないでください。
わが魂はつねにあなたのおきてを慕って、絶えいるばかりです」
という、み言葉への渇きを示す表現を初めとして、とりわけ顕著なのは、「み言葉を喜ぶ」という表現のおびただしい反復です。

「わたしはあなたのみ言葉に信頼するからです。
またわたしの口から真理の言葉をことごとく除かないでください。
わたしの望みはあなたのおきてにあるからです。
わたしは絶えず、とこしえに、あなたのおきてを守ります。
わたしはあなたのさとしを求めたので、自由に歩むことができます。
わたしはまた王たちの前に、あなたのあかしを語って恥じることはありません。
わたしは、わたしの愛するあなたの戒めに自分の喜びを見いだすからです。
わたしは、わたしの愛するあなたの戒めを尊び、あなたの定めを深く思います」、

「あなたの定めはわが旅の家で、わたしの歌となりました」、

「苦しみにあったことは、わたしに良い事です。
これによってわたしはあなたのおきてを学ぶことができました」、

「あなたのみ言葉はいかにわがあごに甘いことでしょう。
蜜にまさってわが口に甘いのです。
わたしはあなたのさとしによって知恵を得ました。
それゆえ、わたしは偽りのすべての道を憎みます。
あなたのみ言葉はわが足のともしび、わが道の光です」
という具合です。

その格調の高さを示すものとしては、
「主よ、あなたのみ言葉は天においてとこしえに堅く定まり、あなたのまことはよろずよに及びます」(詩篇119:89-90)
という言葉や、
「み言葉が開けると光を放って、無学な者に知恵を与えます」(詩篇119:130)
という驚くべき洞察の高さと深さを歌ったものがあります。

この詩篇にみなぎるみ言葉との法悦的な交わりの秘密は、この二つの句に負っているというべきです。

ところで今引用した、驚くべき啓示的な二つの詩にも匹敵するのは、第139篇です。

「主よ、あなたはわたしを探り、わたしを知りつくされました。
あなたはわがすわるをも、立つをも知り、遠くからわが思いをわきまえられます。
あなたはわが歩むをも、伏すをも探り出し、わがもろもろの道をことごとく知っておられます。
ーーわたしはどこへ行って、あなたのみたまを離れましょうか。
わたしはどこへ行って、あなたのみ前をのがれましょうか。
わたしが天にのぼっても、あなたはそこにおられます。
ーーわたしがあけぼのの翼をかって海のはてに住んでも、あなたのみ手はその所でわたしを導き、あなたの右のみ手はわたしをささえられます。
ーーわたしはあなたをほめたたえます。
あなたは恐るべく、くすしき方だからです。
あなたのみわざはくすしく、あなたは最もよくわたしを知っておられます。
ーー神よ、あなたのもろもろのみ思いは、なんとわたしに尊いことでしょう。
その全体はなんと広大なことでしょう」
と、創造主の中におかれた被造者にしか体認されない、「聖前感」が、吐露されています。

「主よ、いつまで?」と問う、第一サイクルとも、
「イスラエルの讃美の上に坐す聖なる主」に目を注ぐ第二サイクルともちがって、ここには、
第三サイクルとして、創造主に「知られて知る」という、包越的聖前感とでもよべる次元の開示があります。

「われわれは神のうちに生き、動き、存在している」(使徒17:28)
と宣べた使徒は、この詩篇を想起しつつ語ったのでしょう。

「独断的」という批判をおそれずに、詩篇の意図を書きました。
現段階では上記のような「愁訴と告白と讃美」のサイクルのうずまきの中に詩篇の意図を見させられています。

【詩篇のメシア(キリスト)預言】

詩篇中、ユダヤ人が「メシア(キリスト)」預言としていたのは、次の4篇です。

⚫︎第2篇は、メシヤ預言であることが明らかです。
ここに描かれているメシヤはイザヤ書上半に描かれているそれ、および後半に描かれている「平和」における姿ではなく、きわめて戦闘的で、その権威と統治とが力づよく歌われています。

⚫︎第45篇には、一方には雅びで麗わしく、他方にはその剣と栄と威とをおびたメシヤが描かれています。
この詩では、このメシヤが中途で突如「神よ」とよびかけられていることで、解釈者が困難を感じたことで、よく知られています(詩篇45:6)。
新約時代には、もちろんこのまま読まれていました。

⚫︎第72篇のメシヤは「平和の君」の姿でのべられ、第2篇のそれと全く正反対です。
「神よ。あなたの公正を王に、あなたの義を王の子に授けてください。(略)
彼の名はとこしえに続き、その名は日の照るかぎり、いや増し、人々は彼によって祝福され、すべての国々は彼をほめたたえますように。」。

⚫︎第110篇では、メシヤがとくに「王」として、「祭司」として描かれています。
この作者としていわれている「ダビデ」と、「ヤーウエ」と、ダビデが「我が主」とよんでいるメシヤとの三者の姿が現われ、メシヤの祖であり、型としてみられてきたダビデが、メシヤをとくに「我が主」とよんでいることが、その特徴となっています。

この110篇は、イエスがパリサイ人に対して、
「あなたがたは、キリストについて、どう思いますか。
彼はだれの子ですか。」
と問い、彼らが、
「ダビデの子」
と答えたときに、イエスは、この詩篇110篇を引用して、
「ダビデがキリストを主と呼んでいるのなら、どうして彼はダビデの子なのでしょう。」と教えています(マタイによる福音書22:41-46、併行節)。



posted by 道川勇雄 at 14:40| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする


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