2019年07月21日

箴言

箴言

「主を畏れる知恵と社会的公正の不可分性」 

旧約聖書による、神の「自己啓示」は、きわめて多角的で、多彩的ですが、代表的なのは、「祭司的」「預言者的」「知者的」の三類型です。

それを裏づけているのは、エレミヤ書の、
「祭司には律法があり、知恵ある者には計りごとがあり、預言者には言葉があって、これらのものが滅びてしまうことはない」(エレミヤ書18:18)
という言葉です。

これを再度、裏付けるのが、イエスの、
@「あなたがたに言っておく。
宮よりも大いなる者がここにいる。」(マタイによる福音書 12:6)
と、ご自身をさした言葉です。
「宮」とは、「祭司(律法)」を指し、祭司を超えたご自身のことです。

A「しかし見よ、ソロモンにまさる者がここにいる。」(マタイによる福音書 12:6, 42)
は、「知者の代表・ソロモン」を超える者としてご自身を示されました。

B「しかし見よ、ヨナにまさる者がここにいる。」(マタイによる福音書 12:41)
と、「預言者の代表・ヨナ」より「まさる」者としてご自身を示されました。


箴言は、あきらかに、「知者的潮流」の一つです。

知恵は、本来、人がその環境を支配する最高の武器として、人間存在の固有な証しです。

人間存在の固有な証しである知恵も、神に対する畏れなしに独走すると、「殺人剣」になることは、創世記の項で書きました。

箴言は、知者的書物ですが、知恵の問題を独特の角度から取扱っています。
箴言における知恵の問題は、実践的で、哲学的、理論的態度に対して蔑視的な気持ちを現わしています。

ヨブ記の、
「しかし、知恵はどこから見つけ出されるのか。
悟りのある所はどこか。」(ヨブ記18:12)

「では、知恵はどこから来るのか。
悟りのある所はどこか。」(ヨブ記28:20)
という哲学的、神学的、知恵の追求に対しては、強い否定的態度を示しています。

「悟りのある者はその顔を知恵に向け、愚かな者は目を地の果てに注ぐ。」(箴言17:24、14:6)。

ここに哲学的、神学的なヨブ記と、実践的、通俗的な箴言との対立関係がみられます。

箴言には、きわめて多彩な箴言を含み、次の@ABのような類型がみられます。

箴言ばかりではなく、知恵に対する聖書の洞察は、「主を畏れることは知識のはじめ」である、ということです。

@創造主からの呼び声としての知恵(箴言1-9章)

その効用について箴言は、
「これは人に知恵と教訓とを知らせ、悟りの言葉をさとらせ、賢い行いと、正義と公正と公平の教訓をうけさせ、思慮のない者に悟りを与え、若い者に知識と慎みを得させるためである」
とのべ、その知恵の結論としては、
「主を恐れることは知識のはじめである」(箴言1:1以下)
と言い、これを序説として、その具体的適用に入っていきます。

知恵の与え主については、
「主が知恵を与え、知識と悟りとは、み口から出る。」
なぜなら、
「主は知恵をもって地の基をすえ、悟りをもって天を定められた。」(箴言3:19)
からです。

この知恵は、被造者である人間が、生み出したものではなく、本来は、創造を秩序づけたロゴス(言葉)であるのです。
それだけではありません。

そのようなロゴス(言葉)としての知恵は、「人格的」な語りかけとして仰がれるべきだと言います。

「主が昔そのわざをなし始められるとき、そのわざの初めとして、わたしを造られた。
いにしえ、地のなかった時、初めに、わたしは立てられた。
まだ海もなく、また大いなる水の泉もなかった時、わたしはすでに生れ、山もまだ定められず、丘もまだなかった時、わたしはすでに生れた。
すなわち神がまだ地をも野をも、地のちりのもとをも造られなかった時である。
ーー彼が上に空を堅く立たせ、淵の泉をつよく定め、海にその限界をたて、水にその岸を越えないようにし、また地の基を定められたとき、わたしは、そのかたわらにあって、名匠となり、日々喜び、常にその前に楽しみ、その地で楽しみ、また世の人を喜んだ」(箴言8:22以下)
と言われています。

一見、謎めいた表現でありながら、新約聖書のヨハネによる福音書の序文のロゴス論と、創世記の第1章の序言を結びあわせることで、この箇所は、まさに、衛星中継的な役目を果たしています。

創造の知恵のロゴス化ひいては、人格化は、箴言のさし示そうとする、
「主を畏れることは知識のはじめ」
であるという真理を支える論理的基盤です。

暗礁と誘惑に満ちた人生を航海するために不可欠な「羅針盤」である、主からの呼び声としての知恵は、それを受け入れるか否かで、生死は決定されます。

「わたしを得る者は命を得、主から恵みを得るからである。
わたしを失う者は自分の命をそこなう、すべてわたしを憎む者は死を愛する者」(箴言8:35-36)
であると言われるゆえんです。

A自己制御として働く知恵(箴言10-16章)

「処世術」の秘義は、いかに自分自身をコントロール(制御)するかということにあります。

新約聖書のヤコブの手紙を連想させられます。
「言葉が多ければ、とがを免れない、自分のくちびるを制する者は知恵がある」(箴言10:19)。
 ・
【参照】

「愛する兄弟たちよ。
このことを知っておきなさい。
人はすべて、聞くに早く、語るにおそく、怒るにおそくあるべきである。
人の怒りは、神の義を全うするものではないからである。」(ヤコブの手紙 1:19-20)


「不信心な者はその口をもって隣り人を滅ぼす」(箴言11:9)。

「美しい女の慎みがないのは、金の輪の、ぶたの鼻にあるようだ」(箴言11:22)。

「愚かな人は、すぐに怒りをあらわす、しかし賢い人は、はずかしめをも気にとめない。
ーーつるぎをもって刺すように、みだりに言葉を出す者がある、しかし知恵ある人の舌は人をいやす。
真実をいうくちびるは、いつまでも保つ、偽りをいう舌は、ただ、まばたきの間だけである」(箴言12:16以下)。

「むちを加えない者はその子を憎むのである。子を愛する者は、つとめてこれを懲らしめる」(箴言13:24)。

「知恵ある者は用心ぶかく、悪を離れる、愚かな者は高ぶって用心しない」(箴言14:16)。

「正義は国を高くし、罪は民をはずかしめる」(箴言14:34)。

「怒りをおそくする者は勇士にまさり、自分の心を治める者は城を攻め取る者にまさる」(箴言16:32)。

以上のような箴言を初めとして鋭い洞察に富んだ「処世訓」は、ここにいちいち引用し切れません。

B社会的公正を配慮する知恵(箴言17-31章)

箴言で顕著なことは、社会的公正が、主御自身の根本的配慮として力説されていることです。

「銀を試みるものはるつぼ、金を試みるものは炉、人の心を試みるものは主である。
悪を行う者は偽りのくちびるに聞き、偽りをいう者は悪しき舌に耳を傾ける。
貧しい者をあざける者はその造り主を侮る」(箴言17:3-5)
と言われ、「主を畏れる」ことと、「貧しい者への配慮」とは全く不可分な事柄としてみられています。

「貧しい者をあわれむ者は主に貸すのだ、その施しは主が償われる」(箴言19:17)
とまで言い切り、
「人の道は自分の目には正しく見える、しかし主は人の心をはかられる。
正義と公平を行うことは、犠牲にもまさって主に喜ばれる」
という見方が、反復力説されています(箴言21:2以下、21:7、21:12、21:15、21:21、21:26、21:29以下、22:22-23、23:10-11、24:11以下等)。

恵まれている信仰者の罪は、多くの場合、不幸に悩む者の現実を、知ろうともしません。

箴言は、その点をも鋭く指摘しています。

「死地にひかれゆく者を助け出せ、滅びによろめきゆく者を救え。
あなたが、われわれはこれを知らなかったといっても、心をはかる者はそれを悟らないであろうか。
あなたの魂を守る者は、それを知らないであろうか。
彼はおのおのの行いにより、人に報いないであろうか」(箴言24:11-12)
と信仰者のさけたい部分にメスを突きさしています。

社会的公正の敵は、「差別」と「偏見」ですが、いかに公正なさばきが、人間社会では望めないものかを指摘するのが、
「片寄ったさばきをするのは、よくない。
悪しき者に向かって、
『あなたは正しい』
という者を、人々はのろい、諸民は憎む」(箴言24:23-24)
という言葉です。

これは人間の醜悪さの暴露としての癒着を示唆しています。

また「主を畏れる」者としては、世間一般では、当然とされる復讐心をも慎しむ知恵をもつことを示唆するかのように、
「『彼がわたしにしたように、わたしも彼にしよう、わたしは人がしたところにしたがって、その人に報いよう』
と言ってはならない」、
「もしあなたのあだが飢えているならば、パンを与えて食べさせ、もしかわいているならば水を与えて飲ませよ。
こうするのは、火を彼のこうべに積むのである、主はあなたに報いられる」(箴言24:29、25:21-22)
と言っています。

さらに、箴言は、富める者は、知恵にとぼしく、貧しい者の方が知恵に富みうる、という評価をしています。

「正しく歩む貧しい者は、曲った道を歩む富める者にまさる」(箴言28:6)。

「富める人は自分の目に自らを知恵ある者と見る、しかし悟りのある貧しい者は彼を見やぶる」(箴言28:11)。

「人を片寄り見ることは良くない、人は一切れのパンのために、とがを犯すことがある」(箴言28:21)。

「正しい人は貧しい者の訴えをかえりみる、悪しき人はそれを知ろうとはしない」(箴言29:7)。

「人の高ぶりはその人を低くし、心にへりくだる者は誉を得る」(箴言29:23)。

また、
「うそ、偽りをわたしから遠ざけ、貧しくもなく、また富みもせず、ただなくてならぬ食物でわたしを養ってください。
飽き足りて、あなたを知らないと言い、
『主とはだれか』
と言うことのないため、また貧しくて盗みをし、わたしの神の名を汚すことのないため」(箴言30:7以下)
という祈りも、富がいかに人を神から遠ざけるか、富む者と、「主を畏れる」心とはいかに共存しえないものかを洞察しぬいている者の祈りです。

最後に箴言があげているマッサの王レムエルの言葉、即ちその母が彼に教えたものとしてしるしている箴言の中に「女と酒」をつつしむべきことが記されていますが、
「濃い酒を求めるのは君たる者のすることではない。
彼らは酒を飲んで、おきてを忘れ、すべて悩む者のさばきを曲げる」
と言い、
「あなたは黙っている人のために、すべてのみなしごの訴えのために、口を開くがよい。
口を開いて、正しいさばきを行い、貧しい者と乏しい者の訴えをただせ」
(箴言31:1以下)
と警告しています。

また「賢い妻」の条件をあげている最後の部分でも、
「あでやかさは偽りであり、美しさはつかのまである。
しかし主を恐れる女はほめたたえられる」
と言い、そこでも、
「手を貧しい者に開き、乏しい人に手をさしのべる」
ことを条件の中に加えていることなどからも、箴言がいう、
「主を畏れる知恵」は、「小さき者」「貧しき者」への配慮と一元的なものであることがしられます。

これは「ヨベルの年」の規定でもあり、新約聖書の、
「そのとき、弟子たちがイエスのもとにきて言った、
『いったい、天国ではだれがいちばん偉いのですか。』
すると、イエスは幼な子を呼び寄せ、彼らのまん中に立たせて言われた、
『よく聞きなさい。
心をいれかえて幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできないであろう。
この幼な子のように自分を低くする者が、天国でいちばん偉いのである。』」(マタイによる福音書 18:1-4)

また、

「『こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。』(マタイによる福音書 5:3)
を指示しています。

また、箴言30:5-6では、
「神のことばにつけ足しをしてはならない。
神が、あなたを責めないように、あなたがまやかし者とされないように。」と、黙示録等々と同じように、聖書正典の限界性を与えています。



posted by 道川勇雄 at 14:43| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする


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