2019年07月21日

伝道の書

伝道の書

「虚無を克服できない人知の限界」 

伝道の書は、神を除外した人知の探究の到達点である虚無思想を語ることによって、逆に、神を畏れる知恵をさし示しています。

@虚無主義を帰結させる人知(伝道の書1-12章)

伝道の書の語り手は「ダビデの子、エルサレムの王である伝道者」とされています。

これは、
「このようにソロモン王は富と知恵において、地のすべての王にまさっていたので、地のすべての王は神がソロモンの心に授けられた知恵を聞こうとしてソロモンに謁見を求めた」(歴代志下9:22-23)
といわれるソロモンの告白なので、並ぶもののない権威的な帰結です。

そのソロモンの、すべてをきわめた結論が、
「空の空、空の空、いっさいは空である」
ということなのです(伝道の書1章)。

そしてその理由は、
「知恵が多ければ悩みが多く、知識を増す者は憂いを増すから」(伝道の書1:18)
なのです。

知恵は、たしかに快楽をもたらします。

しかし、知者も、愚者と同様、「死」を免れません。
人生の空しさは「死」にきわまります(伝道の書2:14-16)。

ことに合理的思考を最上のモノとする現代人には、「来世」など不合理きわまることでしかありません。
「死」とは、「何の目的も持たない虚無」です。
現代は、「死」の恐怖を克服するための宗教も哲学もかげをひそめています。

伝道の書の著者は、合理的思考一辺倒の現代を「先取り」していると言えるでしょう。

旧約聖書と新約聖書、合わせて66冊を一巻の書とする「聖書正典」の立場からすれば、新約聖書のローマ人への手紙を想起せざるを得ません。

【引用】
「わたしは思う。
今のこの時の苦しみは、やがてわたしたちに現されようとする栄光に比べると、言うに足りない。
被造物は、実に、切なる思いで神の子たちの出現を待ち望んでいる。
なぜなら、被造物が虚無に服したのは、自分の意志によるのではなく、服従させたかたによるのであり、 かつ、被造物自身にも、滅びのなわめから解放されて、神の子たちの栄光の自由に入る望みが残されているからである。
実に、被造物全体が、今に至るまで、共にうめき共に産みの苦しみを続けていることを、わたしたちは知っている。
それだけではなく、御霊の最初の実を持っているわたしたち自身も、心の内でうめきながら、子たる身分を授けられること、すなわち、からだのあがなわれることを待ち望んでいる。
わたしたちは、この望みによって救われているのである。
しかし、目に見える望みは望みではない。
なぜなら、現に見ている事を、どうして、なお望む人があろうか。」(ローマ人への手紙 8:18-24)


「被造物が虚無に服したのは、自分の意志によるのではなく、服従させたかたによるのであり、」が、目を引きつけます。

パウロは、創造主(神)による「完全な創造による世界」が、被造物界が、人間の堕落によって「虚無に服し」められ、「滅びのなわめ」に置かれていることを教えています。

この「虚無」とは、ギリシャ語のマタイオテス(mataiotesma)という語で、旧約聖書のギリシャ語訳・七十人訳聖書の伝道の書1:2の「空の空。伝道者は言う。空の空。すべては空。」という言葉の中の「空」を訳したギリシャ語です。

パウロは明らかに、この部分を書いた時、伝道の書のこの言葉を想起し、この語の訳語としての、このギリシャ語を、その念頭に浮かべていたのでしょう。

この語のヒブル語はhegelで、「水蒸気」またはそれに類した、形なく消え去るものを意味する語で、人間の「息」の意味にも用いらています。

したがってこの語によって現わされた被造物界は、「無意味」で、「無目的」であることを意味しています。

この世界が「むなしく」なったというのは、「創造主のロゴス(言葉)」との関係が、人間の堕落のために断絶した結果です。

パウロ書簡とされるコロサイ人への手紙をみると、
「万物は御子にあって造られたからです。
天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。
万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。
御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています」(コロサイ人への手紙1:16-17)
としるされています。

すなわち全被造物界としての宇宙は、
「その存在の『起源』をキリストにもち」
「その存在の『理由』をキリストにもち」
「その存在の『保持』をキリストにもって」
いるのです。

したがってこの世界は、このキリストとの関係が断絶したことによって、「むなしく」なったというのは当然のことです。

一言でいえぱこの断絶によって世界は、
「キリストによる統一性を失い」
「キリストによる渾一性を失い」
「キリストによる全体性を失った」
ので、その部分は部分相互として、その部分体と全体との関係は分裂し、キリストによる「世界」Kosmosは、キリストを離れて「混沌」Chaosとなったのです。

A時を知る悟りとしての知恵(伝道の書3章)

価値で普遍的なものはありません。
時を外せば、最高の価値でも、価値を失います。

知者の独白も、「時」に視点が向けられる時、ちがった展開を見出します。真実を知る時、人は空しいあせりから救われ、「待つこと」、「あきらめる」ことを学ぶのです。

「天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある。
生るるに時があり、死ぬるに時があり、植えるに時があり、植えたものを抜くに時があり、殺すに時があり、いやすに時があり、こわすに時があり、建てるに時があり、泣くに時があり、笑うに時があり、悲しむに時があり、踊るに時がありーー」(伝道の書3:1以下)
とつづけられるこの記述は、虚無とは正反対な感動を触発します。

そこではもはや虚無ではなく、「充実」さえ覚えさせられます。

「時を知る知恵」ーー
これこそ知恵のかけがえのない特質です。
しかし人は果たして、時を知りうるでしょうか。
時を知る、とは最もよい時、物事の「熟時(カイロス)」を知ることです。
最もよい時はいつかをきわめる判断力が必要なのです。

そうだとすると、悲しいことに、人間はすべて果てしない夢をみる者、果てしない欲望のかたまりです。
欲望のかたまりである人間には、つねにあせりがあります(伝道の書9:12)。

【引用】
「人はその時を知らない。
魚がわざわいの網にかかり、鳥がわなにかかるように、人の子らもわざわいの時が突然彼らに臨む時、それにかかるのである。」(伝道の書 9:12)

「すべてのことに時がある」ということは、かえって、人間に、その「時を知りえない無知」の悲しさを悟らせることになります。

それゆえ伝道者は、
「わたしは神が人の子らに与えて、ほねおらせられる仕事を見た。
神のなされることは皆その時にかなって美しい。
神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた」(伝道の書3:10-11)、

「わたしは知っている。
すべて神がなさる事は永遠に変ることがなく、これに加えることも、これから取ることもできない。
神がこのようにされるのは、人々が神の前に恐れをもつようになるためである」(伝道の書3:14)


B主を畏れその分を知る知恵(伝道の書4-12章)

「あせり」は、その分を弁えないところからおこります。

故に伝道者は、
「神の前で軽々しく口をひらき、また言葉を出そうと、心にあせってはならない。
神は天にいまし、あなたは地におるからである。
それゆえ、あなたは言葉を少なくせよ」(伝道の書5:2)
とすすめます。

「また神はすべての人に富と宝と、それを楽しむ力を与え、またその分を取らせ、その労苦によって楽しみを得させられる。
これが神の賜物である」(伝道の書5:19)
と言います。

「耐え忍ぶ心は、おごり高ぶる心にまさる」
というのも、その分に甘んずる姿勢の指摘であり(伝道の書7:8)、
「順境の日には楽しめ。
逆境の日には考えよ。
神は人に将来どういう事があるかを、知らせないために、彼とこれとを等しく造られたのである」(伝道の書7:14)
という言葉も、「神は天に、人は地に」というその分に徹し、あせらない生き方をすすめるものです。

「神は神であって人ではなく」、「人は人であって神ではない」
ということを、更に徹底させる結果は、「人のわざは、神の手にある」との悟りにみちびきます。

「わたしはこのすべての事に心を用いて、このすべての事を明らかにしようとした。
すなわち正しい者と賢い者、および彼らのわざが、神の手にあることを明らかにしようとした」(伝道の書9:1)
と言っている通りです。

神の手にあるとは、人はいかにあせってもあがいても、結局は、神の中に生き、動き、存在しているということであって、神がわたくしの「審き主」だということです(伝道の書11:9)。

【参考】
「われわれは神のうちに生き、動き、存在しているからである。
あなたがたのある詩人たちも言ったように、『われわれも、確かにその子孫である』。」(使徒行伝 17:28)


それゆえ、伝道の書の結論では、
「あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ」(伝道の書12:1)
という帰結が、究極的なものとして訴えらています。


posted by 道川勇雄 at 14:45| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする


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