2019年07月21日

雅歌

雅歌

「香ぐわしくいざなう排他的愛の甘美さへの共鳴」

雅歌は、従来、ラビ(宗教的指導者)などの間で問題となった書物で、イスラエルの青年は満30歳になるまでは、雅歌を読むことを禁じられていました。

ヤムニヤでの旧約聖書正典決定の時にも、雅歌を聖書正典に入れることへの反対者が多かったのですが、この正典決定の会議のひとりであったラビ・アキバは、後に紀元135年の対ローマの大反乱に参加した学者で、強烈な人格の人でしたが、彼の強硬な主張によって、この雅歌が聖書正典中に入れられたのです。

@あふれ出る被造者感としての性愛

神の思いは、あくまでも神の思い、創造主のそれであって、被造物の思いではないことを忘れがちです。

聖書の世界に足をふみ入れる時、「創造主」「隠れた歴史の支配者」の思いの高さ・深さ・広さが、「いぶからせ」「立ち止まらせ」ます。

雅歌の世界は、その思いをまた一段と新たにさせられます。

開巻第一に、目にとび込んでくるのが、
「どうか、あなたの口の口づけをもって、わたしに口づけしてください。
あなたの愛はぶどう酒にまさり、あなたのにおい油はかんばしく、あなたの名は注がれたにおい油のようです」(雅歌1:1-2)
という、性愛の告白だからです。

しかも、
「わたしはあなたを導いて、わが母の家に行き、わたしを産んだ者のへやにはいり、香料のはいったぶどう酒、ざくろの液を、あなたに飲ませましょう。
どうか、彼の左の手がわたしの頭の下にあり、右の手がわたしを抱いてくれるように」( 雅歌 8:2以下)
というふうに、終わりまでその調子をくずさないのですから、 雅歌の表現の傍若無人さは底しれません。

しかも聖書正典の即物的解釈では、「それ自体をして語らせる」方向に徹する他ありません。

あらゆる「前提」や「偏見」を括弧に入れて読み進むと、そこには、比類なく甘美な世界、豊潤な香りのしたたる花園が開かれてくるのを覚えると共に、そのような世界もまた、創造主のみ手の中に許され、包まれているのだという思いにさそわれます。

創造主は、そのみ手になるあらゆる被造物を祝し、人を男と女としてつくり、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ」(創世記1章)といわれました。

そして人が男と女として生かされているということは、男と女、しかも生物という範疇の中にありながら、なおそれを超える人格としての男と女の間にしかありえない、それこそ、かけがえのない交わり方において生かされているということでしょう。

そのよう間柄も、創造主の思いの測りがたさをかいま見させる謎としてとどまりつづけるべきなのでしょう。

男女の仲は、「処世の術」をもって任ずる箴言でさえ、謎の一つだと言っているくらいなのですから。

「わたしにとって不思議にたえないことが三つある、いや四つあって、わたしには悟ることができない。
すなわち空を飛ぶはげたかの道、岩の上を這うへびの道、海をはしる舟の道、男の女にあう道がそれである」(筬言30:18-19)。

「男が女に、女が男にあう道」は、謎めいています。
しかも、それは、依然として、創造主が与えた「賜物」でありつづけるでしょう。

神が「良しとされた」(創世記1:4、1:10、1:12、1:18、1:21等)ことの一つとして永遠に残るのでしょう。

自然界も、そのスケールの圧倒的な大きさ、その美しさ、香ぐわしさにおいて、神の賜物としての神秘性に満ちています。

そのような賜物としての宇宙の美しさ、香ぐわしさが、感動と讃美を触発します。
すぐれた芸術が、とりわけ美しい旋律が、ひとりでに人の心を開いてくれるのと同じです。

そのように、強いられたものとしてではなく、おのずからあふれ出るものとしての愛の交流が、男と女をひきはなしつつ、ひきつけていきます。

してみると、これは、
「わたしは裸で母の胎を出た。
また裸でかしこに帰ろう。
主が与え、主が取られたのだ。
主のみ名はほむべきかな」(ヨブ記1:20-21)
というヨブの口を通して告白された被造者感とは、正反対の極をさしています。

でも、雅歌のくりひろげる告白もまた、それが被造者感なのです。

こうした両者のちがいを通して、創造主のみ手の中にあることとしての被造者感の高さ・深さ・広さに対して、改めて開眼させられます。

A排他的愛のいざないへの共鳴

創造主としての愛のみが聖書のさし示す「神の愛」でないことは、旧約聖書が、選民に対する「選び主」としての愛ーー「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ」ーーを力説していることでもあきらかです。

「創造主の愛」は万民に向かうそれとしては、「普遍的愛」とよべますが、「選び主の対選民愛」は、「特殊的愛」としての性格をもっています。

旧約聖書が、「選び主」と「イスラエル」の関係を、「夫と妻」という表象をもって語っていることからも分かるように、選ぶ対象への愛は、すぐれて排他的です。
その愛は独占的です。
性愛の特色は、その排他性にあります。

「わが愛する者はわたしのもの、わたしは彼のもの」( 雅歌2:16、6:3)、

「わが妹、わが花嫁よ、あなたはわたしの心を奪った」( 雅歌4:9)、

「わがはと(鳩)、わが全き者はただひとり」( 雅歌6:9)、

「わたしをあなたの心に置いて印のようにし、あなたの腕に置いて印のようにしてください。
愛は死のように強く、ねたみは墓のように残酷だから」( 雅歌8:6)、
というような告白は、性愛の排他性そのものです。

さらに、雅歌の世界を甘美したたる雰囲気にするのはその香りも、この排他性にもっています。

「わが愛する者は、わたしにとっては、わたしの乳ぶさの間にある没薬の袋のようです。
わが愛する者は、わたしにとっては、エンゲデのぶどう園にあるヘンナ樹の花ぶさのようです」(雅歌1:13-14)
と言われています。

雅歌の特色としてうかんでくるのは、性愛の「出来事性」への配慮です。

この短い書の中で、三たびも反復されている、
「愛のおのずから起るときまでは、ことさらに呼び起すことも、さますこともしないように」( 雅歌2:7、3:5、8:4)
という、不思議な言葉です。

それが不思議なのは、性愛の甘美さに対する陶酔的、告白的な記述の中において、その「非陶酔性」が目立つからです。

作為的にか否か、この句は、讃美歌のリフレイン(折り返し)のようにはめこまれています。

男と女の愛は、強いられたものではなく、「おのずから起きる」という意味で、きわめて、非打算的かつ、非合理的な「出来事」といってもよいでしょう。

「あなたはわたしの心を奪った」( 雅歌4:9)というより仕方のない「出来事(ハプニング)」なのではないでしょうか。

まさに「呪縛」という言葉がそれにはふさわしいほど、非合理的であり、非作為的なハプニングというべきでしょう。

それが排他的愛のいざないであればあるほど、その愛がおのずからなる共鳴をよびさまされるまでは、
「ことさらに呼び起すことも、さますこともしないように」
という配慮がふさわしいということなのでしょう。

底しれない奥行をひめた雅歌の意図は、「香ぐわしくいざなう、排他的愛の甘美さへの共鳴」なのかもしれません。

「聖書のそれ自体をして語らせる」方向は、聖書各巻の意図を語らせることであり、できる限り、聖書全体の「文脈」の中で、「それ自身をして語らせる」方向での追求です。

その点からすると、聖書が、神と選民との関係を、無防備に「夫と妻」という表象で語っていることから、全く切り離して、雅歌の意図を求めることは不自然です。

これをソロモン王とシュラミの娘と、その愛人である牧羊者の間の三角関係の構図として浮かび上がらせ、純愛の勝利をそこに先取し、「選び主」と「イスラエル」の間の神秘的な愛の勝利を読みとる学者もあります。

ストラスブール大学の旧約学教授、エドモン・ジャコブは、その点にふれて、「われわれは雅歌の象徴の大部分に、ヤハウェと民の姿を見いだすことが可能だと考える。
ーーすなわちかれはすでに存在している聖書に大いに霊感を得ているのである。
このことは、われわれが独創的な作品に直面することを妨げない。
読者はそこに選ばれた一定の読み方にしたがい、ヤハウェの賜物であり、創造であるエロスの栄光化を、あるいは歴史の神をたたえる歌を、さらに魂とその神との神秘的結合の告知をみるであろう」
と、きわめて配慮と示唆に富む解釈的指針を与えています(西村俊昭訳『旧約聖書』白水社、1971年、122-123頁参照)。


「わたしをあなたの心に置いて印のようにし、あなたの腕に置いて印のようにしてください。
愛は死のように強く、ねたみは墓のように残酷だからですそのきらめきは火のきらめき、最もはげしい炎です。」(雅歌8:6)

雅歌の性格上、その余韻に期待し、聖書各巻の解釈もーー例外なしにですがーー聖書全体の読みの深まりとともに深められ、「み言葉が開けると光を放って、無学な者に知恵を与える」(詩篇119:130)
ことを、各自実感させられることでしょう。

雅歌の、
「愛のおのずから起きるときまでは、ことさらに呼び起すことも、さますこともしないように」
というリフレインは、次元のちがいはありながら、「聖霊の出来事性」の一点において、「聖霊」に対するイエスの言及を想起させます。

「風は思いのままに吹く。
あなたはその音を聞くが、それがどこからきて、どこへ行くかは知らない。
霊から生れる者も、みな、それと同じである」(ヨハネ3:8以下)
「思いのままに吹く風」は、原証言者としての「聖霊」です。
神御自身の働きの絶対自由を仰がせます。

「聖霊」は、人間には如何ともし難いのです。

でも、キリスト者の陥りやすい誘惑の最たるものは、自分自身の熱心についての「過信」から、自分は「聖霊によって一新されている」と思い込むことでしょう。

【参考】
花魁・高尾太夫のエピソードです。
高尾太夫と契りを結んだ男が、
「私のことも、時には想い出してほしい」
との手紙に対する高尾太夫の返事です。
「忘れなばこそ想い出さず候」

「イエスさま」「イエスさま」と言ったり、思ったりしている間は、信仰者ではないのでしょう。
高尾太夫の境地に至ってこそ信仰でしょう。



posted by 道川勇雄 at 14:47| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする


< ▲トップページへ戻る >
ツイッター始めました。お気軽にフォロー・コメントどうぞ。(Twitter)