2019年07月21日

エレミヤ書

エレミヤ書

「預言者の実存的苦悩を場として迫る神言の相剋」 

「選び主」(神)の真実をふみにじった選民の背信をあばき、責めるとともに、その背信にも拘らず、「選民をさばいて救う」根拠をさし示すことは、三大預言者(イザヤ、エレミヤ、エゼキエル)の共通の課題です。

聖書各巻の意図をみるためには、それぞれの間の共通性を、ひとまず措いて、極力、差異性を発見してみます。
個性は、差異性だからです。

共通点を無視するわけではありません。
それぞれの意図を求めるため、ひとたび傍においた共通性をも「発見した差異性から」、再び見直すということです。

差異性からの光によって、共通性と見えたものも、全くその書の意図として、その指示性を表わしてくるからです。
その書が、他の書と異なっているものの抽出です。

エレミヤ書の意図をみるためには、先行したイザヤ書と比較することが最も自然です。

比較は、正反対のものとの比較もあれば、近似したものとの比較も、要求されます。

想起されるのは、カール・バルトより十年余り先輩の神学者カール・ハイムの次の言葉です。

「他人の世界像は、それが単にそこに在るというだけで、私の世界像を全面的に問題化する。
従って他人との遭遇は、同一世界の二個の姿像の間に、著しい緊張関係を生ぜしめる」(谷口美智雄訳『理性と信仰』創元社、1953年、90頁)。

ハイムの指摘の通り、聖書の世界は、六十六巻の各巻の間の、ダイナミックな相剋と交響からなっています。

その相剋の前段階として通る道が、他書との比較対照です。

イザヤ書の世界は、「高く・広い」が、エレミヤ書のそれは「狭く・深い」。

イザヤ書の格調が「包容的、仲介的」であるのに比して、エレミヤ書のそれは、「相剋的、非妥協的」です。

イザヤ書の訴え方のスケールは、単位が「全体的、集団的」であるのに対し、エレミヤ書のそれは、「個別的、主体的」です。

イザヤ書の視点は、「終末論的、象徴的」であるのに比して、エレミヤ書の視点は「歴史的、実証的性格」です。

@神言の相剋点としての預言者(エレミヤ書1-23章)

背信の癒しは、神言の正しい聴き方の回復による、というのがエレミヤ書の主張です。

その点は、エレミヤの召命記事で明らかです。

蛇足ですが、聖書でいう預言者とは、「未来学者」というより、「現実の歴史のただ中で聞かされた神の言葉を、その民に宣言する」ため召されたものです。

「見よ、わたし(神)の言葉をあなた(エレミヤ)の口に入れた。
見よ、わたしはきょう、あなたを万民の上と、万国の上に立て、あなたに、あるいは抜き、あるいはこわし、あるいは滅ぼし、あるいは倒し、あるいは建て、あるいは植えさせる」、
「わたしは自分の言葉を行おうとして見張っているのだ」(エレミヤ書1:9-12)
というのが、エレミヤに与えられた召命の言葉です。

そこには、断乎、不退転ともいうべき戦闘態勢が宣言されています。
その召命の言葉の中の、
「あなたは腰に帯して立ち、わたしが命じるすべての事を彼らに告げよ。
彼らを恐れてはならない」(エレミヤ書1:17)
という警告も、イザヤの召命とはかなりちがっています。

選民の病根とは何か。

それは、
「わたしの民(イスラエルと教会)が二つの悪しき事を行ったからである。
すなわち生ける水の源であるわたしを捨てて、自分で水ためを掘った。
それは、こわれた水ためで、水を入れておくことのできないものだ」(エレミヤ書2:12-13、17:13他)
からだと言います。

今は傷を包む時ではない。
病根にメスを入れる時だ(エレミヤ書30:12)。

現状は、
「小さい者から大きい者まで、みな不正な利をむさぼり、また預言者から祭司にいたるまで、みな偽りを行っているからだ。
彼らは、手軽にわたしの民の傷をいやし、平安がないのに『平安、平安』と言っている」(エレミヤ書6:13以下、8:11以下等)。

神の言葉を与る宗教家がまず、根本的治癒をさけて、安易な一時的気休めを求める民衆に迎合している。

この宗教家たちおよび民に向かって、エレミヤは、
「『これは主の神殿だ、主の神殿だ、主の神殿だ』
という偽りの言葉を頼みとしてはならない」
と警告しています。

宗教家が宗教家にも相剋せざるをえない悲劇的な現状を暴いています(エレミヤ書7:1以下)。
エレミヤの実存そのものが、選び主とその民との根本的亀裂を、亀裂として突きつけるメスーー相剋点以外であってはならない、というかのようです(エレミヤ書11:14以下、13:23、14:11等)。

神言への聴従のない礼拝形式の虚偽を銘記させるためには、
「あなたがたの先祖をエジプトの地から導き出した日に、わたし(主)は燔祭と犠牲とについて彼らに語ったこともなく、また命じたこともない」(エレミヤ書7:21-26)
とさえ極言しています。

相剋点となることのはなはだしい苦悩の下にエレミヤは、
「ああ、わたしはわざわいだ。
わが母よ、あなたは、なぜ、わたしを産んだのか。
全国の人はわたしと争い、わたしを攻める。
わたしは人に貸したこともなく、人に借りたこともないのに、皆わたしをのろう」(エレミヤ書15:10以下)
とうめき声をあげています。

背信の民(イスラエルと教会)との相剋、同労者である宗教指導者たちとの相剋に迫られる預言者の苦悩は、それが果たして、「上から」迫られた不可避的、不可抗的なものなのか、否かという不安です。

それを吐露したのが、
「主よ、あなたがわたしを欺かれたので、わたしはその欺きに従いました。
あなたはわたしよりも強いので、わたしを説き伏せられたのです。
わたしは一日中、物笑いとなり、人はみなわたしをあざけります。
それは、わたしが語り、呼ばわるごとに、『暴虐、滅亡』と叫ぶからです。
主の言葉が、一日中、わが身のはずかしめと、あざけりになるからです。
もしわたしが、
『主のことは、重ねて言わない、このうえその名によって語る事はしない』
と言えば、主の言葉がわたしの心にあって、燃える火の、わが骨のうちに閉じこめられているようで、それを押えるのに疲れはてて、耐えることができません」、

「預言者たちについて、わが心はわたしのうちに破れ、わが骨はみな震う。
主とその聖なる言葉のために、わたしは酔っている人のよう、酒に打ち負かされた人のようである」(エレミヤ書20:7以下、23:9等)
という呻きの言葉です。

その呻きに対して、主は、
「彼ら(偽預言者)はその先祖がバアルに従ってわが名を忘れたように、互に夢を語って、わたしの民にわが名を忘れさせようとする。
夢をみた預言者は夢を語るがよい。
しかし、わたしの言葉を受けた者は誠実にわたしの言葉を語らなければならない。
ーー主は仰せられる、わたしの言葉は火のようではないか。
また岩を打ち砕く鎚のようではないか。
それゆえ見よ、わたしはわたしの言葉を互に盗む預言者の敵となる」(エレミヤ書23:27以下)
と答えたもうたのです。

A原相剋者の自己証言としての歴史的実証(エレミヤ書24-52章)

時代の人々の求めにしたがって、耳ざわりのよいメッセージを語らなかったエレミヤが、自国の滅亡の切迫を、バビロンへの降服必然説を宣言し始めると、同胞からエレミヤへ向けての攻撃は激化し、ついに投獄されました(エレミヤ書37:15)。

「ユダの王ゼデキヤの九年十月、バビロンの王ネブカデレザルはその全軍を率い、エルサレムに来てこれを攻め囲んだ」(エレミヤ書39:1以下)時、エレミヤの預言が、歴史的に実証されました。

しかも、この歴史的実証は、エレミヤ書では、その召命の言葉にいわれているように、あくまでも、「言を行おうとして見張っている主」への証言以外の何ものでもありません(エレミヤ書1:12)。

それを裏づけているのが、
「見よ、わたし(主)は彼らを見守っている、それは幸を与えるためではなく、災を下すためである。
エジプトの地にいるユダの人々は、つるぎとききんによって滅び絶える。
ーーそしてユダの残っている民でエジプトに来て住んだ者は、わたしの言葉が立つか、彼らの言葉が立つか、いずれであるか知るようになる。
ーー見よ、わたしはユダの王ゼデキヤを、その命を求める敵であるバビロンの王ネブカデレザルの手に渡したように、エジプトの王パロ・ホフラをその敵の手、その命を求める者の手に渡す」(エレミヤ書44:26以下)
という宣言です。

主が主の言葉を行おうとする見張人である限り、主に敵する権力者に対しては主御自身が、不退転の報復者であることを意味します(エレミヤ書46:25以下、48:42以下、49章、50:15、50:28、51:56)。

「バビロンは主の手のうちにある金の杯であって、すべての地を酔わせた。
国々はその酒を飲んだので、国々は狂った。
バビロンはたちまち倒れて破れた」(エレミヤ書51:7-8、51:24)
と言われている通りです。

神の言葉が誠実に語られる時、不可抗的に巻きおこされる相剋は、神言の与え主である主の相剋です。

主御自身の相剋は、そのみ言葉を行う見張人の相剋です。
したがって、歴史の隠れた支配者こそ、原相剋者です。
原相剋者の自己証言が、歴史的に実証されるのです。

エレミヤは、その間ーー原相剋者の時が満ちるまでーー文字どおり「泥の中に沈んでいた」のです(エレミヤ書38:6)。

彼が獄中にしばられ、泥の中に沈んでいる間も、主の計画は着々と進行していました。

それこそ、
「この福音のために、わたしは悪者のように苦しめられ、ついに鎖につながれるに至った。
しかし、神の言はつながれてはいない」(テモテ第二の手紙2:9)
という新約聖書の使徒の仰がされた真実に通じるものであったといえます。

なお、新約聖書(「新しい契約」)が与えられるというエレミヤ書の預言の箇所は、次の通りです。

【参考】
「主は言われる、見よ、わたしがイスラエルの家とユダの家とに新しい契約を立てる日が来る。」(エレミヤ書 31:31)


【ユダヤ人がメシア預言としていた箇所】
「わたしはこれを養う牧者をその上に立てる、彼らは再び恐れることなく、またおののくことなく、いなくなることもないと、主は言われる。」(エレミヤ書 23:4)

「主は言われる、見よ、わたしがイスラエルの家とユダの家に約束したことをなし遂げる日が来る。
その日、その時になるならば、わたしはダビデのために一つの正しい枝を生じさせよう。
彼は公平と正義を地に行う。」(エレミヤ書 33:14-15)



posted by 道川勇雄 at 14:51| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする


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