2019年07月21日

哀歌

哀歌

「聖都陥落(BC586年)による選民の恥辱と認罪」 

罪の結果が、表面化するまで、自分の罪については、ほおかむりをしつづけます。

悲しいことに、これがすべての人間の宿命的ともいうべき在り方です。
とりわけ深刻なのはエリートのそれです。

選民の自負や確信は、余りにも容易に、誤ったエリート意識、特権階級意識とすりかえられてしまったのです。

エリート意識の本質である高ぶりは、預言者の警告をも無視しつづけました。

「選民の認罪」のためには、選民としての最高の恥辱である、聖都(エルサレム)陥落という歴史的に客観化されるまで、待たなければならなかったのです。

哀歌という題名は、王国ユダの滅亡とエルサレムの陥落に対する嘆きの韻律であるキーナー(哀しみ)からとられたと言われています。

@栄光を奪われた聖都の恥辱(哀歌1-2章)

選民とは、もともと、選ばれるねうちがないにも拘らず、その選び主のゆえに、主との栄光共有者とされた者です。

聖都・エルサレムの陥落は、その選民としては、文字どおり、栄光から恥辱への転落です。

「ああ、むかしは、民の満ちみちていたこの都、国々の民のうちで大いなる者であったこの町、今は寂しいさまで座し、やもめのようになった。
もろもろの町のうちで女王であった者、今は奴隷となった」(哀歌1:1)
とは、その冒頭の言葉です。

「主はイスラエルの栄光を天から地に投げ落し、その怒りの日に、おのれの足台を心にとめられなかった」(哀歌2:1)
とあるように、この出来事は、
「最高の栄光」から、「最低の恥辱」
への転落であり、何より、
「選び主」が敵対者となって、その怒りを注がれたことでした(哀歌2:4-5)。

誇り高き民が、異邦人の目前で、その選び主から見捨てられたことほど、痛烈な恥さらしはありません。

「すべて道ゆく人は、あなたにむかって手を打ち、エルサレムの娘にむかって、あざ笑い、かつ頭を振って言う、
『麗わしさのきわみ、全地の喜びととなえられた町はこれなのか』
と。
あなたのもろもろの敵は、あなたをののしり、あざ笑い、歯がみして言う、『われわれはこれを滅ぼした、ああ、これはわれわれが望んだ日だ、今われわれはこれにあい、これを見た』と」(哀歌2:15-16)。

選民として、この極限状況でできる唯一のことは、その恥辱を率直に認め、これから目をそむけることなく、目を見開いて、事実を額面どおり直視することです。

「シオンの娘よ、声高らかに主に呼ばわれ、夜も昼も川のように涙を流せ。みずから安んじることをせず、あなたのひとみを休ませるな」( 哀歌 2:18)
とあるようにです。

A恥辱のさ中での認罪(哀歌3-5章)

選民にとり、その選び主が敵となられた、否、選び主を敵にまわしてしまったことの致命度は、外敵のもの笑いとなった致命度に比例しているのです。

「彼(主)はわたし(選民)に対して待ち伏せするくまのように、潜み隠れるししのように、わが道を離れさせ、わたしを引き裂いて、見るかげもないみじめな者とし、その弓を張って、わたしを矢の的のようにされた。
彼はその箙(えびら)の矢をわたしの心臓に打ち込まれた。
わたしはすべての民の物笑いとなり、ひねもす彼らの歌となった」(哀歌 3:10以下)
と言われています。

次の段階としては、主のいつくしみと真実を想起し、この恥辱を、主から負わせられたくびきとしてうけようという決断です( 哀歌 3:22以下)。

そのあとでようやく、認罪らしい告白が、
「生ける人はどうしてつぶやかねばならないのか、人は自分の罪の罰せられるのを、つぶやくことができようか。
われわれは、自分の行いを調べ、かつ省みて、主に帰ろう。
われわれは天にいます神にむかって、手と共に心をもあげよう。
『わたしたちは罪を犯し、そむきました、あなたはおゆるしになりませんでした』」( 哀歌 3:39以下)
という表現をとっています。

恥辱とは、深い穴です。

選民は、この恥辱においてでなければ、選び主からの罪による隔絶性を知ることができなかったのです。

その隔絶性が、
「水はわたしの頭の上にあふれ、わたしは『断ち滅ぼされた』と言いました。主よ、わたしは深い穴からみ名を呼びました。
あなたはわが声を聞かれました」(哀歌3:54-55)
という告白となっています。

全く選民としての特権意識をはぎとられた者として、主のあわれみにすがるイスラエルの声が、
「われわれの冠はこうべから落ちた。
わざわいなるかな、われわれは罪を犯したからである。
このために、われわれの心は衰え、これらの事のために、われわれの目はくらくなった。
シオンの山は荒れはて、山犬がその上を歩いているからである。
しかし主よ、あなたはとこしえに統べ治められる。
あなたの、み位は世々絶えることがない。
ーー主よ、あなたに帰らせてください、われわれは帰ります」(哀歌5:16以下)
という告白から読みとれます。

選民・イスラエルの罪とは、彼らの祖・アブラハムへの神の「根源約束」(創世記12-1-3)の目的である「万民福祉」を果たさなかったことと、十戒の第1「主が唯一神である」こと、第2「偶像を作ってはならない」(偶像崇拝の禁止)」ことを守らなかった、という具体的なものです。

【ユダヤ人がメシア預言としていた箇所】
哀歌には、メシア預言はありません。



posted by 道川勇雄 at 14:53| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする


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