2019年07月21日

エゼキエル書

エゼキエル書

「選び主の『聖なる名のため』の合法性に基づく審判と回復」

背信のイスラエルの側には、回復されるための根拠は皆無です。

それにも拘らず、彼らが完全に棄て去られないのは、ただひたすら、選び主の「聖なる名」の回復のためである、というのが、エゼキエル書の意図です。

イザヤ、エレミヤ、エゼキエルの三大預言者と言われる各書には、共通した材料があふれています。

しかし、その発想という点からみるとそれぞれに、きわめてユニークなものが、その比較対照によって浮かび上がってきます。

エゼキエル書の意図は、「聖なる名」のふくむ「合法性」として徹底させられていることです。

@「聖なる名のため」の合法的審判(エゼキエル書1-35章)

エゼキエル書によると、選民の背信の深刻さは、その選び主の「聖なる名を汚した」という一点にある、としています。

エゼキエル書は、きわめて、異様な象徴で「主の栄光の形」の記述ではじめています(エゼキエル書1章全体)。

イザヤ書でも「主の栄光」に言及していました。
しかし、その言及のし方は、エゼキエル書のそれと大いに異なっています。

イザヤ書のそれは、
「あなた(イスラエル)はわがしもべ、わが栄光をあらわすべきイスラエルである」(イザヤ書49:3)、

「わたしは主である、これがわたしの名である。
わたしはわが栄光をほかの者(イスラエル以外の民)に与えない」(イザヤ書42:8、48:11)、

「わたしは彼ら(イスラエル)を、わが栄光のために創造し、これを造り、これを仕立てた」(イザヤ書43:7)
と言われているように、主の栄光は、排他的に選民について回るものとされています。

それに反して、エゼキエル書の「主の栄光」は、超越性をもってその特色としています。

イザヤ書が、選民に対する選び主としての「拘束性」を特質とするのに対し、エゼキエル書は「非拘束性」すなわち自由を特質とします。

それは、主の栄光(顕現)が、「知恵」「威厳」「権能」「速力」を表わす四つの活きもの(「人」「獅子」「牛」「鷲」)で象徴され、それは、聖なる神殿に対してこそ固有なものであれ、背信の民の汚れとは絶対に共存を許されない、威圧的な攻撃性をそなえた超越性において力説されています。

イザヤ書で強調されていた、「代償的思想」は、 エゼキエル書では頭から否定されています。

「たといそこにノア、ダニエル、ヨブの三人がいても、彼らはその義によってただ自分の命を救いうるのみ」(エゼキエル書14:14、14:20等)、

「罪を犯す魂は死ぬ。
子は父の悪を負わない。
父は子の悪を負わない。
義人の義は、その人に帰し、悪人の悪はその人に帰する」(エゼキエル書18:20)
と言われ、エゼキエル書33章にもその点が反復力説されています。

この点でも、涙の預言者、嘆きの預言者を彷彿させるエレミヤとのちがいが対照的です(エレミヤ書4:19、23:9以下等)

【引用】(エレミヤ書)
「ああ、わがはらわたよ、わがはらわたよ、わたし(主)は苦しみにもだえる。
ああ、わが心臓の壁よ、わたしの心臓は、はげしく鼓動する。
わたしは沈黙を守ることができない、ラッパの声と、戦いの叫びを聞くからである。」(エレミヤ書 4:19)

「預言者たちについて。
わが心はわたし(エレミヤ)のうちに破れ、わが骨はみな震う。
主とその聖なる言葉のために、わたしは酔っている人のよう、酒に打ち負かされた人のようである。」(エレミヤ書 23:9)


エゼキエル書が、個人的、主体的責任を問うことは、悪人の方向転換・悔い改めの警告の責任をきびしく問うているのです。

そのことの強調もエゼキエル書に特色的な点で、
「わたしはあなた(預言者)を彼らにつかわす。
あなたは彼らに、
『主なる神はこう言われる』
と言いなさい。
彼らは聞いても、拒んでも、(彼らは反逆の家だから)彼らの中に預言者がいたことを知るだろう」(エゼキエル書2:3以下、3:11他)
「彼らが聞いても、拒んでも」という不退転的姿勢は、エゼキエル書の全体の格調です。

例えば、
「あなた(エゼキエル)はわたしの口から言葉を聞くたびに、わたしに代って彼らを戒めなさい。
わたしが悪人に『あなたは必ず死ぬ』と言うとき、あなたは彼の命を救うために彼を戒めず、また悪人を戒めて、その悪い道から離れるように語らないなら、その悪人は自分の悪のために死ぬ。
しかしその血をわたしはあなたの手から求める。
しかし、もしあなたが悪人を戒めても、彼がその悪をも、またその悪い道をも離れないなら、彼はその悪のために死ぬ。
しかしあなたは自分の命を救う」(エゼキエル書3:17以下)
と、言われています。

エゼキエル書18章の、
「『父たちが、酢いぶどうを食べたので、子供たちの歯がうく』
というのはどんなわけか。
主なる神は言われる、わたしは生きている、あなたがたは再びイスラエルで、このことわざを用いることはない。
見よ、すべての魂はわたしのものである。
父の魂も子の魂もわたしのものである。
罪を犯した魂は必ず死ぬ」(エゼキエル書18:2-4)
という言及も見過ごせません。

「語る責任」「聞く責任」が警告されて後、結果したことに対しては、それを当然の帰結として、当然の刑罰としてうけよと、その合法性を力説しています。

「人の子よ、見よ、わたしは、にわかにあなたの目の喜ぶ者を取り去る。
嘆いてはならない。
泣いてはならない。
涙を流してはならない。
声をたてずに嘆け。
死人のために嘆き悲しむな。
ーー朝のうちに、わたし(エゼキエル)は人々に語ったが、夕べには、わたしの妻は死んだ。
翌朝わたしは命じられたようにした」(エゼキエル書24:15以下)
としるされています。

これは、その民族の運命を、その身に「象徴的に生きる」預言者的在り方を示すと同時に、エゼキエル書の全体的な主張ともいうべき「合法性」をさし示すものです。

石殺に価する姦淫の罪が、エゼキエル書では、イスラエルの背信の罪として問われていることも注目に価します。
「ところが、あなた(イスラエル)は自分の美しさをたのみ、自分の名声によって姦淫を行い、すべてかたわらを通る者と、ほしいままに姦淫を行った」(エゼキエル書16:15他)
とはその聖なる夫である選び主からの告発です。

合法性ーーエゼキエル書の力説する非陶酔的ともいうべき超越的格調は、何よりも、エゼキエル書が、選民の審判の遂行の目的を、あくまでも「主が主として知られる」点にしぼって反復力説しています(エゼキエル書6:7、6:13、7:4、7:9、7:27、12:20、13:23、20:44、24:24等)。

それでは、
「主が主として知られる」
という選民史を貫く目的は、いったいいかにしてか、という問いに対し、エゼキエル書は、
「イスラエルの家よ、わたしがあなたがたの悪しきおこないによらず、またその腐れたわざによらず、わたしの名のために、あなたがたを扱う時、あなたがたはわたしが主であることを知るのである」(エゼキエル書20:44、20:9以下、20:14以下、20:22以下、20:39以下等)
と答えています。

「聖なる名のため」の合法的審判となります。

A「聖なる名のため」の合法的回復(エゼキエル書36-48章)

背信の民の審判が、「聖なる名のため」であるとひとしく、回復もまた、ひたすら「聖なる名のため」であるとしています。

それは、
「主の言葉がわたしに臨んだ、
『人の子よ、昔、イスラエルの家が、自分の国に住んだとき、彼らはおのれのおこないとわざとをもって、これを汚した。
そのおこないは、わたしの前には、汚れにある女の汚れのようであった。
彼らが国に血を流し、またその偶像をもって、国を汚したため、わたしはわが怒りを彼らの上に注ぎ、彼らを諸国民の中に散らしたので、彼らは国々の中に散った。
わたしは彼らのおこないと、わざとにしたがって、彼らをさばいた。
彼らがその行くところの国々へ行ったとき、わが聖なる名を汚した。
これは、人々が彼らについて、
《これは主の民であるが、その国から出た者である》
と言ったからである。
しかしわたしはイスラエルの家が、その行くところの諸国民の中で汚したわが聖なる名を惜しんだ」(エゼキエル書36:16以下)
というのです。

イスラエルとその選び主の関係は、合法的な妻と夫との関係からして、共通の名を担う者のそれです。

共通の名(主の名)を担う妻の犯罪は、直ちに夫を犯罪者の夫として、その名を汚す。
主は、もはや、妻イスラエルの側に、何ら回復の根拠を認めない。
「イスラエルのため」には何ら施すべき法的根拠はない。
背信の妻イスラエルの回復の唯一の根拠は何か。
それは、主が諸国民の間で、妻イスラエルによって汚された「聖なる名を惜しむ」という一事です。

「それゆえ、あなた(預言者)はイスラエルの家に言え。
主なる神はこういわれる。
イスラエルの家よ、わたしがすることはあなたがたのためではない。
それはあなたがたが行った諸国民の中で汚した、わが聖なる名のためである。
わたしは諸国民の中で汚されたもの、すなわち、あなたがたが彼らの中で汚した、わが大いなる名の聖なることを示す。
わたしがあなたがたによって、彼らの目の前に、わたしの聖なることを示す時、諸国民はわたしが主であることを悟ると、主なる神は言われる」
といい、
「聖なる名のため」
が、
「イスラエルのためではない」(エゼキエル書36:22以下、36:32等)
という、否定媒介を通して力説されています。

「聖なる名のため」行動する主は、もちろんイザヤ書でも言及されています。

しかし、エゼキエル書の特色は、「聖なる名のため」が、「イスラエルのためではない」という合法性と冷厳性をゆずらないところにあります。

エゼキエルのこの「否定」が生かされないところにはーー代償者に負われることを強調するイザヤ書が、単独で「聖なる名のため」を主張するのみではーー安易な甘えが許されかねないからです。

「イスラエルのためではない」ことを更に徹底するかのように、エゼキエル書は、異様な「枯れた骨の谷」の異象を展開します(エゼキエル書37章)。

骨の満ちた谷へつれてゆかれ、主の言葉どおり預言したが、
「わたしが預言した時、声があった。
見よ、動く音があり、骨と骨が集まって相つらなった」
といわれ、その異象の解説として、
「見よ、彼らは言う、
『われわれの骨は枯れ、われわれの望みは尽き、われわれは絶え果てる』と。
それゆえ彼らに預言して言え。
主なる神はこう言われる、わが民よ、見よ、わたしはあなたがたの墓を開き、あなたがたを墓からとりあげて、イスラエルの地にはいらせる。
わが民よ、わたしがあなたがたの墓を開き、あなたがたをその墓からとりあげる時、あなたがたは、わたしが主であることを悟る」(エゼキエル書37:11以下)
という主の言葉がのべられています。

骨の谷の異象でも、死の墓を開き、無から有を生ぜしめる神を仰がせられることにおいて、選民は、「イスラエルのためでない」という「つき放し」、ーー絶対的隔絶性を体認させられなければならないのです。

しかも「聖なる名」が、そこに回復される結果は、一度エルサレムを去った主の栄光が再び東から神殿にもどるという、聖所の回復があります。
「そしてわが聖所が永遠に、彼らのうちにあるようになるとき、諸国民は主なるわたしが、イスラエルを聖別する者であることを悟る」(エゼキエル書37:28、43:1以下)
からです。

聖所がその祭儀の秩序とともに回復された時、エルサレムの「町の名は『主そこにいます』と呼ばれる」という言葉が、エゼキエル書の全体の結論とされています。

【ユダヤ人がメシア預言としていた箇所】

エゼキエル書には、明瞭メシヤ(キリスト)預言とみられたものが、二か所あります。
@「わたしは、彼らを牧するひとりの牧者、わたしのしもべダビデを起こす彼は彼らを養い、彼らの牧者となる。
主であるわたしが彼らの神となり、わたしのしもべダビデはあなたがたの間で君主となる。
主であるわたしがこう告げる。」
という、「わが僕」としてメシヤ・ダビデの肩書きとしている預言です(エゼキエル書34:23-24)。

A分裂したイスラエルとユダを一つの民として、
「人の子よ。一本の杖を取り、その上に、『ユダと、それにつくイスラエル人のために』と書きしるせ。
もう一本の杖を取り、その上に、『エフライムの杖、ヨセフと、それにつくイスラエルの全家のために』と書きしるせ。
その両方をつなぎ、一本の杖とし、あなたの手の中でこれを一つとせよ。
ーーわたしが彼らを、その地、イスラエルの山々で、一つの国とするとき、ひとりの王が彼ら全体の王となる。
彼らはもはや二つの国とはならず、もはや決して二つの王国に分かれない。
ーーわたしのしもべダビデが彼らの王となり、彼ら全体のただひとりの牧者となる。
彼らはわたしの定めに従って歩み、わたしのおきてを守り行う。」(エゼキエル書37:15以下)


【参考】(最後の審判の基準)
「聖なる名による回復」を知れば、自ずと目線に入るのは、マタイによる福音書25:31-46の「最後の審判の基準」です。
これも、きわめて合法的なものです。


「人の子が栄光の中にすべての御使たちを従えて来るとき、彼はその栄光の座につくであろう。
そして、すべての国民(死んだ者も、生きている者)をその前に集めて、羊飼が羊とやぎとを分けるように、彼らをより分け、 羊を右に、やぎを左におくであろう。
そのとき、王は右にいる人々に言うであろう、
『わたしの父に祝福された人たちよ、さあ、世の初めからあなたがたのために用意されている御国を受けつぎなさい。
あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせ、かわいていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、 裸であったときに着せ、病気のときに見舞い、獄にいたときに尋ねてくれたからである。』
そのとき、正しい者たちは答えて言うであろう、
『主よ、いつ、わたしたちは、あなたが空腹であるのを見て食物をめぐみ、かわいているのを見て飲ませましたか。
いつあなたが旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着せましたか。
また、いつあなたが病気をし、獄にいるのを見て、あなたの所に参りましたか。』
すると、王は答えて言うであろう、
『あなたがたによく言っておく。
わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである。』
それから、左にいる人々にも言うであろう、
『のろわれた者どもよ、わたしを離れて、悪魔とその使たちとのために用意されている永遠の火にはいってしまえ。
あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせず、かわいていたときに飲ませず、 旅人であったときに宿を貸さず、裸であったときに着せず、また病気のときや、獄にいたときに、わたしを尋ねてくれなかったからである。』
そのとき、彼らもまた答えて言うであろう、
『主よ、いつ、あなたが空腹であり、かわいておられ、旅人であり、裸であり、病気であり、獄におられたのを見て、わたしたちはお世話をしませんでしたか。』
そのとき、彼は答えて言うであろう、
『あなたがたによく言っておく。
これらの最も小さい者のひとりにしなかったのは、すなわち、わたしにしなかったのである。』
そして彼らは永遠の刑罰を受け、正しい者は永遠の生命に入るであろう。」(マタイによる福音書 25:31-46)


posted by 道川勇雄 at 14:55| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする


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