2019年07月21日

ダニエル書

ダニエル書

「世俗権力に対する被圧迫者の没我的抵抗による証し」 

聖書は、歴史は「人間中心的解釈」ができるとともに、「神中心的解釈」もできるとしています。

歴史の真の支配者は、隠れた歴史支配者である神ですから、神中心的歴史解釈こそ、真実であることを告げます。

「神はわが審判者なり」を意味するダニエルをその書名とするダニエル書も、見える歴史支配者の手の中で、その意のままに翻弄されつつ、なおその「隠れた歴史支配者」への信仰に基づく勇気ある抵抗を訴える書です。

@没我的抵抗による隠れた神への証し(ダニエル書1-16章)

この世の権力の特徴は、「自己の支配権の絶対化」の路線をたどります。
その路線上の邪魔者は、すべてこれを消すということになります。
これは、現代も世界の過去もまったく同じです。

その冒頭の、
「ユダの王エホヤキムの治世の第三年にバビロンの王ネブカデネザルはエルサレムにきて、これを攻め囲んだ」
というダニエル書冒頭は、異邦権力の支配下にさらされる選民の苦難の歴史示唆しています。

権能者の自己確認は、異質的のものを許さず、まず自己のそれに「同化」させようとする方法をとります。

バビロニア王・ネブカデネザルは、捕虜の中からイスラエルの四人のエリート青年を選び出し、「これにカルデヤびと(バビロン)の文学と言語とを学ばせようとした」(ダニエル書1:3以下)。
(2:49以降は、「王はまたダニエルの願いによって、シャデラクとメシャクとアベデネゴを任命して、バビロン州の事務をつかさどらせた。」と、ストーリー展開は、三人に絞られいます。)

その意図が、青年たちを精神的に換骨奪胎させることにあったことを見抜いて、青年たちはまず異邦の食物で養われることに対する抵抗を貫き通しました。
 
次に、ネブカデネザルの見た夢の解明では、イスラエル青年の一人ダニエルの霊知的優位性を認めたが、権力者の自己絶対化の路線の切り札は、現代的にいえば、踏絵にひとしい「金像礼拝の強要」でした(ダニエル書3章)。

金像礼拝を拒否する者には、火の燃える炉がまちかまえていたのです。

その時にさえユダヤ青年たちは、
「もしそんなことになれば、わたしたちの仕えている神は、その火の燃える炉から、わたしたちを救い出すことができます。
また王よ、あなたの手から、わたしたちを救い出されます。
たといそうでなくても、王よ、ご承知ください。
わたしたちはあなたの神々に仕えず、またあなたの立てた金の像を拝みません」(ダニエル書3:16以下)
と答えたのです。

この「たといそうでなくても」という一句に、御利益的でもなく、交換条件的でもない、没我的な信仰が立証されています。

「たといそうでなくても」で示された信仰とは、人間としての彼ら自身の勝利を切望する気持からも、この時、今ここでの勝利への固執からも、解放されている信仰であり、この世の権力の下には属さない異質的なものです。

「神の究極的勝利に賭ける」信仰的冒険です。

【参考】
「これらのことをあなたがたに話したのは、わたしにあって平安を得るためである。
あなたがたは、この世ではなやみがある。
しかし、勇気を出しなさい。
わたしはすでに世に勝っている。」(ヨハネによる福音書 16:33)


そのことは、その抵抗に圧倒されたネブカデネザルの口を通して解説されているところによってあきらかです。

ネブカデネザルはまず、三青年の信ずる神への讃嘆を発しています。
「シャデラク、メシャク、アベデネゴ(三青年の名前)の神はほむべきかな」(ダニエル書3:28以下)。

三青年の勇気ある抵抗というより、ネブカデネザルにとって驚くべきことは、そのように「抵抗させる者」と、三青年にそういわせる「超越的実在者」ーー「隠れた神」が顕わされ、証しされたということです。

聖書の評価は、人間の信仰の強弱の測定よりも、「人間に信仰的賭けさせる神」に、目を向けさせています。

「獅子の穴」から救出されたダニエルの物語も、世的権力に対する被圧迫者に、信仰的、没我的抵抗をさせた者をさし示すといえます。

A歴史の謎解読による隠れた神への証し(ダニエル書7-12章)

この部分は、ダニエルに示された異象を通して、世界歴史の隠れた審判者を仰ぐ者に示された展望と世界史の謎の解読を語ります。

その解読の結論は、「荒す憎むべき者」の聖所冒涜の預言に示されています。

「荒す憎むべきもの」は「みずから高ぶって、その衆群の主に敵し、その常供の燔祭を取り除き、かつその聖所を倒した」(ダニエル書8:11以下)。

歴史の隠れた審判者は、かえって逆説的に、その敵をして聖所をまでついに冒涜させ、「神は死んだ」といわせる極限まで自己を隠したもう、ということです。

「隠れた歴史の審判者」を解読することは、見える現歴史の地平からは、神が隠され切った極点ーー「たといそうでなくても」ーーにおいて「究極的審判者の勝利」を確信して生きることです。

そのことが、実は、世的権力に対する被圧迫者の挑戦的な証しとして用いられるということなのです。




posted by 道川勇雄 at 14:57| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする


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