2019年07月21日

ホセア書

ホセア書

「姦婦イスラエルに対する選び主の排他的愛のパトス的葛藤」
(「パトス」とは、「理知的な精神」に対して、「感情的・熱情的」な精神。)

ホセア書は、先立つエゼキエル書とは、正反対です。

「聖なる名のため」という方向での神意の「不変性」こそ、イスラエルの回復の根拠であるとするエゼキエル書とは反対に、人とは異なる選び主の排他的愛における、審きの神意の「変更」こそ、選民回復の根拠であるとするのが、ホセア書の意図です。

エゼキエル書の支配的な格調は、冷厳な合法性であるのに対し、ホセア書は、妻の不貞に対する夫としての選び主に固有な「怒りと愛のパトス的葛藤」で貫かれています(ホセア書1:10、3:1、11章等)。

【引用】
「しかしイスラエルの人々の数は海の砂のように量ることも、数えることもできないほどになって、さきに彼らが
『あなたがたは、わたしの民ではない』
と言われたその所で、
『あなたがたは生ける神の子である』
と言われるようになる。」(ホセア書 1:10)

「主はわたしに言われた、
『あなたは再び行って、イスラエルの人々が他の神々に転じて、干ぶどうの菓子を愛するにもかかわらず、主がこれを愛せられるように、姦夫に愛せられる女、姦淫を行う女を愛せよ』」(ホセア書 3:1)

ホセア書には、不貞の妻をもつホセアの苦悩が生々しく描かれています。

しかし、それにも拘らず、ホセア書が訴えたいのは、ホセア自身の忍耐とか犠牲ではなく、ホセアの体験は、「姦淫の妻・イスラエル」に対する「選び主のパトス的葛藤」を、追感させるものとして用いられています。

@排他愛の真実に、不感症にする「淫行の霊」(ホセア書1-10章)

ギリシア的思惟とヘブライ的思惟のちがいがよく指摘されます。

ギリシア的思惟は、観想的であるのに対し、ヘブライ的思惟はより実存的です。

このことはヘブライの「知る」ということのふくみで、最もよく表わされています。
ヘブライ語では、「知る」ということは、「夫と妻との肉体関係」のような、実存的なふくみをもっているからです。

たとえば、創世記でも、
「人はその妻エバを知った。
彼女はみごもり、カインを産んで言った」
としるされています(創世記4:1、アモス書3:2)。

ホセア書は、選び主とイスラエルとの契約関係を、「知る」という実存関係にしぼって、光を当てています。

「わたし(主)は真実をもって、あなたとちぎりを結ぶ。
そしてあなたは主を知るであろう」(ホセア書2:20)


その主の真実は、「正義、公平、いつくしみ、あわれみ」を内実とするのに対して、背信の妻・イスラエルには「真実がなく、愛情がなく、また神を知ることもない」(ホセア書2:16以下、4:1以下)。

「これは『淫行の霊』が彼らを迷わしたからだ」(ホセア書4:12)。

そのため、両者の間には民の側に「知られているが・知らない」、悲劇的な亀裂があります。

「わたし(主)はエフライム(エフライム族は、イスラエルの12支族の中の1部族)を知っている。
イスラエルはわたし(主)に隠れることがない。
エフライムよ、あなたはーー淫行をなし、イスラエルは汚された。
彼らのおこないは彼らを神に帰らせない。
それは淫行の霊が彼らのうちにあって、主を知ることができないからだ」
(ホセア書5:3)
といわれています。

そこには単なる道徳より深刻な、霊的次元の問題としての指摘があります(ホセア書5:3以下)。

「知る」ということが、実存的な交わりを意味することから、「知る」ことは「愛する」ことと一如であるはずです。

「わたし(主)はいつくしみを喜び、犠牲を喜ばない。
燔祭よりもむしろ神を知ることを喜ぶ」(ホセア書6:6)
としるされています。

この表現に近似しているのが、サムエル記上の、
「主はそのみ言葉に聞き従う事を喜ばれるように、燔祭や犠牲を喜ばれるであろうか」(サムエル記上15:22)
という指摘です。

A姦婦への熱愛を貫かしめる契約主のパトス的葛藤(ホセア書11-14章)

旧約聖書を貫いているのは、イスラエルに対する選び主の愛で、それはイスラエルに排他的に集中するという意味で、「特殊愛」とよべます。

他方、創世記を初めとして、万民を公平に愛し、偏りみることのない創造主の愛がそれと交錯しています。
これは「特殊愛」に対しては「普遍愛」とよべます。

ホセア書は、この「特殊愛」で貫かれています。
イスラエルは、「平和共存共栄」のモデルとして選ばれたのですから、選民・イスラエルに対する「特殊愛」は、「普遍愛」の核をなすもの、と言えます。

しかしその悲劇は、その特殊愛が裏切られたという事実です。

「わたし(主)はイスラエルの幼い時、これを愛した。
わたしはわが子をエジプトから呼び出した。
わたしが呼ばわるにしたがって、彼らはいよいよわたしから遠ざかり、もろもろのバアルに犠牲をささげ、刻んだ像に香をたいた」(ホセア書11:1-2)。

夫と妻の間のかけがえのない排他的・特殊愛を裏切られてもなお、その愛を貫くことが何を意味するか。

その愛の証言者として召された預言者(ホセア)は、その語る事柄の実存的体認者でなければならないためか、
「主はわたし(預言者・ホセア)に言われた、
『あなたは再び行って、イスラエルの人々が他の神々に転じて、干ぶどうの菓子を愛するにもかかわらず、主がこれを愛せられるように、姦夫に愛せられる女、姦淫を行う女を愛せよ』」(ホセア書3:1)
と命じられました。

この言葉の中の「にも拘らずの愛」の秘義をのべるのが、
「エフライムよ、どうして、あなたを捨てることができようか。
イスラエルよ、どうしてあなたを渡すことができようか。
ーーわたしの心は、わたしのうちに変り、わたしのあわれみは、ことごとくもえ起っている。
わたしはわたしの激しい怒りをあらわさない。
わたしは再びエフライムを滅ぼさない。
わたしは神であって、人ではなく、あなたのうちにいる聖なる者だからである。
わたしは滅ぼすために臨むことをしない」(ホセア書11:8以下)
という言葉です。

それは、あわれみと怒りとの熾烈なパトス的葛藤というより他にありません。

パトスは、奔放的です。

そのあとでも、なお、
「わたし(主)は子(イスラエル)を取られた熊のように彼らに出会って、その胸をかきさき、その所で、ししのようにこれを食い尽し、野の獣のようにこれをかき破る」(ホセア書13:8)
と叫ばざるをえないからです。

そうかとおもうと、また、
「わたしは彼ら(イスラエル)のそむきをいやし、喜んでこれを愛する。
わたしの怒りは彼らを離れ去ったからである。
わたしはイスラエルに対しては露のようになる。
ーー彼らは帰って来て、わが陰に住み、園のように栄え、ぶどうの木のように花咲き、そのかんばしさはレバノンの酒のようになる」(ホセア14:4以下)
と歌われています。

以上が、ホセア書の意図を、「姦婦イスラエルに対する選び主の排他的愛におけるパトス的葛藤」とする根拠です。
   


posted by 道川勇雄 at 14:59| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする


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