2019年07月25日

ユダの手紙

ユダの手紙

「恵みを放縦に変える末世的非人間化との闘い」 

ユダの手紙とペテロの第二の手紙との近似性は否定できません。

たった25節しかないユダの手紙のうち、4-18節までが、ペテロの第二の手紙と殆んど共通材料とみられます。

しかし、ペテロの第二の手紙では、キリストの再臨の威光と待機に力説点をおくのに対して、ユダの手紙は、光にふれながら、警告を無視した結果、人間の落ち込む極限状況を暴露しています。

ユダの手紙は、またその正典的位置からみる時、教会書(初めの四福音書を福音書、終わりの黙示録を、預言書とよべるのに対して)の終わりにおかれていることで、選民史の最後の頽落状態を暴露する旧約聖書のマラキ書に対応するものとみられます。

マラキ書の指摘した頽落は、「恵みに狎れた不感症」を示すものでしたが、ユダの手紙は、それよりはるかに、深刻な姿を指摘しています。

ユダの手紙によると、「恵みを放縦な生活に変えた」という事態で、「精神的な次元」から、「動物的な次元」への落ち込みのすさまじさが暴露されています。

それは何を意味するでしょうか。

失敗した選民イスラエルに代わって、教会は、十字架の血によって洗われた「キリストのからだ」として建てられた、選民です。

旧約聖書の選民に比べれば、教会の与えられている光と特典とは、無限に勝れたものです。

光に照らされた者の堕落の恐ろしさを、深刻に演出させられるのは、選民よりも「キリストのからだとしての教会」なのです。

この短いユダの手紙の中に、肉欲とか放縦を指摘する用語が、すくなくとも七回反復されている(ユダの手紙4、7、8、10、16、18、23節)。

ユダの手紙が指摘しているのは、光にそむいた人間の結末は、「動物的になる」ということです。

人間の「非人間化」という悲劇です。

しかも、ユダの手紙は、その非人間化を、反キリストのエスカレーションとして警告しています。

「愛する者たちよ。
わたしたちが共にあずかっている救について、あなたがたに書きおくりたいと心から願っていたので、聖徒たちによって、ひとたび伝えられた信仰のために戦うことを勧めるように、手紙をおくる必要を感じるに至った。
そのわけは、不信仰な人々がしのび込んできて、わたしたちの神の恵みを放縦な生活に変え、唯一の君であり、わたしたちの主であるイエス・キリストを否定しているからである」(ユダの手紙3-4節)
というユダの手紙執筆の動機においてそれはあきらかです。

しかし、問題は、黒白の決定でも、審判でもありません。

審判者は、人間ではないからです。

「自分が知りもしないことをそしり、また、分別のない動物のように、ただ本能的な知識にあやまられて、自ら滅亡を招いている」人々を目撃したとしても、彼らの審判者は、すべての者にさばきを行うため「無数の聖徒たちを率いてこられ」る再臨の主であって、私共信仰者ではないのです(ユダの手紙10-15節)。

見ならうべきは、
「モーセの死体について悪魔と論じ争った時、相手をののしりさばくことはあえてせず、ただ、
『主がおまえを戒めて下さるように』
と言っただけであった」御使のかしらミカエルだという(ユダの手紙9-10節)。

人間に担われている可能性もまた潜在性も、すべてが、私自身の可能性であり、潜在性なのです。

それ故、
「終りの時に、あざける者たちがあらわれて、自分の不信心な欲のままに生活するであろう」
という使徒たちの預言を耳にしている者としては、
「最も神聖な信仰の上に自らを築き上げ、聖霊によって祈る」(ユダの手紙17節以下)
と同時に、疑いをいだく段階の人々に対しては、たゆまず警告し、他方、肉欲に身を委せた者に対しては、厳しく臨むべきことを力説しています。

21世紀は、人間の築く「バベルの塔」の驚異的高さの故に、人の目はその潜在能力としての最高の可能性にひきつけられ、その結果その最低の可能性を直視する目をくもらされやすいのです。

教会も、また、「この世におかれた者」としては、この世のそれに引きずり下される危険を多分にはらんでいます。

聖書の権威は、教会の権威を保証するどころか、かえってこれに対立するものなのです。
聖書の対教会的対峙性は、その「正典としての規範性」として告白されています。


posted by 道川勇雄 at 06:01| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする


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