2019年07月21日

アモス書

アモス書

「選び主からの排他的愛ゆえのよりきびしい審判」 

ホセア書が、選び主の排他的愛におけるパトス的葛藤に光を当て、つづくヨエル書が、選び主の嗣業(産業)としての選民の自負をほのめかしたあとをうけて、アモス書はこの二書がみちびきゆきかねない、「選民的甘えや特権意識を警告」しています。

@特権意識に酔う選民の頽落(アモス書1-6章)

選民の破滅を招く癌のような病根、それはエリートにありがちな特権意識だという。

選民は、たしかに、選ばれた民として教育され、律法的に啓蒙された民として、特典を与えられました。

しかし「特典は責任」を意味します。

アモス書は、まず諸国の受けるべき刑罰を、ダマスコ、ガザ、ツロ、エドム、アンモン、モアブの順で列挙し、終わりに、ユダとイスラエルの罪の告発に及んでいます。

その構造はいったい何を意味するのか。

各民族は、(そして各人は)、その与えられた特典と、与えられた光に応じてさばかれる、という真理を語っています。

ヨエルが語った、「主の日の審判」を、平面的に理解し、選民への主の審判を甘くうけとることを警戒するために、アモス書は、
「より多く与えられた者からはより多くを要求される」という真理に対して選民を覚醍させようとしています。

【参考】
「しかし、知らずに打たれるようなことをした者は、打たれ方が少ないだろう。
多く与えられた者からは多く求められ、多く任せられた者からは更に多く要求されるのである。」(ルカによる福音書 12:48)


与えられた光に応じてさばかれる、ということほど明快な論理はないはずなのに、またこれほど人間に、そしてとりわけエリートに、浸透しにくい論理は稀です。

その論理を鋭く訴えるアモス書の意図が、
「イスラエルの人々よ、主があなたがたに向かって言われたこと、わたし(主)がエジプトの地から導き上った全家に向かって言ったこの言葉を聞け。
『地のもろもろのやからのうちで、わたしはただ、あなたがただけを知った。
それゆえ、わたしはあなたがたのもろもろの罪のため、あなたがたを罰する』」(アモス書3:1以下)
という宣言にこめられています。

「地のもろもろのやからのうちで、わたしはただ、あなたがただけを知った」という選び主の命題は、選民への「排他的愛」の宣言です。

しかし、そのような排他的愛も、ホセア書で暴露された、特殊愛のパトス的葛藤に偏して受けとられる時には、かえって致命的です。

アモス書は、排他的愛の指摘において、ホセア書の特殊愛を否定するより、むしろ尖鋭化しながら、
「より多く与えられた者からは、より多くを要求される」
という犯しがたい真理を語ります。

特権意識に酔うイスラエルは、
「公道をにがよもぎに変え、正義を地に投げ捨てた」(アモス書5:7、5:10以下、6:12以下)。

彼らは、
「みずから象牙の寝台に伏し、長いすの上に身を伸ばし、群れのうちから小羊を取り、牛舎のうちから子牛を取って食べ、琴の音に合わせて歌い騒ぎ、ダビデのように楽器を造り出し、鉢をもって酒を飲み、いとも尊い油を身にぬる」(アモス書6:4以下)
ことを好むのは、特権階級です。

A特権意識を砕く選民的淘汰(アモス書7-9章)

選民のうちにつちかわれた醜悪な特権意識は、とりわけ、貧しい者への圧迫として表われました。

「あなたがた、貧しい者を踏みつけ、また国の乏しい者を滅す者よ」、

「あなたがたは言う、
『新月はいつ過ぎ去るだろう、そうしたら、われわれは穀物を売ろう。
安息日はいつ過ぎ去るだろう。
そうしたら、われわれは麦を売り出そう。
われわれはエバ(容量)を小さくし、シケル(重さ)を大きくし、偽りのはかりをもって欺き、乏しい者を金で買い、貧しい者をくつ一足で買いとり、また、くず麦を売ろう』」(アモス書8:4以下)
と、金権政治とその結果としての皺寄せの苛酷さが告発されています。

「主はヤコブの誇をさして誓われた、
『わたし(主)は必ず彼ら(イスラエル)のすべてのわざをいつまでも忘れない。
これがために地は震わないであろうか』」(アモス書8:7)。
選び主だからといって甘く見るな、と言わんばかりです。

「見よ、わたし(主)は命じて、人がふるいで物をふるうように、わたしはイスラエルの家を万国民のうちでふるう。
ひと粒も地に落ちることはない」(アモス書9:9)。
砂利として捨てられるために残る選民よ、との意味です。

特権意識から社会的正義感を失ってしまった選民的審判の極限について、アモス書は、
「主なる神は言われる、
『見よ、わたしがききんをこの国に送る日が来る、それはパンのききんではない、水にかわくのでもない、主の言葉を聞くことのききんである。
彼らは海から海へさまよい歩き、主の言葉を求めて、こなたかなたへはせまわる、しかしこれを得ないであろう』」(アモス書8:11以下)

選民的特質の喪失とは、「神の言葉の民」として召されたその民族が、「言葉の与え主(神)」から離れた結果、「命と光」そのものである神言に対しては、異邦人と化すということです。

光のあるうちに光を求めなければいつか奪われてしまう時が来るのです。
真理に抵抗しつづけているうちにいつかしか、真理に対する感受性をも完全に喪失するという悲劇を指摘しています。


posted by 道川勇雄 at 15:03| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする


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