2019年07月21日

オバデヤ書

オバデヤ書

「特殊愛への自負に基づく選民の宿敵エドムに対する復讐心」 

@選民的復讐感(オバデヤ書1:1ー1:15)

選ばれた者と棄てられた者、抽出された民族と棄却された民族との峻別はきびしく旧約聖書を貫いて浮彫にされています。

選民は、アモスによって指摘されたように、その特権のみを強調して、その「世界万民の救拯の手段としての選び」の本来の意義は、忘れ勝ちでした。

選民の存在理由は、ただ一つ「万民の福祉」のためです(創世記12:1ー3「神の根源約束」)。

ゆえに選民は、他民族間にみられるような怨恨意識で動くべきではなかったのです。

怨恨意識とは、他と同平面上に自己をおくことに基づく敵対意識だからです。

「ああ、エサウはかすめられ、その隠しておいた宝は探り出される。
あなたと契約を結んだ人々はみな、あなたを欺き、あなたを国境に追いやった。
あなたと同盟を結んだ人々はあなたに勝った」(オバテヤ書6ー7)
とは、選民の目標の仰視を怠った時に結果する、歪められた自負心を暴露する代表的な言葉です。

オバテヤ書は、その主題が「エドム討伐」ですが、イスラエルとエドムとは、両者共にアブラハムの子孫で、イサクの子であるヤコブとエサウの裔(すえ)として、伝説的に兄弟民族とされてきた仲です(創世記25:19以下)。

エサウの部落はいつの頃からか、アラビヤ砂漠を去って、セイル山(創世記36:8)、またはエサウの山(オバデヤ書8ー9)とよばれた山地に住むようになって、「岩のはざまにおり、高い所に住む者」となっていました(オバデヤ書3)。

他方弟ヤコブはカナンに土着し、狡猾だが、理想主義的性格の持主として育ちました。

この弟ヤコブが兄エサウの家督の権を奪って以来、両者間、イスラエルとエドム両民族間に、ぬぐい難い敵対意識が培われてきたのです(列王紀上11:14)。

オバデヤ書に、
「あなたはその兄弟ヤコブに暴虐を行ったので、恥はあなたをおおい、あなたは永遠に断たれる。
あなたが離れて立っていた日、すなわち異邦人がその財宝を持ち去り、外国人がその門におし入り、エルサレムをくじ引きした日、あなたも彼らのひとりのようであった。
しかしあなたは自分の兄弟の日、すなわちその災の日をながめていてはならなかった」(オバデヤ書10ー12)
と記されているのは、ヤコブの政治的独立が奪われた、エルサレム陥落の時の、対エドム的怨恨意識を暴露した言葉です。

そうして、この記憶によって倍加された選民的復讐感が、
「主の日が万国の民に臨むのは近い。
あなたがしたようにあなたもされる。
あなたの報いはあなたのこうべに帰する」(オバデヤ書15)
という言葉に要約されています。

A選民的排他性(オバデヤ書1:16ー1:21)

エドム討伐をその主題とするオバデヤ書が表わすのは、選民的排他性の思想です。

「あなたはわが民(選民イスラエル)の災の日に、その門にはいってはならず、その災の日に、その苦しみをながめてはならなかったーーエサウの家には残る者がないようになる」(オバデヤ書13、18)
という言葉には、選民的排他性が露骨に表現されています。

旧約聖書の中には、一方に、オバデヤ書と並んでヨエル書、あるいはエステル書のように排他的な思想をもつ書がありますが、他方にこれと正反対な包容的思想をもつイザヤ書(後半)、ヨナ書あるいはルツ記のような書物があります。

オバデヤ書にはヨエル書のそれよりもさらに直接的で素朴な復讐感が表現され、それと正反対な包容精神によって貫かれたヨナ書と並べられています。

これは何を意味するでしょうか。

聖書は包容的思想のみによっては、その語ろうとする意図を果し得ないということです。

包容的書物のみをもっては、選民の独自性を鋭く出し得ません。

したがって、旧約聖書中の包容的思想は、排他的思想との対偶と相剋とを通してのみ、その本来的発言を徹底せしめられるのです。

「イスラエルの選び」という危機的・垂直的思想が、このような両者による表現形式を要請するのです。

イスラエルの選び主は、「神の召と賜物とは変えられることがない」と確信させられつつ、「あなたは祝福の基となるであろう」と宣う神だからです。

ここにも、他に対して、閉じられていながら開かれてあり、開かれていながら閉じられてあるべき、選民の逆説的要請が、高く・深く、指し示されています。

【参考】
エドムの裔から、イエスを十字架に架ける片棒を担いだヘロデが生まれ、ヤコブの裔からイエスが生まれます。



posted by 道川勇雄 at 15:05| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする


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