2019年07月21日

ハバクク書

ハバクク書

「隠れた歴史支配者の沈黙における黙示の解読」 

人の世は、悪玉が善玉を駆逐し、悪人が栄え、善人が苦しむ社会です。

だが、事実、聖書のさし示す神は、歴史の支配者でありながら、あくまでも隠れて支配する主であり、「神は死んだ」といわせるまでに、自らを隠す神です。

ハバクク書は、神の正義の勝利の、直接的実証(ニネベ陥落)を語るナホム書の解釈を警戒するかのように、「沈黙する神」へのより深い洞察を示しています。

@沈黙する神への被圧迫者の叫び(ハバクク書1章)

人間の歴史を貫いているのは、神が正義の味方ならば、何故このような時に、神は沈黙したもうのか、という痛切な叫びです。

詩篇にも、「主よ、何故! 何時まで、」という叫びの詩があふれています。

ハバクク書も、
「主よ、わたしが呼んでいるのに、いつまであなた(主)は聞きいれて下さらないのか。
わたしはあなたに『暴虐がある』と訴えたが、あなたは助けて下さらないのか」
という叫びをもって始められています。

このハバククの冒頭の言葉が、現在もなお、世界の隅々から聞こえています。

「略奪と暴虐・論争と闘争」のさなかにおかれた被圧迫者としては、かつて、エジプトの地で苦役の下にうめき叫ぶ民の叫び声を聞かれた主を知っているだけに、「何故なのか」という問いは切実です(出エジプト記2:23-3:7、申命記2:7他、詩篇106:44-46等)。

「わが神、主、わが聖者よ。
あなたは永遠からいますかたではありませんか。
ーーあなたは目が清く、悪を見られない者、また不義を見られない者であるのに、何ゆえ不真実な者に目をとめていられるのですか。
悪しき者が自分よりも正しい者を、のみ食らうのに、何ゆえ黙っていられるのですか」
とは、文字どおり、現代世界の底辺からの叫びです(ハバクク書1:12以下)。

A沈黙する神からの被圧迫者への黙示(ハバクク書2章)

極限的な苦悩の下での叫びは、やがて人の言葉の空しさのみならず、神の言葉の空しさへの告発となります。

しかし、預言者の特殊な召しは、彼をその絶望の淵から引きずり出して、強いて見張所に立たせずにはおきません。

「わたしは、わたしの見張所に立ち、物見やぐらに身を置き、望み見て、彼(主)がわたしになんと語られるかを見、またわたしの訴えについて、わたし自らなんと答えたらよかろうかを見よう」(ハバクク書2:1)
とさせられます。

預言者は、沈黙する神は、遠くその民から去った神ではなく、依然として「聖なる宮にいます神」であることを示され、しかも、その神は、叫ぶ者に向かって沈黙を命じます。
「しかし、主はその聖なる宮にいます、全地はそのみ前に沈黙せよ」と。

その叫びのただ中の沈黙において、聞こえてきた神からの黙示は、
「この幻を書き、これを板の上に明らかにしるし、走りながらも、これを読みうるようにせよ。
この幻はなお定められたときを待ち、終りをさして急いでいる。
それは偽りではない。
もしおそければ待っておれ。
それは必ず臨む。
滞りはしない。
見よ、その魂の正しくない者は衰える。
しかし、義人はその信仰によって生きる」(ハバクク書2:2以下)
というのです。

人の時は、人の欲する時であって、神の時、神のカイロス(時熟)ではありません。

人は、神の時を知らず、あせります。
人は近視眼的視野の故に遠くを見渡せないのです。

ハバクク書のこの、
「終りをさして急いでいる。
それは偽りではない。
もしおそければ待っておれ。
それは必ず臨む。
滞りはしない」
という表現には、限りなく高く・広く・深い視野に立つものが、限りなく低く・狭く・浅い評価しかできない者へ、何とかして近づこうとするいつくしみにみちた配慮が、あふれています。

これとの関係で想いおこされるのは、『時速五キロの神』という本の中の次の言葉です。
「愛はそれ自体のスピードをもつのです。
それは一つの内面的速度です。
それは一つの霊的な速度です。
それは私たちが慣れているところの、技術的(テクノロジカル)な速度とは異った種類の速度です。
それは『ゆっくりとした』しかし愛の速度であるゆえに、他のすべての速度を追いこすのです。
それをわたしたちが知ろうと知るまいと、また、わたしたちが嵐によって今、打たれていようといまいと、それは、わたしたちに向かって生の深みへ時速五キロで進んでゆくものです。
それは私たちが歩む速度であり、それゆえにまた、それは神の愛が歩む速度なのです」
とありますが、これは実に聖書的な深い洞察に富んだ指摘だと思います(小山晃佑著、望月賢一郎訳『時速五キロの神』同信新書、1982年、同信社、22頁参照)。


B沈黙しつつ目的を果たす主への開眼(ハバクク書3章)

この部分に示される神は、沈黙する神とは反対に、戦闘的に攻撃する神です。

「あなた(主)は憤って他を行きめぐり、怒って諸国民を踏みつけられた。
ーーあなたは悪しき者の頭を砕き、彼を腰から首まで裸にされた。
あなたはあなたのやりで将軍の首を刺しとおされた」(ハバクク書3:12-15、3:8以下)
とあります。

そのような主の戦闘は、沈黙が破られた後の出来事ではありません。

沈黙する神が、実は人からは隠された形で、そして隠されたスピードで、その宇宙救拯という目的を、着々と進めていたもうことが、黙示として信仰者の目に透視されてくる、ということです。

「わたしは聞いて、わたしのからだはわななき、わたしのくちびるはその声を聞いて震える。
腐れはわたしの骨に入り、わたしの歩みは、わたしの下によろめく。
わたしはわれわれに攻め寄せる民の上に悩みの日の臨むのを静かに待とう」(ハバクク書3:16以下)
という告白がそれを裏書きされています。


posted by 道川勇雄 at 15:11| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする


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