2019年07月21日

ぜパニヤ書

ゼパニヤ書

「対神的高ぶりを除かれる人類総決算の日の先取り」 

ゼパニヤ書は、その冒頭の、
「主は言われる、
『わたしは地のおもてからすべてのものを一掃する』」
という言葉が示すように、全人類総決算の日を注目させます。

しかもその審判はもっぱら人間の高ぶりに対して向けられるという。

「すべて主の命令を行うこの地のへりくだる者よ、主を求めよ。
正義を求めよ。
謙遜を求めよ。
そうすればあなたがたは主の怒りの日に、あるいは隠されることがあろう」と言われ、モアブ、アンモンの高ぶりの罪についても、
「この事の彼らに臨むのはその高ぶりによるのだ。
彼らが万軍の主の民をあざけり、みずから誇ったからである」(ゼパニヤ書2:2、2:10)。

高ぶりの代表といえば、ニネベですが、ニネベに対する審判の言葉も、
「この町は勝ち誇って、安らかに落ち着き、その心の中で、
『ただわたしだけだ、わたしの外にはだれもない』
と言った町」(ゼパニヤ書2:13-15)
として自己を神に代わるものとした神格化の罪が指摘されています。

「人類総決算の日」が、高ぶりに対する審判の日であるのは、「ヨベルの年」の規定を通して予表的に示されていたように、高ぶる者が低くされ、低い者、へりくだる者が高くされる、「価値の革命的逆転」を意味するからに他なりません。

それが、ゼパニヤ書の、
「その時わたしはあなたのうちから、高ぶって誇る者どもを除くゆえ、あなたは重ねてわが聖なる山で、高ぶることはない。
わたしは柔和にしてへりくだる民を、あなたのうちに残す。
彼らは主の名を避け所とする。
イスラエルの残りの者は不義を行わず、偽りを言わず、その口には欺きの舌を見ない」(ゼパニヤ書3:11)
という主の約束の言葉に明示されています。

そこに求められているのは、したがって、「ヨベルの年」を現在的に先取りして生きる終末感的自覚でしょう。

【ヨベルの年】

「ヨベルの年」とは、レビ記の律法的規定で、「安息の年」を七つ数え、第五十年目に一度来る「全釈放の年」であって、この年には二つの釈放が行なわれます。
「無条件の奴隷解放」と「無条件の土地返還」で、「万民共存共栄の基礎条件」として不可欠な、貧富の格差解消の基礎条件です。

@「人格的釈放」で、自己の身体を奴隷として売っていた者が、この年の七月十日のラッパの音とともに、釈放され、「おのおのその家にかえる」ことが許されるのです。

「あなたがたは第五十年目を聖別し、国中のすべての住民に解放を宣言する。
これはあなたがたのヨベルの年である。
あなたがたはそれぞれ自分の所有地に帰り、それぞれ自分の家族のもとに帰らなければならない。」(レビ記25:10)
のです。

A「不動産の回復」で、どんな事情であれ、不動産を、ことに先祖伝来の、「約束の地」を分け与えられた土地を他人に売却または質入れしていた者に、それが無償で返還されます(レビ記25:13など)。

@の理由は、すべてのイスラエル人は、「神に属する者」(レビ記25:42)であるということです。

Aに対しては、その理由として、「土地はいっさい神に属する」(レビ記25:23)ものだからです。

「ヨベルの年」の規定は、イスラエルが「奴隷の家」であったエジプトを出て、「約束の地」カナンで選民の国という理想国家を営むまで、前者から後者へと移る準備のために与えられた「広野の四十年」の間において与えられたものでした。

したがってこの規定は単なる律法ではなく、「奴隷」から「市民」となるべき目的のための規定であり、選民のひとりとして、すべてのイスラエル人の「権利」であるとともに、他者に対しての「義務」として規定されたものです。

イエスは、この「ヨベルの年」への言及を、レビ記におけるそれにおいてでなく、イザヤ書におけるそれから朗読されたのは、これを預言的志向において理解したもうたからでした。

「きょう、聖書のこのみことば(ヨベルの年)が、あなたがたが聞いたとおり実現しました。」(ルカによる福音書4:21)
と言われたように、この「ヨベルの年」への言及によって、表現された「神の国」に関するイエスの宣教の経済的側面です。


posted by 道川勇雄 at 15:14| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする


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