2019年07月21日

ハガイ書

ハガイ書

「主への復帰によってのみ癒される祭儀の汚染」 

@主への無知に基づく選民の怠慢(ハガイ書1章―2:9)

選民を選民たらしめるものは何か。

それは「主が共にいます」ことです。
神殿こそはそのことの確認の場です(出エジプト記3:12、25:8等)。

「わたし(神)の家が荒れはてているのに、あなたがたは、おのおの自分の家の事だけに、忙しくしている」(ハガイ書1:3-11)
この選民の姿は、本末顛倒であり、そこに真の祝福はありえないのです。

また、第二神殿は、栄光に輝いたソロモンの神殿に比べて、余りにわびしいことに落胆する選民の姿は、人間的条件や、下からの評価のとりこになっている証拠であり、それは神殿の栄光の充実者は主御自身、であることを見失っている選民の無知に他なりません。

「ゼルバベル(ダビデ直系の指導者)よ、勇気を出せ。
ーーわたし(主)はまた万国民を震う。
万国民の財宝は、はいって来て、わたしは栄光をこの家に満たす、
ーー主の家の後の栄光は、前の栄光よりも大きいと、万軍の主は言われる」(ハガイ書2:4-9)
からです。

A主への復帰によってのみ聖めらる祭儀の汚染(ハガイ書2:10以下)

神殿の栄光の充実者は主御自身である、という選民の確認だけで足りるというのではありません。
「選民と共に主が在す」確認の場が神殿であることの「絶大な矛盾」が凝視されていなければならないのです。

その矛盾とは、「聖なる主」が、「汚れた民」の中に住むという矛盾です。

選民は、選民としての価値の故に選民とされたのではありません。
また「聖」は、主なる神のみに帰する排他的属性です。
人がふれたものが「聖」となるのではありません。
汚れは、人間間では、伝染するのです(ハガイ書2:12-14)。

選民イスラエルは、宿営の進む時、聖所と聖所のすべての器のおおわれたものを運ぶ時、
「聖なる物に触れてはならない。
触れると死ぬ」(民数記4:15以下)
からであると教えられてきました。

歴代志には、「神の箱」がペリシテ軍の許から返還された時のエピソードとして、「神の箱」をひく牛がつまずいたので、ウザが「神の箱」を押えてしまった時、
「ウザが手を箱につけたことによって、主は彼に向かって怒りを発し、彼を撃たれたので、彼はその所で神の前に死んだ」(歴代誌上13:5以下)
ことが明記されているくらいです。

ハガイを通して、主は、
「この民も、この国も、
ーーその所で彼らのささげるものは、汚れたものである」
と言われます。

その汚れの原因は、彼らが「主に帰らなかった」ことにあるのです(ハガイ書2:17)。

神殿の栄光の充実者が主御自身であることに対する選民の無自覚、そして、選民として第一義的なことを第一義的なこととしない選民の怠慢は、そのルーツをたどれば、彼らの、神殿によって象徴される、「聖と汚れの法則」、ひいては、それが示すーー聖なる神が汚れた民と共に宿るーー絶大な矛盾に対する致命的な鈍感さです。


posted by 道川勇雄 at 15:15| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする


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