2019年07月21日

ゼカリヤ書

ゼカリヤ書       

「主が貫徹されるエルサレムの聖化」

ゼカリヤ書の特色として、そのエルサレムの栄光への固執と、エゼキエル書のような象徴の引用とがきわだっています。

@真実と正義の実践こそ呪いを祝福に変える主霊への応答(ゼカリヤ書1-8章)

先立つハガイ書には、選民の怠慢からの立ち上がりを促しつづける、ある種の忍耐があります。

それに反し、ゼカリヤ書には、エゼキエル書ゆずりともいえる、主の霊の攻撃の切迫したすさまじさが支配しています。

主に還ろうとしない民はどうであろうと、主自らはもはや猶予を許されない、といわんばかりに、主自らその神殿から「立ち上がり」、エルサレムの「周囲で火の城壁となり、その中で栄光となる」(ゼカリヤ書2:5、2:13、1:6、1:16-17、4:6、8:2-3等)
という不退転の決意者が、主です。

この点は、「苦難の僕」に結晶するような主の怒りと忍耐との相剋を力説するイザヤ書とは正反対です。

だが、そのような主は、もはや全地の罪を責めることはあきらめたのであろうか、否です。

罪の処理への力説が、「汚れた衣」を脱がされ、主による罪の除去の徴として祭服を着せられた大祭司ヨシュアにおいて、代表的な罪である利欲(エパ枡)と情欲(女)のーー「アザゼルの山羊」を連想させるようなーー処理のし方においてみられます(ゼカリヤ書3:1以下、5章、レビ記16:6以下参照)。

【引用】
「そしてアロンは自分のための罪祭の雄牛をささげて、自分と自分の家族のために、あがないをしなければならない。
アロンはまた二頭のやぎを取り、それを会見の幕屋の入口で主の前に立たせ、 その二頭のやぎのために、くじを引かなければならない。
すなわち一つのくじは主のため、一つのくじはアザゼルのためである。
そしてアロンは主のためのくじに当ったやぎをささげて、これを罪祭としなければならない。
しかし、アザゼルのためのくじに当ったやぎは、主の前に生かしておき、これをもって、あがないをなし、これをアザゼルのために、荒野に送らなければならない。」(レビ記 16:6-10)
(注)アザゼルの山羊とは、「スケープゴート」「身代わり」「生贄(いけにえ)」のこと。

だがそれのみではない、断食のようないわゆる宗教的行事にこだわる民に、主が求めるのは、むしろ、
「真実のさばき、やもめ、みなしご、他国人への思いやり」(ゼカリヤ書7:4以下、8:16以下)
です。

真実と社会的正義の実践こそ、呪いを祝福に変える主を仰がせられる者にのこされた唯一の下からの応答であるという。

A己れの刺した者を見るまで精錬される時点での祭儀的浄化(ゼカリヤ書9-14章)

「エルサレムの娘よ、呼ばわれ。
見よ、あなたの王はあなたの所に来る。
彼は義なる者であって勝利を得、柔和であって、ろばに乗る」(ゼカリヤ書9:9、3:8、6:12-13)(ヨハネ2:19以下)
と言われているように、主の宮そのものであるメシヤは必ず来るのです。

しかし、
・エルサレムの栄光は、容易には実現されない。
・エルサレムは外敵の集中攻撃の的となるべく定められている。
・戦禍の渦中に投げ込まれ、「ほふらるべき羊の群れ」として苦難の洗礼をあびなければならない。

しかもその苦難と不可分な宣言とみられるのが、
「わたしはダビデの家およびエルサレムの住民に、恵みと祈りの霊とを注ぐ。
彼らはその刺した者を見る時、ひとり子のために嘆くように彼のために嘆き」(ゼカリヤ書12:10)
という、きわめて謎めいた言葉です。

強いて想像をたくましくすることを許されるならば、そこに、イザヤ書の「苦難の僕」像が浮かんできます(イザヤ書53章)。

その当時(捕囚直後)のイスラエルは、その僕の苦難を、自分と結びつけることなく、傍観者としてとどまっていました。

「まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。
しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと」(イザヤ書53:4)。

そのような傍観者的在り方は、もはやこのゼカリヤ書の描写にはありません。

苦難を経て、精錬された時、初めて、選民は、「苦難の僕」を、自分たちが「刺した者」として、自分の罪の深さに嘆く心のへりくだりを与えられるということです。

イザヤ書は、「苦難の僕」において選民の「在るべからざる姿」を照し出す「在るべきイスラエル・真のイスラエル」を象徴しているともいえます。

この指摘のあとに、
「主はいわれる、全地の人の三分の二は断たれて死に、三分の一は生き残る。
わたしはこの三分の一を火の中に入れ、銀をふき分けるように、これをふき分け、金を精錬するように、これを精錬する」(ゼカリヤ書13:8)
と言われていることも、この解釈を助けているように思います。

苦難を通し精錬されて初めて、
「エルサレムの住民は、その神、万軍の主によって力強くなったという」
(ゼカリヤ書12:5)
ともしるされています。

そして、その精錬を経た、
「その日には、馬の鈴の上に『主に聖なる者』と、しるす」(ゼカリヤ書14:20)
といわれています。

「神殿のすべての器が神殿の聖なる儀式のために必要となる」
つまりそれはエルサレムの回復の主による完璧な貫徹を物語るといえます。

これが、
「この日から後、この町の名は『主そこにいます』と呼ばれる」
(エゼキエル書48:35)
と記されたエゼキエル書の結尾の言葉に相対応します。

最後に、ゼカリヤ書をみると、預言者は一つの「巻物」が中空を飛ぶのを示されました。
これは審判の巻物であって、「その長は二十キュビト、その幅は十キュビト」でした(ゼカリヤ5:2)。
この長さと幅の数は、ソロモンの建てた神殿の「拝殿の廊」のそれです(列王紀上6:3=神殿の本堂の前につく玄関は、長さが神殿の幅と同じ二十キュビト、幅が神殿の前方に十キュビトであった。)。

これは世界の審判を決定する基準である「巻物」ですが、それはイスラエルから始められるものであり、ことにそれは「神殿」から始められるものであることを語っている数です。

新約聖書では、
「なぜなら、さばきが神の家から始まる時が来ているからです。
さばきが、まず私たちから始まるのだとしたら、神の福音に従わない人たちの終わりは、どうなることでしょう。」といわれている見方は、新約聖書に始まったものでないことがこれによって分かります(ペテロ前書4:17)。

なお、この数の暗号的または秘義的使用は、後にユダヤ学者の間に「数の学」を起こしました。



posted by 道川勇雄 at 15:17| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする


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