2019年07月21日

マラキ書

マラキ書

「恵みに狎れた祭司的頽落の極限状況に遺わさる審判の使者」 

マラキ書冒頭の、主の「わたしはあなたがたを愛した」という短い言葉に、実は、旧約聖書を貫く選民史が収斂されています。

旧約聖書は、「創造主」である神の対万民への普遍愛と、「選び主」の選民への特殊愛の交錯からなっています。

だが、全聖書を貫くのが、救拯史(救済史)とよべるなら、旧約聖書は、選民史的で、いずれかというと、神の普遍愛は、選民に対する特殊愛の強調に仕えるような役目を果たしているとみられます。

しかし、その特殊愛に対する選民の反応は、驚くべきことに、その愛に対する決定的な「不感症」でしかなかったのです。

旧約聖書の選民史は、その最後に(現行聖書によると)、選民の頽落の極限を、とりわけ祭司のそれとして指摘するマラキ書を配することで、選民史の失格をより鮮烈に暴露させています。

選民の失格の責任者としての祭司の失格を通してーー選民の「在るべからざる姿」を通してーー旧約聖書は、「在るべき姿」そのものである「真のイスラエル」(キリスト)を、「視よ」と、それを超えてさし示しています。

それのみでなく、マラキ書が、ゼカリヤ書に先立たれていることにより、マラキ書の指摘する「選民の無関心とシラケ・ムード」は、ゼカリヤ書の描き出す、「主の霊の活動の攻撃的切迫性」との対照で、きわめて鮮烈に印象づけられます。

@祝福を呪詛に変えた祭司の狎れ(マラキ書1-2章)

マラキ書冒頭の「わたし(主)はあなたがたを愛した」という命題の提言は、実は、底知れぬ謎をひめているが故に、不気味な言葉でさえあります。

そのことは、この言葉の註釈とでもいうべき主の言葉に窺われています。

「主は言われる、
『エサウはヤコブの兄ではないか。
しかしわたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ』」
といわれているように、それは偏見的な表明として非難されることを知りつつ語られている、傍若無人な宣言に他なりません。

しかもこれは、「あなたはどんなふうに、われわれを愛されたか」という、選民の側の驚くべき遅鈍さの暴露と対照されるがので、衝撃的です。

マラキ書は、全体が、このような、悲劇的な愛の破局を露呈する「選び主」と「選民・イスラエル」とのなじり合いから構成されています。

永遠の愛を誓ったかけがえのない関係の破局として、これは、まさに、恵みに狎れた者の悲劇です。

「われわれはどんなふうにあなた(選び主)の名を侮ったか」、
「われわれはどんなふうに、それを汚したか」、
「われわれはどんなふうに、彼を煩わしたか」(マラキ書1:6-7、2:17等)
という選民の応酬のふてぶてしさが、それを暴露しています。

選民の無条件に与えられた恵みに対する狎れとは、ひとたび、光に触れた者の頽落ですから、不気味な居直りとも言えます。

とりわけ祭司および宗教家の頽落については、
「律法を教えるに当って、人にかたよった」(マラキ書2:9)
ことが指摘されています。

律法を教え、神の言葉を取り次ぐ指導者の陥りやすい誘惑を病巣としてえぐり出す、そのメスさばきの鋭さには驚かされます。

選民の頽落の特徴である、恵みに対する狎れは、実は、神の「聖なること」に対する感覚の麻痺です。

ひとたび光に触れたのちに、光を拒み、光を避ける姿は、「聖なるもの」に対する「畏れの喪失」に他ならないのです。

その点が、
「汚れた食物を祭壇の上にささげ」、
「主を鼻であしらう在り方」
として、また、それを裏切りとして判断できない鈍感さとして指摘されています(マラキ書1:7、1:13、2:14以下等)。

マラキ書は、この恵みに狎れ、聖なるものの感覚を失った選民の在り方をとりわけ祭司の責任に帰し、神殿に対する冷淡、異邦人との功利的雑婚、祭司らの人本主義的癒着、弱者の圧迫、社会的不正として列挙しています。

それ故、選民の恵みに対する狎れとしての祭司の不感症は、主の名を汚す病根であり、選民への祝福を選民への呪詛に変えるような致命傷です。

「祭司たちよ、今この命令があなたがたに与えられる。
万軍の主は言われる、あなたがたがもし聞き従わず、またこれを心に留めず、わが名に栄光を帰さないならば、わたしはあなたがたの上に、のろいを送り、またあなたがたの祝福をのろいに変える。
あなたがたは、これを心に留めないので、わたしはすでにこれをのろった」(マラキ書2:1-3)
という指摘がそれを示しています。

A選民の不貞を暴露する使者派遣の必然(マラキ書3-4章)

愛は、愛する対象の示す評価に対して、人を敏感にせずにはいません。

その逆に、愛における不感症(狎れ)は、選民の不貞というべき、評価の悲劇的くいちがいを暴露します。

選民の言い分は、
「神に仕えることはつまらない。
われわれがその命令を守り、かつ万軍の主の前に、悲しんで歩いたからといって、なんの益があるか。
今われわれは高ぶる者を、祝福された者と思う。
悪を行う者は栄えるばかりでなく、神を試みても罰せられない」(マラキ書3:13以下)
という、倒錯的評価です。

この選民の判断の規準の悲劇的倒錯は、高ぶりを終末的審判の焦点にしぼったゼパニヤ書に照らす時、決定的となります。

またハガイ書は、「聖」とは逆比例的に働く、「汚れ」の加速度的伝染性を指摘しましたが、その汚れを清めるためには、神からの使者ーー「金をふきわける者の火のようであり、布さらしの灰あ汁くのように銀をふきわけて清める」使者を遣わすより他ないという神的決断の必然を叫ぶのが、マラキ書です(マラキ書3:1以下)。

金をふきわける火としての使者の出現の予告は、
「イスラエルの多くの人を倒れさせたり立ちあがらせたりするために、また反対を受けるしるしとして、定められた者」
としてのイエスの誕生を暗示しているといえます(ルカ2:34-35)。

それは、
「多くの人の心にある思いが現われる」時、したがって隠されている心の中の評価の究極的暴露者の到来であるからです。

【預言者のまとめ】

三大預言者(イザヤ・エレミヤ・エゼキエル)、続く十二預言者は、遣わされた預言者の使信をのべています。

三人づつの群に分けて読ませるように意図して配列されています。

「三大預言者」(イザヤ、エレミヤ、エゼキエル)
⚫︎イザヤ書は、選民イスラエルが、その実験民族として召された「神の国」(共存共栄の国)は、か弱い者にいたるまで、強者の犠牲となることなく、各々がその個性的存在をまっとうすることのできる世界であることをさし示しています。

選民が、主のイスラエルに対する当然の期待にそむき、その選民としての特権のみを主張して、共存共栄の条件が強者の権利放棄によってしか実現しないものであることを悟るのは、その中の極く僅かな遺残者(残された者)にすぎないことを、「悩める主の僕」の幻の象徴を通して語っています。

イザヤ書は、神の支配の及ぶ共存共栄の国の実験民族として召されたイスラエルの在るべき姿は「権利放棄」によってのみ達せられることを強調し、それとは全く逆に、「権利主張」に生きることしかしらないイスラエルの選民の「使命」に対する失格の深さを露呈しています。

⚫︎エレミヤ書は、選民の背信の徹底的分析とその必然的結果としておこるエルサレムの落城を語ります。
背信の民イスラエルを癒すものは、「心の肉に記された『新しい契約』」でなければならないと断言します。

エレミヤ書は、イスラエルの選びと育成とに実証された主の無条件的恵みと、それに対する二者択一の迫りに照らして、「エルサレムの落城」と、「イスラエルの破滅」は、当然過ぎる処罰であることを実証的に語ります。

⚫︎エゼキエル書は、「選民救拯に対する人間的責任」「選民救拯に対する神的行為」「選民回復に対する超越的根拠」の三点をほりさげています。

エゼキエル書の主題はさき立つイザヤ書とエレミヤ書との対応においてのみ、その充分な含蓄がくみとれます。

エゼキエル書は、イザヤ書の高調する「選民の特殊性」とエレミヤ書の強調する「被造者の普遍性」という相反的契機を止揚する「神の聖なる名」をもってしています。

当然、歴史の舞台から消されるはずのイスラエルに対して、エゼキエル書はその予想を裏切るかのように、「回復」の約束を与えているからです。
その「回復の根拠」としてエゼキエル書が示すのは、イザヤ書とエレミヤ書とを結びつける「聖なる名の秘義」です。

イスラエルの側にも何ら回復されるべき望みも根拠もありません。
唯一の根拠は、「聖なる名が惜しまれる」ということのみです。

「選び」とは、このように、選ばれたものの価値とか実質によらず、その無価値にもかかわらず、ただひたすらその委譲された名の指標によって、取り扱われるということです。

「聖なる名」とは、それにおいて「人的不可能が神的可能に代わられる転換点」です。
 
十二預言者に進みます。
第一群(ホセア・ヨエル・アモス)では、「主の愛に対する直接的理解」が暴露され、第二群(オバデヤ・ヨナ・ミカ)では、「主の審判の規準に対する直接的理解」が否定され、第三群(ナホム・ハバクク・ゼパニア)では、「主の世界的正義実証に対する直接的理解」が批判され、第四群(ハガイ・ゼカリヤ・マラキ)では、「祭司的客観的確信の直接的理解」が是正されています。


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⚫︎ホセア書の主題は、「背くイスラエルに対する選び主の贖罪愛」です。
無限に深い神的パトスのうちに、ホセア書はイスラエル回復の根拠を見出しています。
しかし、このような愛が「直接的」に理解されると、他の異邦諸国のみを審判の対象とみて、自民族をこれから都合よく除外して考える、いわゆる次記する「虫のよい」ヨエル書的理解が生まれます。

⚫︎ヨエル書は、
「周囲のすべての国民よ、急ぎきて、集まれ、主よ、あなたの勇士をかしこにお下し下さい。
もろもろの国民をふるい立たせ、ヨシャパテの谷にのぼらせよ。
わたしはそこに座して、周囲のすべての国民をさばくーー主はシオンから大声で叫び、エルサレムから声を出される。
天も地もふるい動く。しかし主はその民の避け所、イスラエルの人々のとりでである」(ヨエル3:11ー16)
とは、御利益宗教に陥りはしないかとあやぶまれるような選民的自負心の実例です。

ですから聖書は、つづいて、アモス書を配置しています。

⚫︎アモス書は、
「地のもろもろのやからのうちで、わたしはただ、あなたがただけを知った。
それゆえ、わたしはあなたがたのもろもろの罪のため、あなたがたを罰する」(アモス3:2)
という、人の意表に出るような審判の告示がおかれる必然性があるのです。

このアモス書の言葉は、明らかにホセア書のさし示した、ヤハウェの贖罪愛に対する、反省のない直接的理解をさばく鋭さをもちます。
この言葉を頂点として、第一群は、「エリート意識」というイスラエル民族の致命的自負心の粉砕を企てています。

「第二群」(オバデヤ・ヨナ・ミカ)
⚫︎オバデヤ書は、イスラエルの宿敵エドム(エサウ族)の滅亡をその主題としています。
「主の日が万国の民に臨むのは近い。
ーーあなたの報いはあなたのこうべに帰する。
あなたがわが聖なる山で飲んだように周囲のもろもろの民も飲むーーエサウの家には残る者がないようになる」(オバデヤ15ー18)
といわれているように、そこには明らかに選民の「自負心」と「復讐心」とがどぎつい光彩を放っています。

⚫︎ヨナ書は、オバデヤ書を覆すように、「神の審判の規準」は、人が何の民族に属するか、ではなく、「悔改め」の一点のみにある、と主張します。

ヨナ書のヨナは、「イスラエル的偏狭」と、「イスラエル的特権意識」の権化です。
イスラエル的偏狭の醜さをこれほど躍如と彷彿させる語り方はないでしょう。

⚫︎ミカ書は、
「主はわれわれの中におられるではないか、だから災いはわれわれに臨むことがない」(ミカ書3:11)
といって安んじている宗教家のエリート意識に対して挑戦しています。

「第三群」(ナホム・ハバクク・ゼパニア)
⚫︎ナホム書はニネベの陥落を主題としています。
ニネベとは異邦的権威の歴史的象徴です。
したがってニネベの陥落は、あきらかに主の正義の歴史的実証です。
しかし、神の正義の実証を、つねにこのような形で期待することはゆるされません。

そこに生じ易いのは、「神の審判はつねにこのようにあるはずだ」という僣越も甚だしい、人間的見取図的な予想だからです。

⚫︎ハバクク書は、ナホム書の「神の審判はつねにこのようにあるはずだ」という僭越な人間的に見通しを否定し、「信仰者のとるべき仰望的態度」をさし示します。

⚫︎ゼパニヤ書は、「ともしびをもって、エルサレムを尋ね、滓(おり)の上に凝り固まって、その心の中で『主は良いことも、悪いこともしない』という人々」への警告を語ることによって、神の正義の実証の確信における危機的終末的緊張を要請しています。

「第四群」(ハガイ・ゼカリヤ・マラキ)
⚫︎ハガイ書は、続くゼカリヤ書とともに、あきらかに祭司的な書です。
神殿祭儀中心的です。

国を失って、窮乏生活にあえぐ選民に対して容赦なく、神殿再建を要請するのがハガイ書です。
それは「わたしの家が荒れはてているのに、あなたがたは、おのおの自分の家の事だけに、忙しくしている」(ハガイ書1:9)
という、主からの問責の言に示されています。

選民の選民性は、「主がその中に住み給う」という一事とともに起ちもし、倒れもする。神の「聖なる名」をそのイスラエル回復の根拠として示された選民生活の再建は、神がその「聖い名をおき給う神殿」の確立を抜きにしては不可能だからです。

⚫︎ゼカリヤ書も祭司的書物ですが、ハガイ書がーーその結尾の言葉の示すように、神殿が再建されると、直ちにメシヤが来臨するものと見たのに対し、ゼカリヤ書は、その独自な八つの異象を通して、現在からメシヤ王国の来臨までの歴史を、遠近法的に描いています。

ゼカリヤ書によれば、メシヤ来臨ということは、イスラエルの回復の先行条件ではあるが、それは「神のみの知る」遠近法において具現するものであり、それは従って、人間の予想や見取図の否定として現われるとしています。

⚫︎マラキ書は、十二預言者の最後におかれ、選民の陥りやすい状況を、特に「恵みに慣れること」としてきびしく指摘します。

信仰的危機的な在り方から、人はあまりにもたやすく「恵みに慣れ」、その結果「聖なるものへの畏れを失う」状況にまで頽落するのです。
いわゆる霊的不感症です。

マラキ書では、「わたしはあなたがたを愛した」という主の言葉に対してイスラエルの示す反問として対話形式をとっています。

イスラエルは、主に対し、「あなたはどんなふうにわれわれを愛されたか、われわれはどんなふうに、それを汚したか」とふてぶてしく答えています。

マラキ書は、冒頭のホセア書に対応されます。

ホセア書のさし示した「背くイスラエルを追い求めてやまないヤハウェの贖罪愛」に照らし出されるとき、その愛への感受性と応答性とを失ったイスラエルは正にホセア書の描く「姦淫に慣れた女ゴメル」に他ならないからです。

このような霊的不感症からイスラエルをゆすぶりめざましめるものは、姦淫に慣れたゴメルに等しい自己発見としての「負債意識」しかないのです。

十二預言者の最後におかれた三つの祭儀的書物が、その相互関係を通して浮かび上がらすことは、「選民的祭司性への挑戦」ということです。
祭司性の本質とは、「民に代わり、その罪の汚れを負う」ということです。


posted by 道川勇雄 at 15:19| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする


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