2019年07月26日

ヨハネの黙示録

ヨハネの黙示録

「キリストの血による報復と終末の栄光『既に・未だ』」 

これまでにすでにあきらかになったと思いますが、聖書を、「キリスト証言」として読むことは、「キリスト告白」を頂点とするピラミッド態として把握することです。

ピラミッドの底辺が、66巻の個性的「キリスト証言」です。

そのようなピラミッド的把握の、きわめて初歩的、しかも基礎的な段階の営みとして、各巻の「意図」をみてきました。

聖書各巻は、聖書全体をしめつけているピラミッドの中の構成体の肢ですから、聖書を貫く救拯史「においてある」各巻であることは、原理解をなしているべきです。

その意味で、新約聖書も、最初におかれた四書が「福音書」、つづく使徒行伝以下、ユダの手紙までが「教会書」、このヨハネの黙示録が一巻独立して「預言書」とみられます。

新約聖書は、「教会の過去」を福音書に、「教会の現在」を教会書に、「教会の将来」を預言書において語らせている教会史です。

新約聖書は「教会史」として旧約聖書の「選民史」に対応していることになります(『渡辺善太全集』第3巻、317頁以下)。

このような新約聖書の顕著な構造を全く無視した「各巻の意図」の究明が不徹底なことはいうまでもありませんし、とりわけ黙示録を通して、聖書に即した限りでの救拯史における「終末観」が見直されるべきです。

「終末観」は、一般に、神学的用語として定着していますが、ヨハネの黙示録は、それとは異なった次元で用いています。

聖書は「既に」に傾いた「現在的終末観」と、「末だ」に傾いた「時代末的終末観」の両者を含んでいます。

主イエスは、その在生中、弟子たちに向かって「わたしはすでに世に勝っている」(ヨハネによる福音書16:33)と言われ、神はすでに「万物をキリストの足の下に従わせ、彼を万物の上にかしらとして教会に与えられた」(エペソ人への手紙1:22)と言われていることからすると、神の勝利は、イエス・キリストにおいては、すでに完成した「現在的勝利」であり、それは「現在的終末」とよべます。

他方、
「人の子が栄光の中にすべての御使たちを従えて来て、栄光の座につく」(マタイによる福音書25:31、24:3以下)
と、「再臨」の出来事を、将来のこととして語り、
「主の日はすでにきたとふれまわる者があっても、あわてたりしてはいけない。
ーー不法の秘密の力が、すでに働いているのである。
ただそれは、いま阻止している者が取り除かれる時までのことである。
この者を、主イエスは口の息をもって殺し、来臨の輝きによって滅ぼすであろう」(第二テサロニケ人への手紙2:2以下)
と予告しています。

つまり、教会は、「現在的終末」と「時代末的終末」、「既に」と「末だ」の緊張的時間意識の中におかれていると言えます。

黙示録が聖書の救拯史の結尾におかれ、創世記との対応で、「アルバ(始め)であり・オメガ(終り)である」神の救拯史を形づくっている聖書の啓示の独自性に改めて注目させられます。

文学的類型からいうと、ヨハネの黙示録は黙示文学的表現であり、象徴の細かい解釈のためには、註解書に頼るより他ないことはいうまでもありません。

きわめて大ざっぱな形で、ヨハネの黙示録の「意図」を模索するにとどめます。

@小羊の開示する現実教会の課題の勝利(ヨハネの黙示録1-3章)

ヨハネの黙示録は「イエス・キリストの黙示」(ヨハネの黙示録1:1)です。
したがって、それは、「僕(しもべ)ヨハネ」とよばれている者を通して語られてはいますが、この部分は、「教会の首」である小羊キリストから、その「からだなる教会」に語られた黙示です。

しかし、その「教会の首」は、
「万物の上にかしらとして教会に与えられた」(エペソ人への手紙1:22)主であり、
「万物は、天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、位も主権も、支配も権威も、みな御子にあって造られーー御子によって造られ、御子のために造られた」主ですから(コロサイ人への手紙1:16)被造者として「再臨」の主と無関係であると言いうるものは皆無だということになります。

しかも、その関係点とは、主イエスの十字架であり、その十字架上に流された血です。

「わたし(イエス)がこの地から上げられる時には、すべての人をわたしのところに引きよせるであろう」(ヨハネによる福音書12:32)
と言われた通りです。

それ故、主イエス「再臨」の時とは、
「すべての人の目、ことに、彼を刺しとおした者たちは、彼を仰ぎ見るであろう。
また地上の諸族はみな、彼のゆえに胸を打って嘆くであろう」
と言われています(ヨハネの黙示録1:7、ゼカリヤ書12:10参照)。

【引用】
「わたしはダビデの家およびエルサレムの住民に、恵みと祈の霊とを注ぐ。
彼らはその刺した者を見る時、ひとり子のために嘆くように彼のために嘆き、ういごのために悲しむように、彼のためにいたく悲しむ。」(ゼカリヤ書 12:10)


主イエスの来臨をその終幕とする聖書の神劇の中心は、あくまでも「屠られた神の小羊」キリストです。

あらわれた限りでの歴史、すなわち括弧の中の歴史は、「キリスト抹殺史」であり、括弧の外は、一般からは隠されています。

括弧の外の隠れた歴史支配者が、いよいよ顕われる時、それがヨハネの黙示録の語る教会の終末であって、同時に「宇宙史の終末的暴露」の時です。

ヨハネの黙示録は、そのような主の「再臨」の切迫の中で、教会に与えられようとする究極的勝利をうるため闘い抜くよう説得する、「教会の首」である主の激励を語ります。

七つの教会は、現実の小アジアの教会をさすと同時に、全世界の教会が、個性的、類型的にそこに象徴されたものと解することができます。

そのメッセージの語り手は、「教会の首」なるキリストですから、彼は教会の「燭台の間を歩く」者であり、「教会の現実を知り尽くしている者」です(ヨハネの黙示録1:13、2:2、2:9、2:13、2:19、2:23、3:1、3:8、3:15)。

【引用】
「それらの燭台の間に、足までたれた上着を着、胸に金の帯をしめている人の子のような者がいた。」(ヨハネの黙示録 1:13)

「わたしは、あなたのわざと労苦と忍耐とを知っている。
また、あなたが、悪い者たちをゆるしておくことができず、使徒と自称してはいるが、その実、使徒でない者たちをためしてみて、にせ者であると見抜いたことも、知っている。」(ヨハネの黙示録 2:2)

「わたしはあなたの住んでいる所を知っている。
そこにはサタンの座がある。
あなたは、わたしの名を堅く持ちつづけ、わたしの忠実な証人アンテパスがサタンの住んでいるあなたがたの所で殺された時でさえ、わたしに対する信仰を捨てなかった。」(ヨハネの黙示録 2:13)

「わたしは、あなたのわざと、あなたの愛と信仰と奉仕と忍耐とを知っている。
また、あなたの後のわざが、初めのよりもまさっていることを知っている。」(ヨハネの黙示録 2:19)

「また、この女の子供たちをも打ち殺そう。
こうしてすべての教会は、わたしが人の心の奥底までも探り知る者であることを悟るであろう。
そしてわたしは、あなたがたひとりびとりのわざに応じて報いよう。」(ヨハネの黙示録 2:23)

「サルデスにある教会の御使に、こう書きおくりなさい。
『神の七つの霊と七つの星とを持つかたが、次のように言われる。わたしはあなたのわざを知っている。
すなわち、あなたは、生きているというのは名だけで、実は死んでいる。』」(ヨハネの黙示録 3:1)

「わたしは、あなたのわざを知っている。
見よ、わたしは、あなたの前に、だれも閉じることのできない門を開いておいた。
なぜなら、あなたには少ししか力がなかったにもかかわらず、わたしの言葉を守り、わたしの名を否まなかったからである。」(ヨハネの黙示録 3:8)

「わたしはあなたのわざを知っている。
あなたは冷たくもなく、熱くもない。むしろ、冷たいか熱いかであってほしい。」(ヨハネの黙示録 3:15)

「在るがままの教会」が、そのままで「在るべき教会」なのではありません。

それぞれの教会はここに見られるように、それぞれの長所と共に欠点が指摘され、賞讃と共にきびしい警告が与えられています。

現実教会に向かって、共通に語られているのは、「勝利を得る者には」という条件提示です。

現実教会は、キリストにおける既得的勝利を地上の教会として獲得する課題を担うということです。

A小羊の血による宇宙大的報復と教会の完成(ヨハネの黙示録4-22章)

⑴小羊による報復としての全地の審判(ヨハネの黙示録4-8章)

この神劇の構造は、「天的現実」と「地的現実」の相互照応の形をとっているところにその特徴があります。

「み霊」に感じたヨハネが最初仰がせられたのは、「天の御座にいます方」と二十四人の長老による礼拝です。

「天的現実」とは教会にとっては、「所与」(賜物)であり、教会は、この「所与」から、地上の「課題」を見るように構想されています。

全世界の審判者とは、七つの封印を解くにふさわしい唯一の「屠られた神の小羊キリスト」であることが、天上の讃美の主題です。

長老たちの間に立つ「屠られたとみえる小羊」に対して、
「あなたこそは、その巻物を受けとり、封印を解くにふさわしいかたであります。
あなたはほふられ、その血によって、神のために、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から人々をあがない、わたしたちの神のために、彼らを御国の民とし、祭司となさいました。
彼らは地上を支配するに至るでしょう」(ヨハネの黙示録5:6以下)
という新しい歌がささげられました。

しかし神の言葉の故に、また、その証しを立てたために、殺された人々の霊魂が祭壇の下で、
「聖なる、まことなる主よ。
いつまであなたは、さばくことをなさらず、また地に住む者に対して、わたしたちの血の報復をなさらないのですか」
と大声に叫ぶ。

「すると、彼らのひとりびとりに白い衣が与えられ、これから、
『彼らと同じく殺されようとする僕仲間や兄弟たちの数が満ちるまで、もうしばらくの間、休んでいるように』
と言い渡された」(ヨハネの黙示録6:9以下)。

他方、
「地の王たち、高官、千卒長、富める者、勇者、奴隷、自由人らはみな、ほら穴や山の岩かげに、身をかくした。
そして、山と岩にむかって言った、
『さあ、われわれをおおって、御座にいますかたの御顔と小羊の怒りとから、かくまってくれ。
御怒りの大いなる日が、すでにきたのだ。
だれが、その前に立つことができようか』」(ヨハネの黙示録6:15以下)
と悲鳴をあげます。

次に天上では大きな患難をとおり、その衣を小羊の血で洗い、白くされた諸国民の中の無数の群衆が、しゅろの枝を手にもって、
「救は、御座にいますわれらの神と小羊からきたる。
ーーアァメン、さんび、栄光、知恵、感謝、ほまれ、力、勢いが、世々限りなく、われらの神にあるように、アァメン」(ヨハネの黙示録7:9以下)
と叫ぶ。

教会の迫害を背後にあって策動している力が聖書では、天上にいる「悪の霊」とよばれていますが(エペソ人への手紙6:12、3:10)、ヨハネの黙示録では、「龍」とか「獣」とよばれ、天上における御使たちと「龍」との戦闘で敗れたサタンについては、
「この巨大な龍、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれ、全世界を惑わす年を経たへびは、地に投げ落され、その使たちも、もろともに投げ落された」
が、彼らは、
「自分の時が短いのを知り、激しい怒りをもって」反撃し始めることがしるされています(ヨハネの黙示録12:7以下)。

「全世界の審判」でその頂点を占めるものとしては、聖徒の血とイエスの証人の血に酔いしれている女とみられているバビロンのそれです。

その審判については、
「天よ、聖徒たちよ、使徒たちよ、預言者たちよ。
この都について大いに喜べ。
神は、あなたがたのために、この都をさばかれたのである」
といわれています(ヨハネの黙示録18:20、ナホム書参照)。

【引用】
「見よ、わたし(主)はあなたに臨む。
わたしはあなたの戦車を焼いて煙にする。
つるぎはあなたの若いししを滅ぼす。
わたしはまた、あなたの獲物を地から断つ。
あなたの使者の声は重ねて聞かれない」(ナホム2:13)。


⑵小羊を中心とする千年王国(ヨハネの黙示録19章-20:6)

神の僕たちの血の報復が終わる時は、「小羊の婚姻の時熟」です(ヨハネの黙示録19:7)。

その婚姻に先立って、サタンが、千年の間つながれ、イエスのための殉教者が復活させられて、キリストと共に支配する「千年王国」が実現します(ヨハネの黙示録20:1以下)。

ローマ人への手紙は、
「一部のイスラエル人がかたくなになったのは、異邦人が全部救われるに至る時までのことであって、こうして、イスラエル人は、すべて救われるであろう。
ーー神の賜物と召しとは、変えられることがない。
ーー彼らも今は不従順になっているが、それは、あなたがたの受けたあわれみによって、彼ら自身も今あわれみを受けるためなのである」(ローマ人への手紙11:25以下)
と言い、イスラエルの回復を、イエス御自身も否定されなかったことから類推すると、これが、回復されたイスラエルを中心とするものに当たるという解釈が正しいかもしれません(使徒1:6-7)。

⑶小羊の栄光に満たされる教会の完成(ヨハネの黙示録20:7-22章)

「千年の期間が終ると、サタンはその獄から解放される」(ヨハネの黙示録20:7)。

そして最後の猛反撃を試みて後、火と硫黄の地に投げ込まれます。

次いで「全世界の全死者に対する審判の座」が、聖前に開かれ、それぞれの行為に応じてさばかれます(ヨハネの黙示録20:12以下)。

そうして初めて、「新天新地」(「宇宙万物の再完成」)が実現し、
「聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意をととのえて、神のもとを出て、天から下って来る」(ヨハネの黙示録21:1以下)
のをヨハネは見せられたのです。

これはイザヤ書に、
「わたしは主を大いに喜び、わが魂はわが神を楽しむ。
主がわたしに救の衣を着せ、義の上衣をまとわせて、花婿が冠をいただき、花嫁が宝玉をもって飾るようにされたからである」(イザヤ書61:10)
と歌われたような教会の完成、すなわち地上の苦難を経てから天に移され、その首なるキリストと一体とされた教会をさし示しています。

旧約聖書で「夫と妻」の表象で言及されていた「選び主と選民」の関係の排他的充実者は、十字架のキリストに他ならないのです。

「この都の中には、聖所を見なかった。
全能者にして主なる神と小羊とが、その聖所なのである。
都は、日や月がそれを照らす必要がない。
神の栄光が都を明るくし、小羊が都のあかりだからである。
諸国民は都の光の中を歩き、地の王たちは、自分たちの光栄をそこに携えて来る」(ヨハネの黙示録21:23以下)
と言われているように、この時は、隠されていた神の支配が、小羊の血による報復の貫徹を通して、完全に顕わにされる、神の究極的勝利と栄光顕現の時です。

このヨハネの黙示録を正しく読解させられた者とは、
「しかり、わたしはすぐに来る」
という主の声をきかされた者というべきでしょう。

なお、黙示録で、
「私は、この書の預言のことばを聞くすべての者にあかしする。
もし、これにつけ加える者があれば、神はこの書に書いてある災害をその人に加えられる。
また、この預言の書のことばを少しでも取り除く者があれば、神は、この書に書いてあるいのちの木と聖なる都から、その人の受ける分を取り除かれる。」(黙示録22:18ー19)
という言葉は、明らかに正典の基準性と限界性とを示す言葉です。
「啓示の時代」は、終わったのです。
「新しい啓示を受けた」というイスラム教も、モルモン教も、その他、雨後の筍のような、「聖書」「キリスト」「イエス」などを名乗る一切の宗教、集まり、団体、組織などなどは、カルトであり、異端なのです。


posted by 道川勇雄 at 06:00| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする


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