2019年07月21日

マタイによる福音書

マタイによる福音書

「選民史を踏み直しつつ超える『真のイスラエル』」 

新約聖書の冒頭のマタイによる福音書が、旧約聖書と新約聖書の接点としての「イエス・キリスト証言」であることは、意味深長です。

同一のイエスの伝記としての形をとるので、「共観福音書」とよばれるマタイ、マルコ、ルカの三福音書が新約聖書の冒頭におかれていることは、そのこと自体「それはいったい何故か」という問いをおこさせます。

「共通の材料」をもちながら、それぞれが「特殊性」をもってそこに置かれています。

過去には、それらをまとめて一つのイエスの伝記とする試作も出ました(例;『ディアテッサロン』)。
しかし、教会は、一巻においてではなく、あくまでも、複数の「キリスト証言」に固執してきたのです。

理論としては、共観福音書ばかりでなく、新約聖書27巻、それぞれが、唯一のキリストの、それぞれ異なった個性的な「キリスト証言」であることに同意しても、それでは「それぞれの意図」は一体、どこに、と問うと、共観福音書の場合ぐらい困難を覚えるものはありません。

その「共通性」を除いて、「差異性」に注目してみます。

@選民史を踏み直す成就者(マタイによる福音書1-7:27)

マタイによる福音書は、旧約聖書的な色彩が最も濃厚です。

旧約聖書的というだけではなく、選民・イスラエルへの関心が最も強いのです。

冒頭の系図が、それを表しています。

「アブラハムの子であるダビデの子、イエス・キリストの系図」と、選民の太祖アブラハムから始められていることが、人類全体の祖であるアダムにまで遡る系図を書く、ルカによる福音書と、著しい対照をなしています(ルカによる福音書3:23以下)。

この部分は、さらにこの系図の「偶然性」を否定するかのように、
「だから、アブラハムからダビデまでの代は合わせて十四代、
ダビデからバビロンへ移されるまでは十四代、
そして、バビロンへ移されてからキリストまでは十四代
である」
と、選民史とキリストとの「摂理的系統性」に注意を惹かせています(マタイによる福音書1:17)。

イスラエル・ユダヤ人が、この系図を読めば、何を語ろうとしているかは、一目瞭然で解ります。

系図以下の記述は、イエスが、選民史を全面的に引きうけ、人類のモデルとしての選民イスラエル・ユダヤの「失敗の歴史」を、それに代わって踏み直した成就者であることを立証することにしぼっています。

このイエスこそは、旧約聖書のイスラエルに代わる、「真のイスラエル」である、というのが、マタイによる福音書の意図と言えます。

その誕生については、
「おのれの民をそのもろもろの罪から救う者」
といわれ、その聖子(みこ)による救いを通して初めて、
「神われらと共にいます」(選民の存在理由)ことが具現したのです(マタイによる福音書1:21-23)。

預言者ミカを通して語られたユダの地ベツレヘムから出た王は(ミカ書5:2)、
ホセアに預言された、
「エジプトからわが子を呼び出した」
という選民の出エジプトの出来事以降の歴史のすべてを「踏み直す者」として、ヘロデを避けてその父母に伴われてエジプトに行ったとしています(ホセア11:1、マタイによる福音書2:5、2:13以下)。

【引用】
「しかしベツレヘム・エフラタよ、あなたはユダの氏族のうちで小さい者だが、イスラエルを治める者があなたのうちからわたしのために出る。
その出るのは昔から、いにしえの日からである。」(ミカ書 5:2)

「わたしはイスラエルの幼い時、これを愛した。
わたしはわが子をエジプトから呼び出した。」(ホセア書 11:1)

「彼らは王に言った、
『それはユダヤのベツレヘムです。
預言者がこうしるしています、
『ユダの地、ベツレヘムよ、おまえはユダの君たちの中で、決して最も小さいものではない。
おまえの中からひとりの君が出て、わが民イスラエルの牧者となるであろう。』」(マタイによる福音書 2:5-6)

「彼らが帰って行ったのち、見よ、主の使が夢でヨセフに現れて言った、
『立って、幼な子とその母を連れて、エジプトに逃げなさい。
そして、あなたに知らせるまで、そこにとどまっていなさい。
ヘロデが幼な子を捜し出して、殺そうとしている。』
そこで、ヨセフは立って、夜の間に幼な子とその母とを連れてエジプトへ行き、 ヘロデが死ぬまでそこにとどまっていた。
それは、主が預言者によって
『エジプトからわが子を呼び出した』
と言われたことが、成就するためである。」(マタイによる福音書 2:13-15)



洗礼者ヨハネの拒絶にも拘らず、ヨハネからあえて受洗されたイエスは、
「すべて正しいことを成就する者」(マタイによる福音書3:15)です。

そこには、罪ふかい選民イスラエルに代わって正しいことを悉く成就する者がさし示されています。

「荒野の誘惑」でも、くり返し「主を試みた」選民に代わって、「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きる」ことを身をもって証ししたイエスが描かれています(下記参照)。

【荒野の誘惑】
「さて、イエスは御霊によって荒野に導かれた。
悪魔に試みられるためである。
そして、四十日四十夜、断食をし、そののち空腹になられた。
すると試みる者がきて言った、
『もしあなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じてごらんなさい。 』
イエスは答えて言われた、
《人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである》
と書いてある。』
それから悪魔は、イエスを聖なる都に連れて行き、宮の頂上に立たせて 言った、
『もしあなたが神の子であるなら、下へ飛びおりてごらんなさい。『神はあなたのために御使たちにお命じになると、あなたの足が石に打ちつけられないように、彼らはあなたを手でささえるであろう』と書いてありますから。』
イエスは彼に言われた、
『《主なるあなたの神を試みてはならない》
とまた書いてある。』
次に悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華とを見せて 言った、
『もしあなたが、ひれ伏してわたしを拝むなら、これらのものを皆あなたにあげましょう。』
するとイエスは彼に言われた、
『サタンよ、退け。
《主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ》
と書いてある。』
そこで、悪魔はイエスを離れ去り、そして、御使たちがみもとにきて仕えた。」(マタイによる福音書 4:1-11)


イエスはこの「荒野の誘惑」において、申命記中の言葉をもって「試みる者(悪魔)」に答え、その最後を詩篇の言葉で閉じられました。

この「悪魔」の言葉は、当時のイスラエル・ユダヤ人が、読んだ限りの聖書であり、イエスの回答は、聖書の真意を明らかにしたものとなります。

「山上の垂訓」では、「ヨベルの年」(価値の大転換の成就)の告知者にふさわしく、心貧しい者のうける祝福を説くイエス(山上の垂訓は、マタイによる福音書の5〜7章に及びますので、ここでは抜粋を下記に引用します。)

【山上の垂訓】
「イエスはこの群衆を見て、山に登り、座につかれると、弟子たちがみもとに近寄ってきた。
そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて言われた。
『こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。
悲しんでいる人たちは、さいわいである、彼らは慰められるであろう。
柔和な人たちは、さいわいである、彼らは地を受けつぐであろう。
義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、彼らは飽き足りるようになるであろう。
あわれみ深い人たちは、さいわいである、彼らはあわれみを受けるであろう。
心の清い人たちは、さいわいである、彼らは神を見るであろう。
平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう。
義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。
わたしのために人々があなたがたをののしり、また迫害し、あなたがたに対し偽って様々の悪口を言う時には、あなたがたは、さいわいである。
喜び、よろこべ、天においてあなたがたの受ける報いは大きい。
あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。
あなたがたは、地の塩である。もし塩のききめがなくなったら、何によってその味が取りもどされようか。
もはや、なんの役にも立たず、ただ外に捨てられて、人々にふみつけられるだけである。
あなたがたは、世の光である。山の上にある町は隠れることができない。
また、あかりをつけて、それを枡の下におく者はいない。
むしろ燭台の上において、家の中のすべてのものを照させるのである。
そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かし、そして、人々があなたがたのよいおこないを見て、天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい。
わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。
廃するためではなく、成就するためにきたのである。
よく言っておく。
天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。
それだから、これらの最も小さいいましめの一つでも破り、またそうするように人に教えたりする者は、天国で最も小さい者と呼ばれるであろう。
しかし、これをおこないまたそう教える者は、天国で大いなる者と呼ばれるであろう。」(マタイによる福音書 5:1-19)


上記引用のように「律法や預言者を廃する者」でなく、その「成就者」であると告知します(マタイによる福音書5:17)。

律法、預言の「成就者」とは、「徹底者」のことです。

たとえば、代表的な律法である、「目には目、歯には歯」(現代社会も取り入れている「五分五分法」)の徹底は、被害の測定という難題をはらんでいます(マタイによる福音書5:38以下、出エジプト記21:24、レビ記24:20他)。

被害の測定にあたって浮かび上がるのは、被害者意識に鋭敏な反面、加害者意識にははなはだしく鈍感な人間の通性です。

「『目には目を、歯には歯を』と言われていた」
ことに対し、主が、
「しかし、わたしはあなたがたに言う。
悪人に手向かうな。
もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい。
あなたを訴えて、下着を取ろうとする者には、上着をも与えなさいーー」(マタイによる福音書5:38)
とつけ加えられたのは、何故か。

律法の徹底は、「権利意識」「特権意識」の故に、被害者意識に鋭敏で、加害者意識に鈍感な人間すべてにおける、正しい被害測定の不可能性を照らし出すのです。

正しい被害測定のもてない人間の罪性が、律法貫徹の要請(「右の頬を打たれたらほかの頬をも向ける」)によって暴露されます。

マタイによる福音書のこの部分における、
「選民の偽善」の告発も(マタイによる福音書6章)、
神との関係を無視した、人の前での自己義認に対して向けられ、律法の貫徹が、「神の国と神の義」の追求にあることとして指摘され(マタイによる福音書6:33)、
神の国と神の義を求めることが、即ち「何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりに」することであり、それこそが選民に求められた律法であり、預言者の成就であるとしています(マタイによる福音書7:12)。

A選民の枠を超える権能者(マタイによる福音書7:28-22章)

マタイによる福音書の特色の一つとして、説話と癒しのわざとが、まとめた形で前後している記述法があげられますが、律法に関する説話のすべてが、説教者の「無比な権威」を立証することを指摘しています。

「イエスがこれらの言を語り終えられると、群衆はその教にひどく驚いた。
それは律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように、教えられたからである」(マタイによる福音書7:28)
と。

この言葉を初めとして、マタイによる福音書は、あらゆる人間ひいては選民的類型(祭司・預言者・知者)や枠を超える権能者としてのイエスに焦点をしぼっていきます。

「ただ、お言葉を下さい。
そうすれば、僕はなおります」
と、イエスの排他的な権威を洞察したカペナウムの人の信仰がイエスをひどく感動させたと紹介され(マタイによる福音書8:5以下)、
風と海(自然界の支配)にまで及ぶイエスの支配圏に注目させ(マタイによる福音書8:27)、
つづいては、中風の患者に対して示された「罪を赦す」神的権威を、
「群衆はそれを見て恐れ、こんな大きな権威を人にお与えになった神をあがめた」(マタイによる福音書9:1以下)
と、異常な出来事として注目させます。

それだけでなく、イエスをとりかこむ取税人や罪人こそ、パリサイ的選民とは比較にならないほどの近さで、イエスとの結びつきがあることを指摘して、罪を赦す権威者イエスを照らし出してゆきます(マタイによる福音書9:9以下)。

「新しいぶどう酒は、新しい皮袋に入れるべきである」(マタイによる福音書9:14以下)
というイエスの指摘は、形式的な選民の枠と、権威者イエスとの隔絶性を示しています。

またイエスの権能は、民間には至難とされる悪霊をも制する力あるものであるし、十二弟子にも委譲しうるものです(マタイによる福音書10:1以下)。

その権能は、「盲人は見え」「足の不自由な人は歩き」「重い皮膚病の人はきよまり」「聴覚障害者は聞こえ」「死人は生きかえり」「貧しい人々は福音」を聞かされるという前代未聞の権威者への証しに他なりません(マタイによる福音書11:4以下、イザヤ書6:1-3、11:4他)。

【引用】
「ウジヤ王の死んだ年、わたしは主が高くあげられたみくらに座し、その衣のすそが神殿に満ちているのを見た。
その上にセラピムが立ち、おのおの六つの翼をもっていた。
その二つをもって顔をおおい、二つをもって足をおおい、二つをもって飛びかけり、 互に呼びかわして言った。
『聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の主、その栄光は全地に満つ。』」(イザヤ書 6:1-3)

「正義をもって貧しい者をさばき、公平をもって国のうちの柔和な者のために定めをなし、その口のむちをもって国を撃ち、そのくちびるの息をもって悪しき者を殺す。」(イザヤ書 11:4)


この権能者イエスが、選民史を踏み直しつつ、これを超えるものであるということが、
「宮よりも大いなる者」(祭司的類型、マタイによる福音書12:6)、
「ヨナに勝る者」(預言者的類型、マタイによる福音書12:41)、
「ソロモンにまさる者」(知者的類型、マタイによる福音書12:42)
という対比で描出されています。

旧約聖書の啓示は、この三つの思潮的類型を、その管として与えられたのですが(エレミヤ書18:18)、イエスによる選民の枠の破壊は、それへ固執するパリサイ人たちの、イエスに対す殺意を激化させ始めました(マタイによる福音書12:14、12:24以下)。

【引用】
「祭司には律法があり、知恵ある者には計りごとがあり、預言者には言葉があって、これらのものが滅びてしまうことはない。」(エレミヤ書 18:18)


その殺意の底にあるものは、
「聖霊を汚す」性格のものとして暴露されていますし(マタイによる福音書12:31以下)、
「自分たちの言伝えによって、神の言を無にする」(マタイによる福音書15:6)
自己正当化、自己絶対化ひいては自己神格化に通ずる罪として指摘されています。

選民の枠に、選民としての慣習に固執することは、パリサイ人たちの「前提」と「偏見」に基づく醜悪きわまる狭さ・低さ・浅さを示すだけではなく、歴史に生きる者に不可欠な、「時のしるし」に対する鈍感さを暴露しています。

「バプテスマのヨハネの時から今に至るまで、天国は激しく襲われている。そして激しく襲う者たちがそれを奪い取っている」(マタイによる福音書11:12)。

これが新しい時への転入だという。

それなのに、パリサイ人とサイドカイ人、すなわち時代の指導者には、指導者に最も肝腎な時の推移を見分ける能力が欠落してしまっていたのです。

「あなたがたは空の模様を見分けることを知りながら、時のしるしを見分けることができないのか」(マタイによる福音書16:3)
とは、イエスからの痛烈な皮肉です。

それと反対に、激しく襲う者が、奪い取っている時の証しとして、
「わたし(イエス)は、イスラエルの家の失われた羊以外の者には、つかわされていない」
という、イエスのわざと選民の優先性をほのめかした宣言さえ、異邦の女によって、見破られたことをしるしています。

「主よ、お言葉どおりです。
でも、小犬もその主人の食卓から落ちるパンくずは、いただきます」(マタイによる福音書15:21以下)
というこの異邦の女の応酬はイエスを驚嘆させました。

この選民の枠を超えた権能者とはいったい何者なのか、という問いを周囲に触発しつつ、マタイによる福音書は、それに対する答えを、ペテロの告白として語らせています。

「あなたこそ、生ける神の子キリストです」(マタイによる福音書16:13以下)と。

しかし、その告白は、十字架のキリストの理解には至っていないことも明示されています(マタイによる福音書16:22以下)。

「あなたがたは、自分が何を求めているのか、わかっていない。
わたしの飲もうとしている杯を飲むことができるか」(マタイによる福音書20:22)
というイエスからその弟子たちへの問いもそれを示しています。

イエスの無比な権能が、ユダヤ人の最大の躓きであったことは、祭司長や長老たちの詰問に、くり返し明示されています(マタイによる福音書21:23以下)。

「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい」(マタイによる福音書22:21-22)
という、驚嘆に価するイエスの言葉にも、権威の所在が、「次元的峻別」を条件とすることが指摘されています。

この部分の終わりには、ダビデ王との「次元的対照」において、イエスの神的権威が宣言され、理論的にはもう反論の余地がなくなったことが示唆されています。

「『このように、ダビデ自身が、キリストを主と呼んでいるなら、キリストはどうしてダビデの子であろうか。』
イエスにひと言でも答えうる者は、なかったし、その日からもはや、進んでイエスに質問する者も、いなくなった」(マタイによる福音書22:41以下)
のです。

B選民の不義の代償として屠られた小羊(マタイによる福音書23-28章)

「真のイスラエル」としてのイエスの来臨は、失格したイスラエルの歴史が、血によって汚されたものであることを暴露する出来事でした。

その血ぬられた歴史についての、
「こうして義人アベルの血から、聖所と祭壇との間であなたがた(ユダヤ人)が殺したバラキヤの子ザカリヤの血に至るまで、地上に流された義人の血の報いが、ことごとくあなたがたに及ぶであろう。
よく言っておく。
これらのことの報いは、みな今の時代に及ぶであろう。
ああ、エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、おまえにつかわされた人たちを石で打ち殺す者よ。
ちょうど、めんどりが翼の下にそのひなを集めるように、わたしはおまえの子らを幾たび集めようとしたことであろう。
それだのに、おまえたちは応じようとしなかった。
ーー『主の御名によってきたる者に祝福あれ』
とおまえたちが言う時までは、今後ふたたび、わたしに会うことはないであろう」(マタイによる福音書23:29以下)
というイエスの言葉には、選民史の始点から極点までが、義人の血を流した罪の歴史として、十字架につけられるイエスにおいてそれが、頂点的に窮まるものであることが示唆されています。

十字架にかけられて葬られる主は、甦って、再び、審判者として栄光のうちに再臨します(マタイによる福音書25:31以下)。

だが、過越の祭を機して、「人の子は十字架につけられるために引き渡される」(マタイによる福音書26:2)。

イエスの血は、「過越の小羊の血」として流される。
それは、罪なき神の子キリストの血として、
「罪のゆるしを得させるようにと、多くの人のために流すわたし(主)の契約の血」(マタイによる福音書26:1、26:26以下参照)
と言われています。

【引用】
「一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福してこれをさき、弟子たちに与えて言われた、
『取って食べよ、これはわたしのからだである。』
また杯を取り、感謝して彼らに与えて言われた、
『みな、この杯から飲め。
これは、罪のゆるしを得させるようにと、多くの人のために流すわたしの契約の血である。
あなたがたに言っておく。
わたしの父の国であなたがたと共に、新しく飲むその日までは、わたしは今後決して、ぶどうの実から造ったものを飲むことをしない。』」(マタイによる福音書 26:26-29)


罪なきイエスの血こそは、
「その血はあなたがたのおる家々で、あなたがたのために、しるしとなり、わたし(主)はその血を見て、あなたがたの所を過ぎ越すであろう」(出エジプト記12:13)
と約束された、選民の恵みによる救出を予表した言葉の成就だからです。

過越の小羊として十字架に、選民の代償として屠られたイエスは、選民史をその血をもってあがない、踏み直し、かつ超えるものですから、
「わたし(主)は、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた」
と言われているように、万民の主ですから、
「すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ」(マタイによる福音書28:18-20)
と語る主です。


posted by 道川勇雄 at 15:22| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする


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