2019年07月21日

マルコによる福音書

マルコによる福音書


「擬装的権威の偽善を暴露する権能者イエス」 


啓示は、必ず何かを媒介としてなされます。


福音は律法を(否定)媒介として、初めてあきらかにされます。


福音書のそれぞれの意図も、何が媒介となっているかを見分ける作業です。


マタイによる福音書が、「選民の枠」を否定媒介として、イエスを、それを踏み直しつつ超える者として証ししたのに対し、マルコによる福音書は、あらゆる「擬装的権威」を媒介とし、これを暴露する権能者イエスをさし示しています。


マタイによる福音書は、「客観的」「証明的」ですが、マルコによる福音書の特色として鮮烈な、「直ちに」という描写の反復は、否定しがたい権能の迫力ある力動性を示しています。


それは、抑圧されればされるほど逆比例的に発現します。


@受容か抵抗かの二者択一を迫る権能者(マルコによる福音書1-11章)


マタイによる福音書やルカによる福音書のように、イエスの系図や誕生物語などを記さずに、端的に「神の子イエス・キリストの福音のはじめ」と打ち出すマルコによる福音書には、否定しがたい切迫感があります。


その福音は、

「時は満ちた、神の国は近づいた。

悔い改めて福音を信ぜよ」(マルコによる福音書1:5)

を内容としています。


悔い改めの必要のない宗教をこそ、人は求めるのであって、悔い改めを条件とする福音など、真っ平ごめん、というのが、人の世のつねです。


自分は現状を維持しつつ、他者に思い直してもらいたい、という我執がエスカレートすると、やがて、その他者を消そうとします。


イエスは、福音を説いたから、十字架につけられたのではなく、「悔い改めを条件とする福音」を説いたためでした。


人はすべて、福音は歓迎しても、180度の方向転換を迫る福音の条件は、拒絶するのがつねだからです。


マルコによる福音書は、教説に重点をおくマタイによる福音書とは違って、無比な権能者イエスそのものが、受容か抵抗かの二者択一を迫りつづける福音そのものであった、がその意図です。


イエスの招きに、

「すぐ網を捨てて」従った弟子たち、

イエスを「キリスト」として告白した者たち(マルコによる福音書8:27以下他)、

イエスにふれられると直ちに癒された病人たちの「受容」の異常な敏速さに言及しつつ、それとの対照において、抵抗者たちのうちに隠された複雑かつ隠微な動機を分析していきます。


福音の担い手イエスをいたくいぶからせたのは、他でもない、不信仰の証しとしての抵抗のしぶとさでした。


「そこでは力あるわざを一つもすることができず、ただ少数の病人に手をおいていやされただけであった。

そして、彼らの不信仰を驚き怪しまれた」(マルコによる福音書6:5)

と指摘し、弟子たちに対してさえ、

「まだわからないのか、悟らないのか。

あなたがたの心は鈍くなっているのか。

目があっても見えないのか、耳があっても聞えないのか。

また思い出さないのか」(マルコによる福音書3:1-6、下記参照)

と言いわれた主の言葉をしるすことで、見ても、聞いても悟らない人間の内なる抵抗のしぶとさを力説しています。


その抵抗はいぶかりを越えてイエスを憤らせました。


【引用】

「イエスがまた会堂にはいられると、そこに片手のなえた人がいた。

人々はイエスを訴えようと思って、安息日にその人をいやされるかどうかをうかがっていた。

すると、イエスは片手のなえたその人に、

『立って、中へ出てきなさい』

と言い、 人々にむかって、

『安息日に善を行うのと悪を行うのと、命を救うのと殺すのと、どちらがよいか』

と言われた。

彼らは黙っていた。

イエスは怒りを含んで彼らを見まわし、その心のかたくななのを嘆いて、その人に、

『手を伸ばしなさい』

と言われた。

そこで手を伸ばすと、その手は元どおりになった。

パリサイ人たちは出て行って、すぐにヘロデ党の者たちと、なんとかしてイエスを殺そうと相談しはじめた。」(マルコによる福音書 3:1-6)


イエスは、抵抗者のうちに隠された動機のいやしさを見抜かれたのです。


権能者イエスの顕現は、見ても悟れない性格のものではありませんでした。


イエスの権能を「悪鬼ベルゼブル」によるものとして非難した抵抗者において、イエスは「認めつつなお拒み通す」欺瞞を察知したのです。


「認めつつ拒み通す」ところに、イエスは、「聖霊をけがす罪」を見出されました(マルコによる福音書3:20以下、特に29-30)。


【引用】

「群衆がまた集まってきたので、一同は食事をする暇もないほどであった。

身内の者たちはこの事を聞いて、イエスを取押えに出てきた。

気が狂ったと思ったからである。

また、エルサレムから下ってきた律法学者たちも、

『彼はベルゼブルにとりつかれている』

と言い、

『悪霊どものかしらによって、悪霊どもを追い出しているのだ』

とも言った。

そこでイエスは彼らを呼び寄せ、譬をもって言われた、

『どうして、サタンがサタンを追い出すことができようか。

もし国が内部で分れ争うなら、その国は立ち行かない。

また、もし家が内わで分れ争うなら、その家は立ち行かないであろう。

もしサタンが内部で対立し分争するなら、彼は立ち行けず、滅んでしまう。

だれでも、まず強い人を縛りあげなければ、その人の家に押し入って家財を奪い取ることはできない。

縛ってからはじめて、その家を略奪することができる。

よく言い聞かせておくが、人の子らには、その犯すすべての罪も神をけがす言葉も、ゆるされる。

しかし、聖霊をけがす者は、いつまでもゆるされず、永遠の罪に定められる。』

そう言われたのは、彼らが、

『イエスはけがれた霊につかれている』

と言っていたからである。」(マルコによる福音書 3:20-30)


つづいて、パリサイ人の偽善についても、その動機において、それが聖霊をけがす罪であることを匂わす記事をあげています。


「イエスは言われた、

『イザヤは、あなたがた偽善者について、こう書いているが、それは適切な預言である、

《この民は、口さきでわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。

人間のいましめを教として教え、無意味にわたしを拝んでいる》

あなたがたは、神のいましめをさしおいて、人間の言伝えを固執している。』

また、言われた、

『あなたがたは、自分たちの言伝えを守るために、よくも神のいましめを捨てたものだ。

ーーあなたがたは、自分たちが受けついだ言伝えによって、神の言を無にしている。

また、このような事をしばしばおこなっている』」(マルコによる福音書7:6以下)と。


「固執」は、拒み通す性癖としての罪です。


聖霊を汚す罪が、「認めつつ拒み通す」という内なる拒絶をさしていることを、力説するのが、この部分の終わりの記事です。


それは、祭司長、律法学者、長老たちとイエスとの論争において集約されています。


選民の中でも、最高の指導者をもって自認するのが彼らであり、彼らにおいて、「光に触れつつ、光を拒みつづける罪」が照らし出されることにならざるをえないのです。


それは、彼らからイエスに向けられた、

「何の権威によって、これらの事をするのですか。

だれが、そうする権威を授けたのですか」(マルコによる福音書11:27以下)

という詰問をめぐって展開しています。


それに対し、イエスは彼らの虚偽を見抜いて、逆に問いかけます。


そして彼らは、その詰問にかくされていた動機を見抜かれたと気づくと、その不利をさとり、

「わたしたちにはわかりません」

と、その場を逃げたのです。


「わたし(イエス)も何の権威によってこれらの事をするのか、あなたがたに言うまい」

というイエスの言葉によって、イエスを陥れようとする彼ら指導者たちの隠された動機に鋭いメスが突きさされたことがわかります。


それは、他でもない、イエスの神的権威を認めつつ、なお拒みつづけようとする意図がそこに照らし出されたからです。


A擬装的権威の偽善の暴露者(マルコによる福音書12-16章)


イエスの言葉じりを捕えようとして送られたパリサイ人やヘロデ党の数人は、イエスによってその偽善を見抜かれ(マルコによる福音書12:13-15以下)、

「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい」と答えたイエスにかえって度肝を抜かれ、驚嘆させられました(マルコによる福音12:17)。


サドカイ人(宗教指導者)も、イエスによって、

「あなたがたは非常な思い違いをしている」

という非難をうけ、律法学者についても、

「長い衣を着て歩くことや、広場であいさつされることや、また会堂の上席、宴会の上席を好んでいる。

またやもめたちの家を食い倒し、見えのために長い祈をする」(マルコによる福音書12:27以下、12:37以下)

卑しい偽善が見すかされています。


しかし擬装的権威者によって恐れられる権能者イエスの弟子たちにとり、彼らからの迫害は免れられません。


「あなたがた(弟子たち)は、わたし(主)のために、衆議所に引きわたされ、会堂で打たれ、長官たちや王たちの前に立たされ、彼らに対してあかしをさせられるであろう」(マルコによる福音書13:9以下)

と言われている通りです。


しかしそれは、福音のためにそれは不可避的な出来事だという。

「こうして、福音はまずすべての民に宣べ伝えられねばならない」(マルコによる福音書13:10)

からです。


だが、それは恐れるに足りない。

聖霊みずからが証言を通して語るからです。


「兄弟は兄弟を、父は子を殺すために渡し、子は両親に逆らって立ち、彼らを殺させるであろう。

またあなたがたはわたし(主イエス)の名のゆえに、すべての人に憎まれるであろう。

しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる」

と約束されています。


その迫害の時は来ています。


「荒らす憎むべきものが、立ってはならぬ所」(即ち聖所)に立っているからです(マルコによる福音書13:14、下記ダニエル書9:27、11:31、12:11他)。


しかし、この聖所に立つ「荒らす憎むべきもの」が擬装的権威にしか過ぎないことを見抜かせられているイエスの弟子は、恐れる必要がないばかりか、それにおいて、自分を清め、白くし、練る時として変容できるはずだと言います。


「こうしてついに、その定まった終りが、その荒す者の上に注がれる」(ダニエル書9:27)


「彼から軍勢が起って、神殿と城郭を汚し、常供の燔祭を取り除き、荒す憎むべきものを立てるでしょう。」(ダニエル書 11:31)


「常供の燔祭が取り除かれ、荒す憎むべきものが立てられる時から、千二百九十日が定められている。」(ダニエル書 12:11)

などからです。


擬装的権威者である、祭司長、律法学者、長老たちから送られた群衆は、イエス捕縛の時、剣と棒で身を装っていましたが、

「あなたがたは強盗にむかうように、剣や棒を持ってわたし(イエス)を捕えにきたのか。

わたしは毎日あなたがたと一緒に宮にいて教えていたのに、わたしをつかまえはしなかった。

しかし、聖書の言葉は成就されねばならない」(マルコによる福音書14:48以下)

と答えたイエスにおいて、祭司長たちがイエスをローマ官権に渡したのはねたみのためでしかなかったことを力説することによって、マルコによる福音書は、この権能者こそ、

「力ある者の右に座し、天の雲に乗って再臨するキリスト」(マルコによる福音書14:62)

であることを証ししています。


【参考】

イエスの宣教の始め、「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」とその宣教の全体を総括的に宣言されました。この宣言にイエスの宣教の内容が現わされています。イエスのこの「神の国」の内容には非常に多くの側面があります。少なくともそこには、経済的、社会的、政治的および精神的の面が顕著にみられます。





posted by 道川勇雄 at 15:26| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする


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