2019年07月21日

ルカによる福音書

ルカによる福音書


「『ヨベルの年』の具現者・十字架のキリスト」 


マタイによる福音書が選民の枠を満たしつつ、それを超えるキリストを浮かび上がらすのに対して、ルカによる福音書は、選民史の目標に焦点をしぼり、それが、「万民の祝福」(平和共存共栄)のためであったことを力説します。


ルカによる福音書が、イエスを「異邦人を照らす啓示の光」(ルカによる福音書2:32)とする特色は、マタイによる福音書の「おのれの民(選民)を罪から救う者」としてのイエスへの焦点のしぼり方と正反対です。


旧約聖書によると、万民の祝福とは、「万民の父なる神の支配の宇宙的徹底」(創世記12:1-3、「神の『根源約束』」)を条件とするものとして志向されていました。


【参考】



したがって、マルコによる福音書が、イエスの地上での宣教の第一声を、

「神の国は近づいた。

悔い改めて福音を信ぜよ」(マルコによる福音書1:15)

という言葉にしぼった時の、この「神の国」も、選民を越えて、万民を包む神の祝福の具現をさすものでした。


ここに意味されている「神の国」は、現代的な表現にすると、「神の支配の徹底の結果としての『万民平和共存』」ということになります。


この視点に立ってみると、旧約聖書は選民の枠を踏まえているとはいえ、「選び主」の教育方針としては、「社会的平和共存の条件」の徹底が目ざされています。


その代表的実例としてあげられるのは、モーセによる荒野での「マナの分配」のし方であり、「ヨベルの年」の規定です(出エジプト記16章、レビ記25:11-13、25:28、25:54、27:24、民数記36:4等)。


「ヨベルの年」の規定とは、「社会的平和共存の根本条件」にふれるものですが、その実際的適用が、その都度の歴史的、社会的制度に即したものであったことは当然です。


その根本原理からいうと、「全体の祝福」であり、そのため絶対不可欠な条件としての「より強い者が、より弱い者の弱さを負う」社会的配慮です。


結論的にいうと、この規定は、「自己中心的権利意識の強い人間」には耐えられません。


イスラエルも、その例外ではなく、「ヨベルの年」の意味した五十年目毎の「無条件の人間(奴隷)解放・土地返還」の規定は、ほとんど実現されませんでした。


それは何故か。 

「罪」の故です。


その罪をあがなった「十字架のキリスト」において、初めて「ヨベルの年」の規定の成就があります。


これがルカによる福音書が意図するキリスト証言です。


@「神の国キリスト」における「ヨベルの年」の時熟(ルカによる福音書1章-7:35)


「この聖句は、あなたがたが耳にしたこの日に成就した」

とイエスの自己紹介のために引用されているその聖句とは、「ヨベルの年」に関するものです。


レビ記で命じた、社会制度としての「ヨベルの年」を、メシヤ的「人格」的に再解釈したイザヤ書からの引用です(イザヤ書42:6以下、61:1-3、29:18以下等)。


【引用】

「『主なるわたしは正義をもってあなたを召した。

わたしはあなたの手をとり、あなたを守った。

わたしはあなたを民の契約とし、もろもろの国びとの光として与え、 盲人の目を開き、囚人を地下の獄屋から出し、暗きに座する者を獄屋から出させる。

わたしは主である、これがわたしの名である。

わたしはわが栄光をほかの者に与えない。

また、わが誉を刻んだ像に与えない。

見よ、さきに預言した事は起った。

わたしは新しい事を告げよう。

その事がまだ起らない前に、わたしはまず、あなたがたに知らせよう。」(イザヤ書 42:6-9)


「主なる神の霊がわたしに臨んだ。

これは主がわたしに油を注いで、貧しい者に福音を宣べ伝えることをゆだね、わたしをつかわして心のいためる者をいやし、捕われ人に放免を告げ、縛られている者に解放を告げ、 主の恵みの年(「ヨベルの年」)とわれわれの神の報復の日(「再臨」)とを告げさせ、また、すべての悲しむ者を慰め、 シオンの中の悲しむ者に喜びを与え、灰にかえて冠を与え、悲しみにかえて喜びの油を与え、憂いの心にかえて、さんびの衣を与えさせるためである。

こうして、彼らは義のかしの木ととなえられ、主がその栄光をあらわすために植えられた者ととなえられる。」(イザヤ書 61:1-3)


「その日、耳しいは書物の言葉を聞き、目しいの目はその暗やみから、見ることができる。

柔和な者は主によって新たなる喜びを得、人のなかの貧しい者はイスラエルの聖者によって楽しみを得る。

あらぶる者は絶え、あざける者はうせ、悪を行おうと、おりをうかがう者は、ことごとく断ち滅ぼされるからである。」(イザヤ書 29:18-20)


イエスのナザレの会堂での、安息日の公の自己紹介の情況が次のようにのべられています。


「預言者イザヤの書が手渡されたので、その書を開いて、こう書いてある所を出された、

『主の御霊がわたしに宿っている。

貧しい人々に福音を宣べ伝えさせるために、わたしを聖別してくださったからである。

主はわたしをつかわして、囚人が解放され、盲人の目が開かれることを告げ知らせ、打ちひしがれている者に自由を得させ、主のめぐみの年(「ヨベルの年」)を告げ知らせるのである』」。


イエスは、会堂全体の目をひきつけながら、前記のように「この聖句は、あなたがたが耳にしたこの日に成就した」と説きはじめられました(ルカによる福音書4:16以下)。


彼こそ「神の国キリスト」なのです。


「ヨベルの年」は負債者にとっては、「主のめぐみの年」と言われているように、「無条件の釈放」の年であり、無条件の祝福の年ですから、その年の具現者であるイエスの誕生は、天来の喜びにあふれたものとして記述されています(ルカによる福音書1-2章)。


とりわけ、マリヤの讃歌が「富むものは失い、貧しいものが祝福される」ヨベルの年の革命的価値転換をその内容としています(ルカによる福音書1:45以下)。


「主はみ腕をもって力をふるい、心の思いのおごり高ぶる者を追い散らし、権力ある者を王座から引きおろし、卑しい者を引き上げ、飢えている者を良いもので飽かせ、富んでいる者を空腹のまま帰らせなさいます」とあるとおりです。


貧しい者、負債のある者にとっては、祝福と自由と解放を意味する「ヨベルの年」は、反対に、富める者にとっては、歓迎できない時の到来です。


それは、自らを高くする者が低くされ、へりくだる者が高くされる時であり、したがって、人間の内なる隠れた思いが、照らし出される時です。


幼な子イエスを祝福したシメオンの言葉は、すでに、その意味で、イエスの十字架を暗示しています。


「ごらんなさい、この幼な子は、イスラエルの多くの人を倒れさせたり、立ちあがらせたりするために、また反対を受けるしるしとして、定められています。

ーーそして、あなた自身もつるぎで胸を刺し貫かれるでしょう。

ーーそれは多くの人の心にある思いが、現れるようになるためです」(ルカによる福音書2:33以下)。


「神の国キリスト」という表象は、もちろんルカによる福音書全体に支えられるものですが(とりわけルカによる福音書17:20-21に注意)、「神の国キリスト」との関わりは、もはや、人種によっても、階級によっても区別されず、心低くへりくだるか、心高ぶるかによって決定されます。


主の前には、

「すべての谷は埋められ、すべての山と丘とは、平らにされ」る途しかない(ルカによる福音書3:5)。

「自分たちの父にはアブラハムがあるなどと、心の中で思ってもみるなーー、

神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子を起すことができる」(ルカによる福音書3:7以下)

のだからです。


「対神的高ぶりを除かれる人類総決算の日」を語らせられたのはゼパニヤでした。


だが、選民の慣れ親しんできた、選民中心的価値判断を破られることは、選民としては致命的なのです。


イエスが、それに逆行して、旧約聖書の中の「異邦人志向」を指摘したことも、イエスを十字架に追いやることになったのです。


「会堂にいた者たちはこれを聞いて、みな憤りに満ち、立ち上がってイエスを町の外へ追い出し、その町が建っている丘のがけまでひっぱって行って、突き落とそうとした」(ルカによる福音書4:28以下)

という描写をしています。


取税人や罪人と親しく交わるイエスに対してつぶやかざるをえなかったのは、時の宗教指導者である、パリサイ人やその律法学者たちでした(ルカによる福音書5:30)。


「ヨベルの年」の具現者としての「神の国キリスト」なればこそ、イエスの山上の説教も、

「あなたがた貧しい人たちは、さいわいだ。

神の国はあなたがたのものである」(ルカによる福音書6:20以下)

という呼びかけで始められているのです。


マタイによる福音書では「こころの貧しい人たち」という方がよりふさわしいとしても〜〜(マタイによる福音書5:3)。


またマタイによる福音書のそれとちがって、ルカによる福音書における説教では、貧しい者たちに与えられる祝福と逆比例的に、富める者たちに対する呪詛の言葉がきわ立っています(ルカによる福音書6:24以下)。


「だから今の時代の人々を何に比べようか」という言葉をもって始められた(この項の終わりをなすと思える)イエスの失望は、選民の召命の始点であり極点である、(「ヨベルの年」の具現者としての)「神の国キリスト」の到来の時熟に対する鈍感さに対して向けられたのです(ルカによる福音書7:32以下)。


A神の国キリストの触発する負債感(ルカによる福音書7:36-20章)


この部分の、イエスのみ足に香油を注いだ女の記事と共に、「ヨベルの年」の規定の中に潜在的に語られていたものが、より顕在的に追求されていきます。


「ヨベルの年」の意味する「貧しい者」の祝福は、実は負債者のそれですが、この辺からはより明確に、「罪こそは負債」であることが指摘され始めるからです。


罪が「負債」である時、それはもはや特定の人間に限られたことではなくなります。


万人が、罪人としては、例外なく「負債者」として、ヨベルの告知者、無条件的解放者(罪の赦し主)と無関係ではいられなくなるからです。


罪の女とみられている一人が、高価な香油をイエスのみ足に塗ったことを、わきで見ながら非難したパリサイ人に対し、イエスは、「金貸しの譬え」を語られました(ルカによる福音書7:41以下)。


そこで、指摘されているのは、「ヨベルの年」の法則です。


「ヨベルの年」に受ける祝福は、それぞれの人間の「負債感」に正比例しているということです。


「少しだけゆるされた者は、少しだけしか愛さない」とは、負債感の少ないものは、それに比例して、祝福も少ないから、感謝も少ないということです(ルカによる福音書7:47)。


「負債」とは「罪の負債」であることがここに明示されています。


負債感は、「より多く与えられている者は、より多くを求められる」というその意味をも開示されてます。


イエスの弟子たちは、「神の国の奥義を知ることを許されている者」としては、すでに「より多く与えられている者」です(ルカによる福音書8:9)。


「だから、どう聞くかに注意する」ように警告されています(ルカによる福音書8:18)。


ある時には彼らはイエスから、

「あなたがたが見ていることを見る目は、さいわいである。

あなたがたに言っておく。

多くの預言者や王たちも、あなたがたの見ていることを見ようとしたが、見ることができず、あなたがたの聞いていることを聞こうとしたが、聞けなかったのである」(ルカによる福音書10:23以下)

とさえ言われています。


またルカによる福音書の特有記事である、「よきサマリヤ人の譬え」は、「ヨベルの年」の規定(「より強い者が、より弱い者の弱さを負う」こと)の実践者は、選民を誇りとする祭司、レビ人たちではなく、弱い者の隣人となった、異邦のサマリヤ人であったことを指摘しています(ルカによる福音書10:25以下)。


これとの関連で、マルタとマリヤの家庭で、イエスを迎えた時のエピソードがしるされています。


何がよい行為か、ということも、「時にかなった」ものとしてはじめて意味をもつ、ということです。


「この時代は邪悪な時代である」という言葉をもって始められるイエスの時代批判は、より多く与えられた者、より多く光を与えられた時代は、より多くを求められる、ということの力説です。


そこでは、「ソロモンより」、「ヨナより」勝るイエスが啓示されている時代としての今と、かの昔のニネベの時代との比較が、より多く与えられた者の負債感を喚起します(ルカによる福音書11:29以下)。


より多く与えられたことを自覚しない者の在り方は、加害者的在り方だという指摘です。


「だから、あなたがたは、自分の先祖のしわざに同意する証人なのだ。

先祖が彼らを殺し、あなたがたがその碑を建てるのだから。

ーーそうだ、あなたがたに言っておく、この時代がその責任を問われるであろう。

あなたがた律法学者は、わざわいである。

知識のかぎを取りあげて、自分がはいらないばかりか、はいろうとする人たちを妨げてきた」(ルカによる福音書11:42以下)

と指導者の、加害者としての罪の致命性が指摘されています。


つづいて披露される「神の国の説教」も、

「知らずに打たれるようなことをした者は、打たれ方が少ないだろう。

多く与えられた者からは多く求められ、多く任せられた者からは更に多く要求される」

といわれ、あくまでもそこには、「能力の不平等な人間社会における平和共存」のために、不可欠な、「より強い者がより弱い者の弱さを負う」負債感が根本条件として力説されています(ルカによる福音書12:41以下)。


ルカによる福音書の特有記事としてあげられる「放蕩息子の譬え」も、その罪の負債感の故に案外、兄より弟の方が、父の心により近いことを示しています(ルカによる福音書15章)。


それに先立っておかれた「一匹の失せた羊の譬え」の解説が、

「それと同じように、罪人がひとりでも悔い改めるなら、悔改めを必要としない九十九人の正しい人のためにもまさる大きいよろこびが、天にあるであろう」(ルカによる福音書15:7)

と言われていることによって、そのような解釈へ方向づけられるからです。


ルカによる福音書の、

「神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」

という固有な指摘も、ルカによる福音書全体の主張に照らす時、地上のイエスその者が、「ヨベルの年」の成就者として「神の国」であることを力説するものとして解され、そこに、イエスは端的に、そして救拯史的スケールにおいて、「神の国キリスト」として証しされているといえます(ルカによる福音書17:20以下)。


なお注意されることは、ルカによる福音書が、「神の国キリスト」に焦点をあてる時に示している終末感的洞察の鋭さです。


いよいよ十字架の近さを知り、エルサレムに入ろうとしたイエスの言葉は、

「もしおまえも、この日に、平和をもたらす道を知ってさえいたらーーしかし、それは今おまえの目に隠されている」(ルカによる福音書19:42)

ということでした。


この言葉は、すでにルカによる福音書がイエスの十字架の予告をした時に出てきた解説に対応しています。


「しかし、彼ら(弟子たち)はなんのことかわからなかった。

それが彼らに隠されていて、悟ることができなかったのである」、

「弟子たちには、これらのことが何一つわからなかった。

この言葉が彼らに隠されていたので、イエスの言われたことが理解できなかった」

とくり返されています(ルカによる福音書9:45、18:34)。


ルカによる福音書の結びには、その隠されていた「十字架の奥義」の開示は、教会の創設者としての聖霊降臨にまたねばならないことが示唆されています。


そこにルカによる福音書の救拯史的、神学的洞察の深い意図が見出されます。


B神の国キリストの十字架による過越(ルカによる福音書21-24章)


イエスの十字架の死と、復活と昇天は、すでに定められていた運命でした。


それは、エマオ途上、復活のイエスが弟子らに語られた言葉を通して示されています。

「ああ、愚かで心のにぶいため、預言者たちが説いたすべての事を信じられない者たちよ。

キリストは必ず、これらの苦難を受けて、その栄光に入るはずではなかったのか」(ルカによる福音書24:13以下、24:26-27、24:44以下)

と。


イエスが十字架につけられる時は、まさに「やみの支配の時」です(ルカによる福音書22:53)。


しかも、そのやみの深さは、イエスに最も近い者がイエスを裏切る時のそれです。


「祭司長たちと律法学者たちとは立って、激しい語調でイエスを訴えた。

またヘロデはその兵卒どもと一緒になって、イエスを侮辱したり嘲弄したりしたあげく、はなやかな着物を着せてピラトへ送りかえした」(ルカによる福音書23:10以下)。


ピラトはイエスを無罪と認めつつも、群衆の声に負け、

「彼らの要求に応じて」殺人犯をゆるしてやり、

「イエスの方は彼らに引き渡して、その意のままにまかせた」

と言われています(ルカによる福音書23:13以下)。


だがこれらに勝って悲劇的なことは、イエスの直弟子たちの勢力争いのすさまじさです。


それは、日常の弟子たちの在り方を暴露するものでしょうが、その師イエスが、過越の小羊として、屠られようとしているその最後の席でさえ、それがくり返されていました。


「それから、自分たちの中でだれがいちばん偉いだろうかと言って、争論が彼らの間に、起った」(ルカによる福音書22:23-24)

としるされています。


ついで、イエスに向かって、日頃、その献身を誇っていた長老格の弟子ペテロの裏切りの出来事。


これらの列挙は何を意味するでしょうか。


結局、イエスを十字架にかけた加害者としての責任を免れうるものは一人もない、ということになります。


しかし罪の代償者である十字架のイエスは、それにも拘らず、万民の過越の小羊として、「罪のゆるしを得させる悔改め」を与える救い主です(ルカによる福音書24:45以下)。


このように、ルカによる福音書は、平和共存に対しても、

「十字架なきキリスト」、

「十字架の訴える悔い改めのない『神の国』」、

「十字架ぬきの万民平和共存の幻想性」

を暴露しつつ、「ヨベルの年」具現者としての十字架のキリストをさし示しています。



posted by 道川勇雄 at 15:28| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする


< ▲トップページへ戻る >
ツイッター始めました。お気軽にフォロー・コメントどうぞ。(Twitter)