2019年07月21日

ヨハネによる福音書

ヨハネによる福音書

「『神の小羊』として受肉したロゴス・キリストの栄光」

共観福音書の中に入れられても不思議ではないヨハネによる福音書が、「第四福音書」として、マタイ、マルコ、ルカによる福音書の「共観福音書」から区別されているのは何故か。

それは主として、「共観福音書」が、地上を歩まれた「ナザレのイエスは、神の子であった」という記述をしているのに対して、ヨハネによる福音書は、先在の「ロゴスが受肉してナザレのイエスとなった」という記述法を貫いていることが、その理由の一つにあげられます。

「共観福音書」は、「下から上へ」であるのに対し、「第四福音書」は「上から下へ」の記述の方向を貫いています。

これは、記述法についての比較以上のものではありません。
聖書は、66冊の個性的な証言を通して、「上から下へ」(神御自身から)の啓示を語るからです。

「共観福音書」が、「下から上へ」の啓示を主張しているのは、記述法に限ってのことです。

キリスト教の啓示が、上からの、「神の啓示」に基づくものでなく、やはり、それは「人間の自己投影」にすぎないもの、したがって、「下から上へ」の宗教であり、聖書もまた「幻想の体系」だというのが、外界からの挑戦です。

そのような挑戦に対するヨハネによる福音書のメスさばきの鋭さは否定できません。

見えないものが、見えるものとして「形をとる」こととしての「化身の思想」は、東洋にも珍らしくありません。

ふつう化身の目的は「束縛するものからの解放」としての人間救済におかれていますが、ヨハネによる福音書は、「罪のあがない」を成就する、十字架のキリストを証しすることで、(罪からの解放によらない)人間解放の「幻想性」を暴露しています。

@「神の小羊」としての受肉者の証言(ヨハネによる福音書1-7章)

聖書の証しするイエスは、全体として「真の神にして・真の人」です。

その証言の驚くべき「逆理」(一般に受け入れられている判断に反する結果を導くものでありながら、それを反論する論拠が見つからないような論。特に、二律背反。)を読んで、躓かない人はいません。

ヨハネによる福音書は、そのような逆理を、逆理でないかのように、水増して提供しようとはせずに、淡々として筆を進めています。

このイエスは、神の独り子としての「栄光」にみちていた、それを「目撃者として証ししている」のです。

その証しを受け入れるか、受け入れないかは、人それぞれの決断です。

ただし、それを「見た者」「聞いた者」としては、証しせざるをえない「栄光」の発現だ、というのです。

ヨハネによる福音書の序文(ヨハネによる福音書1:1-18)は、それを、
「そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。
わたしたちはその栄光を見た」(ヨハネによる福音書1:14)
という言葉で要約しています。

その「言葉」とは、「神」でありつつ、「神の語りかけ」です。

神と等しくありつつ、神ではない他者への語りかけという、その働きかけにおいて、神の「自己限定」なのです。

「初めに言があった。
言は神と共にあった。
言は神であった。
この言は初めに神と共にあった。
すべてのものは、これによってできた」(ヨハネによる福音書1:1-3a)

同質のそして同格の人と人との間でさえ「他者に語る」ことは、語る者の側としては、何らかの「自己限定」になります。

出エジプト記で、神は「人との契約」をされることで、絶大な「自己限定」をされています。
「我は有りて在る者なり」(改訳・「わたしは有って有る者」、(出エジプト記3:14))と、他のいかなる者によっても制約されず、また他のいかなるものにも依存しない絶対的主体である神が、地球上の一弱小民族であるイスラエルと、「契約」に入り給うたことを告げています。

契約は、契約によって結ばれる両者を制約します。
絶対主体者が相対者と契約関係に入るということは、他の何ものによっても制約されないことをその本質とする絶対者が、あえて御自身を、他によって制約される者となり給うたことです。

何ものによっても束縛されない絶対に自由な創造主と、被造者とのつながりは、創造主の側の、超絶的な「自己限定」でしかありえません。

したがって、
「すべてのものは、これによってできた」
という時も、そこには、質的なつながりがあるのではなく、絶対に質を異にする他者への創造主の「自己限定」です。

創造はすでに、それ自身が神の「自己限定」です。

ですから、それを証しするためつかわされた人(ヨハネ)さえ、
「彼は光ではなく、ただ、光についてあかしをするためにきた者(声)」(ヨハネによる福音書1:6以下、1:20、1:23)
でしかないのです。

そのような、「神と等しい神の言」の受肉者(自己限定者)の栄光は、「父の独り子としての栄光」(ヨハネによる福音書1:14)です。
神の「自己限定」としての「神の啓示」以外の何ものでもありません。

「神を見た者はまだひとりもいない。
ただ父のふところにいるひとり子なる神だけが、神をあらわしたのである」(ヨハネによる福音書1:18)
としるされている所以です。

この「神のロゴスの受肉」の、そもそもの目的は何でしょうか。

世の罪を取り除くためです。
(「世の罪」は、いま現実の世界支配している「弱肉強食」「優勝劣敗」「自然淘汰」の状態をみれば、世は罪に支配されていることは一目瞭然です。)

それは、昔イスラエルの出エジプトという救出が「小羊の血のしるし」によったものであるように、神のロゴスの受肉者の姿は「神の小羊」そのものです。

証人としては、ヨハネのように、
「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネによる福音書1:29、1:36)
と端的に示すしかありません。

「神の小羊」として受肉した独り子イエスには、イエスだけの「時」があります。

小羊としてほふられる十字架をさして急ぐ時です。

時が人に使命を与えるのではなく、反対に、使命感が時を決定するのです。

神のロゴスの受肉者、上からの者の時の時熟(カイロス)は、下からの者の時の時熟(クロノス)ではありません。

上からの者の時の時熟は、十字架に向かう「自己犠牲」の道ですが、下からの者の時は、充たされない欲求を充足しようととしてあせる「自己充足」の道だからです。

イエスの時の時熟は、その肉親である母のそれとも隔絶していました。

イエスは母にいわれた、
「婦人よ、あなたは、わたしと、なんの係わりがありますか。
わたしの時は、まだきていません」(ヨハネによる福音書2:1以下)

神の小羊として受肉したイエスを語るヨハネによる福音書では、「宮潔め」の記事も、この時塾です。

「神その民と共に在す」しるしとしての神殿は、神の独り子(神自身の自己限定)の受肉において初めて、歴史的出来事として具体化しました。

神の歴史の時熟に全く鈍感な人々に対して、イエスは、
「この神殿をこわしたら、わたし(イエス)は三日のうちに、それを起すであろう」(ヨハネによる福音書2:19)
と言われました。

それは、
「イエスは、自分のからだである神殿のことを言われたのである」(ヨハネによる福音書2:21)
と註釈されています。

表向きではありませんが、ヨハネによる福音書は、この言葉を通して、十字架と復活と昇天の後にたてられる、「キリストのからだとしての教会」をイエスは先取していたという見方に立っていることを暗示しています(ゼリカヤ書6:12-13参照)。

【引用】
「彼に言いなさい、
『万軍の主は、こう仰せられる、見よ、その名を枝という人がある。
彼は自分の場所で成長して、主の宮を建てる。
すなわち彼は主の宮を建て、王としての光栄を帯び、その位に座して治める。
その位のかたわらに、ひとりの祭司がいて、このふたりの間に平和の一致がある。』」(ゼカリヤ書 6:12-13)


つづくニコデモとの対話の記事も、「水」と「雲」への言及で、教会時代に与えられる聖霊の予告をふくめていますし、モーセが「荒野でへびを上げた」ように、上げられることへの言及も、あきらかに、十字架の予告です(ヨハネによる福音書三章)。

「あなた(ニコデモ、ユダヤ人の指導者)はイスラエルの教師でありながら、これぐらいのことがわからないのか。
よくよく言っておく。
わたしたちは自分の知っていることを語り、また自分の見たことをあかししているのに、あなたがたはわたしたちのあかしを受けいれない」(ヨハネによる福音書3:10)
というイエスの言葉の中の「わたしたち」という(複数形)表示は、イエス昇天後、聖霊によって建てられた教会が、「思わず顔を出してしまった」事態として解釈する学者もあります(E・F・スコット)。

サマリヤの女とイエスが交わされた、井戸辺での対話にも、教会時代が先取されています。

「人種や場所の拘束」から解放されて「霊とまことをもって父を礼拝する時」(ヨハネによる福音書4:20以下)の到来としてです。

そのような教会の使命を明確化させるために、ヨハネによる福音書には、「証し」の構造を鋭く掘り下げています。

光に対する反応は、不可抗的に、「光に来る者」とーー光よりも闇の方を愛してーー「光を憎む者」とに分かれます。

しかし、教会としては、聴く者をして、
「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。
自分自身で親しく聞いて、この人こそまことに世の救主であることが、わかったからである」
と言わせるほどに、イエス・キリストを、自己を超えた、「上からの者」としてさし示さなければならないのです。

証言者ヨハネが、「彼(キリスト・被証言者)は必ず栄え、わたし(証言者)は衰える」と語っているのがそれです(ヨハネによる福音書3:16以下、3:30-31、4:41-42等)。

被証言者、イエスは、あくまでも「神と等しい者」「神のさばきの代行者」であり、その地上でのイエスのわざのすべてが、それを証明しています(ヨハネによる福音書5:18、5:22、5:27、5:30、5:36)。

旧約聖書の証言も「キリスト証言」ですから、イエスの神性を認めずこれを否認することは、旧約聖書全体の否認を意味します(ヨハネによる福音書5:38-46)。

イエスが、(神からの者として、上からの者であること)を否認することは、同時に「父なる神」を否認することです。

「わたし(イエス)をつかわされた父が引きよせて下さらなければ、だれもわたしに来ることはできない。
わたしは、その人々を終わりの日によみがえらせる者」なのです(ヨハネによる福音書6章全体)。

「永遠の命」との関連で、聖餐の「パン」と「ぶどう酒」(血)が語られ、再び、教会時代が先取されています(ヨハネによる福音書6:46以下)。

また、祭の終わりの大事な日(捕囚後の仮庵の祭の八日目の聖会)の、「生ける水」の預言も、イエスの栄光が、十字架上の栄光であることを示唆しています(ヨハネによる福音書7:37以下)。

A「神の小羊」としてのロゴスの吸引力(ヨハネによる福音書8-12章)

この部分の項の終わりにある、
「そして、わたし(イエス)がこの地から上げられる時には、すべての人をわたしのところに引きよせるであろう」(ヨハネによる福音書12:32)
という言葉から、
「神の小羊としてのロゴスの吸引力」
は、ヒントを与えています。

イエスは自らを「世の光」と言われました(ヨハネによる福音書8:12)。

「光」がその力を発揮するのは、ロゴス(言葉)として、真理として、人を引きつけるからです。

「光を憎む者」と、「光を求める者」とに分かつのも、真理としての光の働きですが、その吸引力については、
「しかし、真理を行っている者は光に来る。
その人のおこないの、神にあってなされたということが、明らかにされるためである」(ヨハネによる福音書3:18以下)
と言われています。

聖書で意味する真理は、「自己充足的」性格のものではなく、「自己超越的」であり、「他者指示的」です。

「真理」といっても、すべてが、「光」であり「生命」であるわけではありません。

イエスのいう「真理」は、「生命を与える真理」です。
真理の源、光の源から遊離したものは、真理ではありません。

「もし、わたし(ロゴス・イエス)の言葉(ロゴス)のうちにとどまっておるなら、あなたがたは、ほんとうにわたしの弟子なのである。
また真理を知るであろう。
そして真理は、あなたがたに自由を得させるであろう」(ヨハネによる福音書8:31以下)
と言われる所以です。

一般に真理が、これまで、人を拘束していた迷信から人を解放してくれるという意味で、真理は自由を与えるものです。

しかし、上からのロゴス(言葉)の受肉者、光源そのものとしてのロゴスの受肉者の真理に対するメスさばきは、徹底して厳しいのです。

あらゆる「真理が自由を約束」するものなら、イエスの復活によって拘束される必要がどこにあるのか、と「真の自由」とは何かを問わないところに、この世一般の真理追求における欠落した部分があります。

およそ、罪がないと言える人はいませんが、罪を犯す者は、罪の奴隷であって、自由はありません。
とすると、「罪からの解放を条件」としない真の自由はないのです。
その意味で罪から(赦して)解放するイエスと無関係な真理は、生かす真理でもなく、真の自由を与える真理でもないのです。

真理の根源、光の源であるイエスは、選民の拠りどころとする太祖・アブラハムより先に存在した、神と等しい神のロゴスだからです(ヨハネによる福音書8:56以下)。

真理の根源としてのロゴスは、罪ゆえに自己が自由でなく、あさはかであることを告白するものと、あくまでも、自らの本来的自由を主張し、あさはかであることを否認しつづける者とを審かずにはすまないのです。

「わたし(ロゴスの受肉者イエス)がこの世にきたのは、さばくためである。
すなわち、見えない人たちが見えるようになり、見える人たちが見えないようになるためである。
ーーもし、あなたがたが盲人であったなら、罪はなかったであろう。
しかし、今あなたがたが『見える』と言い張るところに、あなたがたの罪がある」(ヨハネによる福音書9章、特に9:39-41)
と言われる所以です。

また、
「あなたがたが信じないのは、わたしの羊でないからである。
わたしの羊はわたしの声に聞き従う。
わたしは彼らを知っており、彼らはわたしについて来る。
ーーわたしの父がわたしに下さったものは、すべてにまさるものである。
そして、だれも父のみ手から、それを奪い取ることはできない。
わたしと父とは一つである」(ヨハネによる福音書10:1以下、特に10:26以下)
という、「よき羊飼い」としてのイエスの告示にも、真理であり、ロゴスであるイエスの吸引力の天的系譜がほのめかされています。

真理における交わりとしてあるべき、「キリストのからだなる」教会の在り方への示唆です。

この項の終わりには、祭で礼拝のためエルサレムに上ってきた人々の中に、ギリシア人が数人まじっていて、
「君よ、イエスにお目にかかりたいのですが」
と、イエスの弟子ピリポに依頼したことがしるされていて、ヨハネによる福音書のさし示すイエスが、ロゴス・キリストなるが故に、それはすておけない気がします(ヨハネによる福音書12:20以下)。

ロゴスはギリシア語であり、その哲学的ロゴスをもって誇りとするギリシア人が、この特定の場に、この時に、登場させられていることは何を意味するのでしょうか。

すくなくとも、彼らは、彼らを引き寄せる何かをイエスに対して感じていたにちがありません。

しかし、ロゴス・キリストは、下からのロゴスと直結するのではありません。

ピリポの案内の言葉がイエスに取りつがれるや否や、イエスは、
「人の子が栄光を受ける時がきた。
よくよくあなたがたに言っておく。
一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。
しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる」(ヨハネによる福音書7:39、12:7他)
と、その十字架の死の時の時熟を宣言されました。

この地上でのロゴスの受肉の栄光は、十字架の死を意味したからです。

それは神の子の十字架の時は、
「この世が審かれ、この世の君が追い出される」時だからです(ヨハネによる福音書12:31)。

しかも、この神の小羊イエスの十字架こそ、
「すべての人を引き寄せる」
収斂点です。

他の何ものを介してでもなく、罪の赦しを約束する神の小羊イエスの十字架においてしか「永遠の命」への道も、したがって、「真の自由」もないからです(ヨハネによる福音書18:37参照)。

【引用】
「そこでピラトはイエスに言った、
『それでは、あなたは王なのだな。』
イエスは答えられた、
『あなたの言うとおり、わたしは王である。
わたしは真理についてあかしをするために生れ、また、そのためにこの世にきたのである。
だれでも真理につく者は、わたしの声に耳を傾ける』」(ヨハネによる福音書 18:37)


エペソ人への手紙の語る、
「天にあるもの地にあるものを、ことごとく、キリストにあって一つに帰せしめようとされた」(エペソ人への手紙1:10)
という神の目的は、実は、神の小羊として受肉したロゴス・イエスの吸引力を媒介としているのです。

B「神の小羊」の燔祭としての栄光(ヨハネによる福音書13-21章)

ヨハネによる福音書の初めに、
「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」
として証しされたイエスにとって、「燔祭」として屠られる日が到来しました。

「過越の祭の前に、イエスは、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時がきたことを知り、世にいる自分の者たちを愛して、彼らを最後まで愛し通された」(ヨハネによる福音書13:1)
ことがしるされています。

直弟子たちに裏切られ、己れの民等にしえたげられ、売られたイエスの「地上との訣別」の時は、不思議にも「栄光の時」なのです。

その師・イエスを引き渡すためユダが席を離れた時イエスは、
「今や、人の子は栄光を受けた。
神もまた彼によって栄光をお受けになった。
彼によって栄光をお受けになったのなら、神ご自身も彼に栄光をお授けになるであろう」(ヨハネによる福音書13:31-32)
と言われました。

主イエスが去ることが、弟子たちのためだという。
「しかし、わたし(主)はほんとうのことをあなたがたに言うが、わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのだ。
わたしが去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はこないであろう。
もし行けば、それをあなたがたにつかわそう」(ヨハネによる福音書14:16、14:18以下、15:26、16:7、16:12等)
というイエスの言葉によって、真理の御霊である「聖霊」こそは、十字架のイエスのみ霊として、あらゆる「時空的束縛」(人としてのイエスは、人間一般と同じように時間と空間に束縛されていました)から解放された、新しい形で、自由に働きたもうことが約束されたのです。

【引用】
「わたしは父にお願いしよう。
そうすれば、父は別に助け主を送って、いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう。」(ヨハネによる福音書 14:16)

「わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない。
あなたがたのところに帰って来る。」(ヨハネによる福音書 14:18)

「わたしが父のみもとからあなたがたにつかわそうとしている助け主、すなわち、父のみもとから来る真理の御霊が下る時、それはわたしについてあかしをするであろう。」(ヨハネによる福音書 15:26)

「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。
けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。
それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。」(ヨハネによる福音書 16:12-13)

「しかし、わたしはほんとうのことをあなたがたに言うが、わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのだ。
わたしが去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はこないであろう。
もし行けば、それをあなたがたにつかわそう。」(ヨハネによる福音書 16:7)


十字架のイエスは、それ故「すでに世に勝った主」です。

「あなたがたは、この世ではなやみがある。
しかし、勇気を出しなさい。
わたし(主)はすでに世に勝っている」(ヨハネによる福音書15:26、16:33)。

「燔祭」として屠られる、小羊イエスの最後の大祭司としての祈りも、成就した栄光の讃美につきます。

「永遠の命とは、唯一の、まことの神でいますあなたと、また、あなたがつかわされたイエス・キリストとを知ることであります。
わたし(イエス)は、わたしにさせるためにお授けになったわざをなし遂げて、地上であなたの栄光をあらわしました。
父よ、世が造られる前に、わたしがみそばで持っていた栄光で、今み前にわたしを輝かせて下さい」(ヨハネによる福音書17:1-15、17:24)。

それならその栄光は、イエスの昇天により地上からは消えてしまうものなのでしょうか?

そうではありません。

信仰者に対して主は、
「わたしの名によって願うことは、なんでもかなえてあげよう。
父が子によって栄光をお受けになるためである」(ヨハネによる福音書14:13-14)
と約束されました。

そしてこのことの確かさの根拠は、
「わたしたち(父と子)が一つであるように、彼らも一つになるため」(ヨハネによる福音書17:11)
というイエスの言葉です。

独り子の父(なる神)を、独り子の「燔祭」の故に、信仰者にも、「アバ父」と呼ぶ道が開かれたのです。

そのイエスと一つである「唯一の条件」は、
「世のものでない者として世におかれている者」
として聖別されることです。

それは、
「真理によって彼らを聖別して下さい。
あなたの御言は真理であります」(ヨハネによる福音書17:14-19)
と指摘されているように、「み言葉による聖別」を条件としています。

真理による聖別、み言葉による聖別を基盤とする、イエスと弟子たち(信仰者)との揺るがぬ関係が、裁判にあたり、真理の外に身をおくこの世の権威の代表ピラトとの対話として劇的な効果をもって描出されています。

ピラトの前のイエスは、「燔祭」として屠られる小羊として孤独の極限におかれていながら、
「わたしは王である。
わたしは真理についてあかしをするために生れ、また、そのためにこの世にきたのである。
だれでも真理につく者は、わたしの声に耳を傾ける」
と言いたまい、これに対してピラトは、
「真理とは何か?」(ヨハネによる福音書18:33以下)
と、その真理の外に立つ者の底知れぬ虚無と孤独を暴露しています。

こうして「神の小羊イエス」と、「この世の擬装的権威」の具現者ピラトとの関係は、上から遣わされた権威者によるその擬装性の暴露に他ならないものとして描かれています。

そこでは、被審判者イエスこそ、ピラトによって代表される、あらゆる権力の審判者だからです(ヨハネによる福音書19章)。

十字架に屠られた小羊イエスの復活は、何よりも、十字架の栄光の確認です。

なお、ヨハネによる福音書に付録的につけ加えられたとみえる21章には、主からペテロへの遺言が語られ、そこに、
「これは、ペテロがどんな死に方で、神の栄光をあらわすかを示すために、お話しになった」
という註が付されています。

主の栄光は、神の小羊の「燔祭」としての、十字架の栄光であるように、その主の栄光に与らされる者の栄光も、苦難を通してのもの、死を通しての道であることを示唆しています(ヨハネによる福音書21:18-19)。


posted by 道川勇雄 at 15:36| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする


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