2019年07月21日

ローマ人への手紙

ローマ人への手紙

「信仰義認の体現者・教会」

先立つ使徒行伝が、福音宣教が、選民イスラエルから異邦人(万民)へと転向した「歴史的証明」であるとすれば、ローマ人への手紙はその「神学的証明」です。

@贖罪の、聖霊による確認としての信仰義認(ローマ人への手紙1-11章)

これまでに、イエス・キリストが、「上からの者」(神と等しい、子なる神)であり、そのみ霊によって建てられた教会も、「上からのもの」であることが力説されてきました。

それをうけて、ローマ人への手紙では、その教会にゆだねられた福音もまた、「新次元に開示された信仰義認」として、「上からのもの」であることを立証しています。

全世界の人々を救う神の力は、「神の義」ひいては「信仰による義」として働く、「上からのもの」なので、「下からのもの」につきまとうあらゆる「制約」とか「偏見」からは完全に解放されているのです(ローマ人への手紙1:16-17)。
 
⑴律法の下の全人類の失脚(ローマ人への手紙1章-3:20)

第一に注目せよ、真の活ける神は、断じて「偏見のない神」であることをと宣言しています。
「神には、かたより見ることがないからである」(ローマ人への手紙2:11)と。

その証拠として、人はすべて、それぞれが与えられている「光に応じて審かれる」のだと。

まず、あらゆる宗教と無縁な一般人の場合からみられています。
それら一般人としても、
「神の見えない性質、すなわち、神の永遠の力と神性とは、天地創造このかた、被造物において知られていて、明らかに認められるからである。
したがって、彼らには弁解の余地がない。
なぜなら、彼らは神を知っていながら、神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからである。
彼らは自ら知者と称しながら、愚かになり、不朽の神の栄光を変えて朽ちる人間や鳥や獣や這うものの像に似せたのである」(ローマ人への手紙1:18以下)
と容赦なく論陣をはっています。

つまり、神がすべての人に「すでに知られている」というこの断定は、被造者としての人間には、その創造者を自己と全く無縁な者とはできないような、「ある認識」があるはずだということを意味しています。

全く知らないとはいえないとすれば、その者を無視した生き方を問われて、弁解の余地はないはずです。

無神論をかざす人間はいます。

それも、彼らが、活ける人格神の代わりに、神ならざるものを神の位置においているのです。

「彼らは、こうした事を行う者どもが死に価するという神の定めをよく知りながら、自らそれを行うばかりではなく、それを行う者どもを是認さえしている」(ローマ人への手紙1:32)。

この視点に立っていえば、他人を審きうるほど義しい人は皆無です。

「悪を行うすべての人には、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、患難と苦悩とが与えられーー神には、かたより見ることがないから」(ローマ人への手紙2:6以下)
だと言います。

「そのわけは、律法なしに罪を犯した者は、また律法なしに滅び、律法のもとで罪を犯した者は、律法によってさばかれる」
「彼らにとっては、自分自身が律法なのである」(ローマ人への手紙2:12-15)。

これは、人はそれぞれ与えられている「光に応じてさばかれる」ということです。

実に公正な断定です。

その同じ理論によって、律法の民をもって任じるユダヤ人も、その光(律法)と特典に応じて、よりきびしく審かれます。

「神の御名は、あなたがた(選民)のゆえに、異邦人の間で汚されている」(ローマ人への手紙2:17以下、特に2:24)
からだと厳しく指摘します。

神の民と自称するユダヤ人の不義が、神の真実を無にするという断定は、誤っているのです。

偏見のない神の真実は絶対的ですから、
「あらゆる人を偽り者としても、神を真実なものとすべきである」(ローマ人への手紙3:1-4)
といって、律法の下の全人類の失脚を宣言しています。
 
⑵キリストの贖罪による信仰義認(ローマ人への手紙3:21-8:11)

律法の下では、罪が暴露されるばかりであって、罪が鏡によるように映し出されはしますが、そこに救いはありません。

しかし、今や、「上から」救いの道が開かれたのです。

それは、律法的次元とはちがった、全く新しい次元からの救いの道です。

「神の義」ーー「人の義」ではなく「神の」すなわち、上から与えられた義。
「上から」与えられた、神の独り子、イエス・キリストを信ずる信仰による神の義です。
これこそ無差別的に、万民に対して開かれた神の義です。

すべての人に与えられる義は、イエス・キリストの贖罪(十字架の血)による、無条件の賜物だからです。

この信仰による義は、選民の祖・アブラハムの中にすでにその萌芽がみられます。

アブラハムは、人間的条件の「故に」ではなく、人間的条件が取り去られている「にも拘らず」、「神の約束」の言葉は必ず成ると信じた、その無から有を呼び出される神への信仰を義と認められたので、その行為によるのではないと主張しています(ローマ人への手紙4章)。

イエス・キリストの贖罪は、「支配権の革命」です。

それはアダムに象徴される「死の法則」から、キリストにある「生命の法則」の支配下に移されることであり(ローマ人への手紙5章)、「死と罪の奴隷」状態から、バプテスマによって、「復活と生命の主の支配下」に移されることだからです(ローマ人への手紙6章)。

「あなたがたは律法の下にあるのではなく、恵みの下にあるので、罪に支配されることはない」(ローマ人への手紙6:14、7:1)
と言われている通りです。

このような「上から」の義認は、賜物であり、賜物は「下から」の応答(課題)によって初めて現実化します。

「このように、あなたがた自身も、罪に対して死んだ者であり、キリスト・イエスにあって神に生きている者であることを、認むべきである」(ローマ人への手紙6:11)
と言われています。

「上から認められて・下から認める」とは、「選ばれて選ぶ」「他力に先立たれた自力」、「他力と自力の緊張」がそこには示されています。

「認める」はギリシア語では、「ロギーゾマイ」(「と数える」とか、「と見なす」)という意味で、たとえば、帳尻の上で合っていれば、事実上、不足していても、帳面どおりと見なすことを意味します。

パウロ自身、
「しかし、わたしは肉につける者であって、罪の下に売られているのである。
わたしは自分のしていることが、わからない。
なぜなら、わたしは自分の欲する事は行わず、かえって自分の憎むことをしているからである」、

「わたしの肢体には別の律法があって、わたしの心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中に、わたしをとりこにしているのを見る。
わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。
だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか」(ローマ人への手紙7:14以下)
と、赤裸々な告白をしています。

これが、律法によって照らし出された、そして生々しく見ることのできるパウロの、そして誰しもの「現実の姿」です。

だが、それがたとえ「現実」であるにも拘らず、キリスト・イエスに在る者は、
「罪に対して死んだ者であり、キリスト・イエスにあって神に生きている者である」
という、
「主に在っての現実」
をこそ、より真正な現実として、
「認むべきである」
というのです。

パウロが、自己の内なる絶望の告白に直結して、
「わたしたちの主イエス・キリストによって、神は感謝すべきかな。
このようにして、わたし自身は、心では神の律法に仕えているが、肉では罪の律法に仕えているのである。
こういうわけで、今や、キリスト・イエスにある者は罪に定められることがない。
なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則は、罪と死との法則からあなたを解放したからである」(ローマ人への手紙8:1以下)
という、行きつもどりつのような叫びに似た告白をしていることも、ロギーゾマイの実践のふくむ生々しい苦闘です。
 
⑶聖霊によって確証される信仰義認(ローマ人への手紙8:12-39)

義でない者が、法的に義と認められることとしての信仰義認は、さらに法的に、義認された者を、イエス・キリストとの「共同の相続人」すなわち「神の子」とします。

その確認者は神のみ霊です。

「あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。
その霊によって、わたしたちは『アバ、父よ』と呼ぶのである。
御霊みずから、わたしたちの霊と共に、わたしたちが神の子であることをあかしして下さる。
もし子であれば相続人でもある。
神の相続人であって、キリストと栄光を共にするために苦難をも共にしている以上、キリストと共同の相続人なのである」(ローマ人への手紙8:15-17)
と言われています。

これはとうてい信仰者としても容易に理解しがたい、超絶的確認です。

だがこれは、キリストの十字架の死という絶大な犠牲の価が支払われた結果としてみる時、はじめて納得させられる出来事です。

そして、信仰者の側のロギーゾマイは、このような「上からの聖霊の確証」によってのみ可能とされるのです。

聖霊の確証は、これに尽きません。

信仰者に与えられる神の子としての確証は、「垂直的」なものですが、聖霊の確証は、「垂直的かつ水平的」だからです。

キリストとの共同の相続人とされた者は、被造物ひいては全被造者との「連帯感」にまで目ざまされます。

「実に、被造物全体が、今に至るまで、共にうめき、共に産みの苦しみを続けていることを、わたしたちは知っている。
それだけではなく、御霊の最初の実を持っているわたしたち自身も、心の内でうめきながら、子たる身分を授けられること、すなわち、からだのあがなわれることを待ち望んでいる。
ーー御霊もまた同じように、弱いわたしたちを助けて下さる。
なぜなら、わたしたちはどう祈ったらよいかわからないが、御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなして下さるからである」(ローマ人への手紙8:22以下、8:26以下)。
 
⑷選民的失格を照らし出す信仰義認(ローマ人への手紙9-11章)

この部分には、選民イスラエルの裔(すえ)でありながら、キリストの福音に与ったパウロならではの「選民史への内在批判」がのべられています。

これは、
「わたしの兄弟、肉による同族のためなら、わたしのこの身がのろわれて、キリストから離されてもいとわない」(ローマ人への手紙9:1ー3)
ほど強烈なパトスの持ち主であるパウロの叫びとして、この上なく貴重な告白です。

選民史を語るさい、絶対に避けることのできないのは、
「わたし(主)はヤコブを愛しエサウを憎んだ」
という超絶的命題です。

これはすでに何度かのべたように、驚くべき傍若無人な提言です。

それは、とうてい理性のくみ尽くせない秘義に満ちた言葉ですが、パウロはここでは、選び主の「選びの自由」、ひいては、選び主の「あわれみの自由」という焦点にしぼって、その「自由」の立証として、万民の信仰義認が結果したのだとみています。

それは、
「神は、このあわれみの器として、またわたしたちをも、ユダヤ人の中からだけではなく、異邦人の中からも召されたのである」(ローマ人への手紙9:24)
という言葉においてあきらかです。

しかし、選民の失格は、「神の義」を「人の義」にすりかえてしまったところにある、とその致命的誤診を指摘しています(ローマ人への手紙10:1ー3)。

だがそのことの故に、
「『神はその民を捨てたのであろうか。』断じてそうではない」
という(ローマ人への手紙11:1)。

今なお恵みの選びによって「残された者」が必ずいる(ローマ人への手紙11:4)。

それらの者こそは、信仰によって義とされた者に他ならない(ローマ人への手紙11:6)。

イスラエル人は、その一時的挫折にも拘らず「神の選びの不変なること」の証人として立つために召された、その召しと賜物とは変わらない(ローマ人への手紙11:29)。

「一部のイスラエル人がかたくなになったのは、異邦人が全部救われるに至る時までのことであって、こうして、イスラエル人は、すべて救われるであろう」(ローマ人への手紙11:25ー26)
と言われています。

以上のように、選民の失格も、またその将来的救拯の預言も、ともに、「信仰義認」を浮き彫りにする事柄として分析されています。

A肢体的負債感を迫る信仰義認(ローマ人への手紙12ー16章)

この12章冒頭の「そういうわけで」という接続詞は、ローマ人への手紙の前半と後半を関連づける重要な言葉です。

前半の、福音の論理の必然的展開として、後半の、「負債の倫理」が位置づけられているからです。

この部分の「負債の倫理」は、
・キリストに在る肢体性(ローマ人への手紙12章)
・キリストに在る負債性(ローマ人への手紙13章)
・キリストに在る寛容性(ローマ人への手紙14-15:13)
・キリストに在る祭司性(ローマ人への手紙15:14-16章)
として展開されています。



posted by 道川勇雄 at 15:40| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする


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