2019年07月21日

コリント人への第一の手紙

コリント人への第一の手紙


「聖別による、世俗主義からの解放」 


教会は「上からのもの」、天的起源をもつものでありながら、しかも、人間からなる集団としては地的性格を持っています。


在るがままの教会は、そのままでは、あくまでも不完全な、汚れたものです。


しかし、キリストを首とする教会としては、それはすでに「教会でありつつ、教会とならねばならない教会」といえます。

コリント人への第一の手紙は、そのような教会独自の課題にその焦点をしぼっています。


そのさいコリント人への第一の手紙は、教会が何か他のようになることによってではなく、むしろ、教会の首である「復活主の肢体」としての自覚に徹することこそ、教会をその陥りやすい世俗主義から解放すると主張する点に、コリント人への第一の手紙の意図があります。


@神知の超絶性(コリント人への第一の手紙1ー4章)


人間は本来「誇り」のかたまりです。


しかし、好むと好まざるとに拘らず、十字架の主によってあがなわれた者は、その生まれつきもっている誇りを粉砕された者です。


信仰者を他の者から異ならせる試金石は、「十字架のキリスト」のみを誇るという一点でしかありません。


キリストの外に誇りをもつことは、キリスト以外の人間を権威と認め、キリスト以外の知識を拠りどころとすることに他ならないのです。


それはとりもなおさず、「キリストの十字架を無力なもの」としていることになるからです(コリント人への第一の手紙1:17)。


この世の知恵を権威としている者は、この世の知恵が、神を認めることのできない無知であることを知らないからであろう(コリント人への第一の手紙1:19ー25)。


そして、十字架のイエス・キリストこそ「隠された奥義としての神の知恵」であることを知らないからであろう(コリント人への第一の手紙2:6ー7)。


「下からの知恵」は、このような超絶的な「上からの知恵」とは別次元のものです。


「上からの知恵」は、上からのみ霊によってのみ初めて開示されるからです(コリント人への第一の手紙2:10以下)。


十字架のキリスト以外のものを権威とすることは、世俗主義だが、世俗主義の本質は本来、秩序の転倒にあります。


成長させる神と、植える人間との秩序の混同であり、世俗知と神知との次元の混同としての本末転倒です(コリント人への第一の手紙3ー4章)。


A復活首につく体としての肢体的聖別(コリント人への第一の手紙5ー7章)


教会は、キリストを首かしらとする「キリストのからだ」です。


その首は、復活のキリストです。


「神は主をよみがえらせたが、その力で、わたしたちをもよみがえらせて下さるであろう。

あなたがたは自分のからだがキリストの肢体であることを、知らないのか。

それだのに、キリストの肢体を取って遊女の肢体としてよいのか。

断じていけない」(コリント人への第一の手紙5ー6章)

と、肢体的自覚の徹底からの帰結として、不品行の罪をあばき、責めています。


教会の首は、すでにその肢体のあがないのために、十字架上に、過越の小羊として屠られました(コリント人への第一の手紙5:7)。


キリストの肢体としての各自は、最高の代価をもって、奴隷からあがなわれた者です(コリント人への第一の手紙6:19ー20、7:23)。


それ故、今なお不品行をつづけることは、すでに与えられた救いを捨てて、奴隷状態に逆戻りすることだという。


この点についてとくに外の世界の人々の場合と区別して、教会内の不品行に対しては、容赦のない厳しさを要請している点が注目されます(コリント人への第一の手紙5:9ー13)。


他方、教会は禁欲主義を主張しているとはきちがえてはならないという(コリント人への第一の手紙7章)。


独身を通すか結婚するかはそれぞれが、賜物に応じて、独自な判断をすることこそのぞましい。


「ただ、各自は、主から賜わった分に応じ、また神に召されたままの状態にしたがって歩むべきである」(コリント人への第一の手紙7:7ー17)という。


B解放者キリストの与える自己限定の自由(コリント人への第一の手紙8ー10章)


キリストによってあがなわれた者は、あらゆる迷信的な拘束(慣習)からは解放された「自由人」です。


「わたしは自由な者ではないか。

使徒ではないか」

と、パウロはその「キリストにあって、与えられている自由」のすばらしさを告白せずにはいられない(コリント人への第一の手紙9:1)。


キリストによって解放された者にとっては、例えば、偶像なるものの実在を信じないキリスト者としては、今更、「ーーすべからず」の規定にしばられる理由はないのです。


だが、まだそこまでいたっていない人々をつまずかせないための配慮がのぞましいと言います(コリント人への第一の手紙8:1以下)。


何故なら、キリストによって与えられた自由は、他者のために配慮する、「自己限定の自由」だからです。


「わたしは、すべての人に対して自由であるが、できるだけ多くの人を得るために、自ら進んですべての人の奴隷になった」、

しかもそれは、ただ、

「福音のため」(コリント人への第一の手紙9:19以下)

という純一の目的の貫徹を意味します。


「福音のために、わたしはどんな事でもする。

わたしも共に福音にあずかるためである」

というのが、使徒のすさまじいばかりの主体性の秘密です。


ここにも、それぞれが与えられた力に応じて働くこと、より多く与えられた者からはより多くを求められる、という「平和共存の法則」の肢体的体認が示唆されています。


自己限定の自由といっても、それは注意しないと、世俗主義への陥穽(かんせい、おとしあな)になりかねません(コリント人への第一の手紙10:14以下)。


この世に迎合し、癒着してしまうと、「主の杯と悪霊どもの杯」との混同がおこりかねないから警戒せよという(コリント人への第一の手紙10:20以下)。


「だから、飲むにも食べるにも、また何事をするにも、すべて神の栄光のため」(コリント人への第一の手紙10:31ー33)

という究極目標を見失わぬことが肝腎なのだと説きます。


C復活主を首とする肢体的秩序(コリント人への第一の手紙11ー16章)


教会の首はキリストです。


しかし、「復活の主キリスト」が、教会の首であることが充分に肢体に徹底しているであろうか。


コリント人への第一の手紙は、その点を明確化するために書かれた書である、とさえいえます。


教会は、位階的ではないが、復活の主を首とする有機体としての秩序をもっています。


「神は無秩序の神ではない」(コリント人への第一の手紙14:33)からです。

コリント人への第一の手紙はこれを、集会の秩序、賜物の秩序、復活の秩序の順で論じています。



⑴集会の秩序(コリント人への第一の手紙11章)


歴史的慣習というものは、つねに移り変わります。


聖書が、時代と共に変わる慣習に言及している場合、その特定の慣習にこだわるのでなく、それへの言及で、いったい何が意図されているのかをくみとることが大切です。


きわめて私的個人的な、と思われる見解が出されているこの部分で注目させられるのは、事例を出しては、そのあとに、本質的なこと、原理的なことは、しかしこうなのだ、と語調を変えることがあります。


男女のことにふれたあと、

「ただ、主にあっては、男なしには女はないし、女なしには男はない。

それは、女が男から出たように、男もまた女から生れたからである。

そして、すべてのものは神から出たのである」(コリント人への第一の手紙11:1以下)

といって、キリストに在る、人間間の差違の相対化の発想を際立たせています。


集会の秩序としては、主の聖餐が正しく守られることへの配慮こそ、根本的なことであるとし、

「ふさわしくないままでパンを食し主の杯を飲む者は、主のからだと血とを犯す」(コリント人への第一の手紙11:21、11:2等)

ことであると指摘しています。



⑵賜物の秩序(コリント人への第一の手紙12ー14章)


この部分は、霊の賜物についての驚くべく深い神学的洞察を示す言葉をもって始められています。


「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』ということができない」と(コリント人への第一の手紙12:3)。


これまでも書いてきたように、聖書の語る「救いの本質」は、きわめて法的な性格をもっています。


キリスト信仰の根本は、「イエスは主なり」という告白ですが、それは、自己を主とする人間の本性にとっては、全く不可能な告白です。


自己を主とすることは、神を主とはせず、客とすることです。


在るがままの人間は、神に対しては例外なく、「主客倒錯」的です。


それ故、その倒錯を逆転させられることなしに「イエスを主とする告白」は絶対に不可能です。


それを可能にするものは「上から」の聖霊の働きのみです。


聖霊による「主客倒錯」の逆転こそは、教会の根源的秩序です。


それは万人に開かれた無条件的・無差別的秩序にします。


ところが、聖霊の働きはきわめて個性的多彩的です。


「実際、からだは一つの肢体だけではなく、多くのものからできている。

ーーところが実際、肢体は多くあるが、からだは一つなのである」、

「もし一つの肢体が悩めば、ほかの肢体もみな共に悩み、一つの肢体が尊ばれると、ほかの肢体もみな共に喜ぶ。

あなたがたはキリストのからだであり、ひとりびとりはその肢体である」(コリント人への第一の手紙12章)

といって、教会の役割を担う担い方も多彩性です。


また「全きものが来る時には部分的なものはすたれる」と、終末的秩序に説き及び、愛の優位性と恒久性を讃美しています(コリント人への第一の手紙13章)。


なお終わりに、教会の賜物は、個人を誇らせるものであってはならず、「教会の徳を建てる」ためをその唯一の目的として示し、教会の本質がその秩序性にあることを力説しています(コリント人への第一の手紙14章)。



⑶復活の秩序(コリント人への第一の手紙15章)


コリント人への第一の手紙の頂点をなすのが、この復活の秩序についての記述です。


宇宙史の目的である「キリストにおける万物帰一」は、教会の首である復活のキリストにおいて具現するからです。


「万物が神に従う時には、御子自身もまた、万物を従わせたそのかたに従うであろう。

それは、神がすべての者にあって、すべてとなられるためである」(コリント人への第一の手紙15:28)

と言われています。


キリストの復活なしには教会の宣教も空しく、私たちの信仰それ自体が空しい(コリント人への第一の手紙15:13ー14)。


人間の復活とは、単なる霊魂の不滅性といわれているものではありません。


「肉のからだでまかれ、霊のからだによみがえるのである」(コリント人への第一の手紙15:44)。


そして復活の順序として、

「最初はキリスト、次に、主の来臨に際してキリストに属する者たち、それから終末となって、その時に、キリストはすべての君たち、すべての権威と権力とを打ち滅ぼして、国を父なる神に渡される」(コリント人への第一の手紙15:23以下)。


復活とは、霊体が与えられること、

「朽ちるものは必ず朽ちないものを着、死ぬものは必ず死なないものを着る」

ことで、その時こそ、

「死は勝利にのまれてしまった。

死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。

死よ、おまえのとげは、どこにあるのか」

と言われた預言(イザヤ書25:8、ホセア書13:14)の言葉が成就するのです。


教会が「この世のものでないものとして、この世におかれている」のは、このような、復活の首につく肢体的聖別によって、不断に世俗主義から解放される以外にない、というのが、コリント人への第一の手紙の意図です。


【参考】




posted by 道川勇雄 at 15:43| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする


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