2019年07月21日

コリント人への第二の手紙

コリント人への第二の手紙

「患難を慰めで満たす凱旋の主」

神の独り子イエスの道さえ「苦難を通して栄光へ」です。

イエスのからだとしての教会の肢体に対しても主は、
「あなたがたは、この世ではなやみがある。
しかし、勇気を出しなさい。
わたし(主)は、すでに世に勝っている」(ヨハネによる福音書16:33)
と言われました。

@確信の根拠としての主の凱旋(コリント人への第二の手紙1ー4:7)

患難の極限におかれたパウロの告白は意外にも、患難に比例して、主の慰めも大きいということです。

「キリストの苦難がわたしたちに満ちあふれているように、わたしたちの受ける慰めもまた、キリストによって満ちあふれている」(コリント人への第二の手紙1:4-7)
と言っています。

患難の極限状況でパウロが経験させられたことは、自己の死を覚悟させられると、もはや自分自身を信頼できないから、死人を甦えらせ、無から有を呼び出す神を仰ぐより他なくなると言います(コリント人への第二の手紙1:9)。

もっとも、福音のために人間がどれだけのことができるかを問題とするのは計算ちがいです。

ということは、
「神の約束はことごとく、彼(キリスト)において『しかり』となったからである」(コリント人への第二の手紙1:20)。

キリストにおける「既に」こそが、信仰者の唯一の原点であり、出発点であり、極点です。
キリストにおける「賜物」が、キリスト者の存在理由の原点です。

トロアスでのパウロの極度の焦燥もまた、決して例外ではなく、改めて凱旋の主を仰がせられる機会となったのです。

パウロは、そこで、「いつも」という言葉を用いています。

「しかるに、神は感謝すべきかな。
神はいつもわたしたちをキリストの凱旋に伴い行き、わたしたちをとおして、キリストを知る知識のかおりを、至る所に放って下さるのである。
わたしたちは、救われる者にとっても滅びる者にとっても、神に対するキリストのかおりである」(コリント人への第二の手紙2:14ー15)と。

キリスト者自身の成功・不成功が問題なのではありません。

信仰者自身の勝利ではないのです。

キリスト御自身の凱旋であるから(救われる者もあれば、そうでない者もあるが)、信仰者は用いられる者でしかありません。

「わたしたちのこうした力は、神からきている」(コリント人への第二の手紙3:5)。

「しかしわたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。
その測り知れない力は神のものであって、わたしたちから出たものでないことが、あらわれるためである」(コリント人への第二の手紙4:7以下)
という反復で、信仰者の確信の根拠は、キリストの凱旋にしかないことが力説しています。

Aイエスの死と生に与る実存的同時性(コリント人への第二の手紙4:8ー9章)

パウロが、「途方にくれても行き詰まらない」のは、
「いつもイエスの死を、この身に負うている。
それはまた、イエスのいのちが、この身に現れるためである。
わたしたち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されているのである。
それはイエスのいのちが、わたしたちの死ぬべき肉体に現れるためである」(コリント人への第二の手紙4:10ー11)
という信仰における同時性の故です。

このような同時性については、すでに、ローマ人への手紙で、バプテスマの論理として語られていました。

「もしわたしたちが、キリストと共に死んだなら、また彼と共に生きることを信じる」(ローマ人への手紙6:5ー8)と。

患難は、外なる人を滅ぼしてしまうであろう。
だが、
「内なる人は日ごとに新しくされていく。
なぜなら、このしばらくの軽い患難は働いて、永遠の重い栄光を、あふれるばかりにわたしたちに得させるからである。
わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ」(コリント人への第二の手紙4:16以下)のだと。

世人は括弧の中の評価で生きていますが、キリスト者は、括弧の前の、隠れた神の支配と、その究極的勝利を、今ここに見るように、決断するはずだというのです。

マケドニアの諸教会が、
「患難のために激しい試練をうけたが、その満ちあふれる喜びは、極度の貧しさにもかかわらず、あふれ出て惜しみなく施す富となった」(コリント人への第二の手紙8:2)
という驚くべき出来事も、実は、
「富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられた」主イエス・キリストの恵みに与らせられていることの実証であると言います(コリント人への第二の手紙8:9)。

これとの関連で、そこには出エジプト記でのモーセの「マナの分配」の記事からの引用があります。
「多く集めた者にも余らず少なく集めた者にも不足しなかった」(出エジプト記16:18、コリント人への第二の手紙8:15)
という註釈です。

これは、「力に応じて働き、必要に応じて受ける」こと、即ち、「より強い者がより弱い者の弱さを負う」ことを意味するモーセの「配分」法を想起させるためであり、その法則を制度的に具現したのが、「ヨベルの年」でした(レビ記25章)。

だが、この引用に先立って、コリント人への第二の手紙は、
「主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられた。
それは、あなたがたが、彼の貧しさによって富む者になるためである」
と、十字架のイエス御自身が、「ヨベルの年」の成就者であることを指摘しています。

十字架において、主御自身が、「より強い者は、より弱い者の弱さを負う者」であることを、その身をもって示されたのです。

そのキリストを首とする、キリストのからだの肢である者もまた、「キリストに負われた者」として、他者の不足を負って補うべきです。

今更それを改めていう必要さえないであろう。
「聖徒たちに対する援助については、いまさら、あなたがたに書きおくる必要はない。
わたしは、あなたがたの好意を知って」
いるのだからと(コリント人への第二の手紙9:1ー2)。

B主に在る反論の強さと、弱さの誇り(コリント人への第二の手紙10ー13章)

患難の種類といってもさまざまです。

肉体的、物質的困難より、数倍も人を悩ますのは、むしろ偽証とか誹謗です。

パウロは、誤解や、中傷をそのまま見過ごすようなことはしませんでした。

自分としては、これまで、
「だれにも負担をかけたことはなかった」(コリント人への第二の手紙11:7ー10)。
悪口をたたかれるほど自分は、
「あの大使徒たちにいささかも劣ってはいない」し(コリント人への第二の手紙11:5)、
これまでの努力において、耐久力において、断じて人後におちない。

そう主張しつつ、パウロは、そのような個人攻撃者に対する反論をしたからといって、誤解して欲しくない、
「あなたがたは(親愛なる兄弟たちよ)、わたし(パウロ)たちが、あなたがたに対して弁明しているのだと、今までずっと思ってきたであろう。
しかし、わたしたちは、神のみまえでキリストにあって語っているのである」(コリント人への第二の手紙12:19)
と念を押しています。

それは、パウロは、
「真理に逆らっては何をする力もなく、真理にしたがえば力がある」(コリント人への第二の手紙13:8)
ことを熟知しているからであり、
パウロの戦いは、どこまでも、
「神の知恵に逆らって立てられたあらゆる障害物を打ちこわし、すべての思いをとりこにしてキリストに服従させよう」(コリント人への第二の手紙10:4ー6)
とすることを目標としているからだという。

パウロへの誹謗を見ぬけぬ人々に対して彼は、
「サタンも光の天使に擬装するのだから」、
キリスト者は、
「うわべの事だけを見ている」(コリント人への第二の手紙11:14、10:7)
甘さを反省するがよいともいう。

主にあって真実を語るとすれば、自分にとっては、誇るに足る啓示が与えられている。
しかし、
「そこで、高慢にならないように、わたしの肉体に一つのとげが与えられた」(コリント人への第二の手紙12:1以下)。

しかしそのとげ(即ち苦悩の種)さえ、それにおいて主の恵みを知らされた。
「わたし(主)の恵みはあなたに対して十分である。
わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」と。
そこで彼はいう。
「それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。
ーーなぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである」(コリント人への第二の手紙12:9以下)と。

以上のように、あらゆる患難を慰めで満たされているパウロの赤裸々な告白であり、彼をしてそう告白させているのは、凱旋の主との実存的同時性とでもいうべき、「主に在る在り方」「主に在る信仰的主体性」です。


posted by 道川勇雄 at 15:45| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする


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