2019年07月21日

ガラテヤ人への手紙

ガラテヤ人への手紙

「福音の首尾一貫性の迫る二者択一」 

福音の根本を、「行為によらず、信仰による義」(信仰義認)として宣言することにおいて、ガラテヤ人への手紙は、ローマ人への手紙と近似しています。

ローマ人への手紙は、体系的に整然とした宣言文書であるのに対し、ガラテヤ人への手紙は、烈しい論争文書です。
福音の本質擁護のためのパウロの「体当たり」という印象が強く出ています。

@福音の神的由来の迫る二者択一(ガラテヤ人への手紙1章-3:5)

「人々からでもなく、人によってでもなく、イエス・キリストと彼を死人の中からよみがえらせた父なる神とによって立てられた使徒パウロ」
という、ガラテヤ人への手紙冒頭の自己紹介の言葉が、すでに、「上から」の者なら、「下からの者」ではないと、パウロ自身の召命の神的由来を宣言しています。

「上からの者」と「下からの者」との峻別が、いかに福音の本質問題であるかということは、すでに、ヨハネによる福音書があきらかにした点です。

イエスが、神と等しい神の独り子(独り子なる神)であることを、「上からの者」として宣言し、「あなたがたは下から出た者だが、わたし(イエス)は上から来た者である」と言われたことを反復力説しているのがヨハネによる福音書です(ヨハネによる福音書8:23、3:31他)。

福音は、「上からの」福音として貫徹されるか否かによって、立ちもし、倒れもします。

その福音の神的由来をあいまいにするところには、呪詛しかありません。

福音の神的由来が、「神につくか」「人につくか」「神を喜ばせるか」「人を喜ばせるか」、いずれかの二者択一を迫ります(ガラテヤ人への手紙1:6-10)。

パウロは、人からではなく、イエス・キリストから啓示をうけた時、その神的由来をそれとして貫くため、血肉にも、先輩たちにも計らず、神的由来の排他性を身をもって証ししたのです。

福音の神的由来は、信仰義認としてのみ貫かれます(ガラテヤ人への手紙2:15-16)。

それをあいまいにすることは、福音そのものの自殺であり、キリストの十字架の死をむだにすることです。

福音の異質化を来らせる者とは、相手がいかなる権威者であろうと、断乎闘わなければならないのです。

ケパ(ペテロ)とその一行のユダヤ人との、妥協して偽善的行為をしたのに対して、「面とむかって」ケパをなじったのは、そのためです(ガラテヤ人への手紙2:11以下)。

福音が立つか倒れるかの唯一の定め手である信仰義認の方向を貫徹させないことは、
「御霊で始めたのに、今になって肉で仕上げる」(ガラテヤ人への手紙3:1以下)
という致命的矛盾を意味するのに、それに対して鈍感であるとは、いったいどういうことなのか、というのが、ガラテヤ教会の信者への、パウロの烈しい挑発です。

A救拯史の示す信仰義認の一貫性(ガラテヤ人への手紙3:6-4章)
 
⑴信仰義認の証人としてのアブラハム(ガラテヤ人への手紙3:6-18)

福音の本質である信仰義認は、選民史を貫く主題でした。

選民の太祖・アブラハムが、そのことの証人ではないか。
「アブラハムは神を信じた。
それによって、彼は義と認められた」
のです(創世記15:6)。

アブラハムが「万民祝福の基」として召されたのは、この「信仰による義」の約束が、その裔(すえ)であるイエス・キリストによって成就されるための、神の御計画によるのです。

アブラハムが与えられたのは、あくまでも「約束」の相続者としての選民の代表となる恵み以外の何ものでもなかった、と強調しています。
 
⑵信仰義認の否定媒介としての律法(ガラテヤ人への手紙3:19-4章)

信仰義認は、神を「アバ、父よ」とよんだイエス・キリストと等しく「神の子」となる相続の保証です(ガラテヤ人への手紙4:6-7)。

しかし、イエス・キリストの受肉の時満ちるまでは、約束はうけていても未熟な子供がそうであるように、後見人を必要としました。

律法は、その後見人の役目をするものなのです。

「しかし、信仰が現れる前には、わたしたちは律法の下で監視されており、やがて啓示される信仰の時まで閉じこめられていた。
このようにして律法は、信仰によって義とされるために、わたしたちをキリストに連れて行く養育掛となったのである。
しかし、いったん信仰が現れた以上、わたしたちは、もはや養育掛のもとにはいない。
あなたがたはみな、キリスト・イエスにある信仰によって、神の子なのである」(ガラテヤ人への手紙4:1以下、3:23以下)
と言われている通りです。

ここで大事なのは、「もはや養育掛(律法)のもとにはいない」ということなのに、律法の否定媒介性ーーなければならず・あってはならないーーを無視した信仰生活は、矛盾していることがわからないのか、となじり始めています(ガラテヤ人への手紙4:8以下)。

それでは、これまでのパウロの努力がすべて無駄であったことになります。

律法の下に今なお自分たちをしばりつけている在り方は、奴隷への逆もどりではないか(ガラテヤ人への手紙4:9以下)。

聖書がアブラハムに、
「女奴隷とその子とを追い出せ。
女奴隷の子は、自由の女の子と共に相続してはならない」(ガラテヤ人への手紙4:21以下)
と命じられた、その意味がわからないというのか、と激ミするパウロです。

以上のように、この部分にも、「自由人」か「奴隷」かの二者択一の選択がつきつけられています。

B十字架のキリストの迫る二者択一(ガラテヤ人への手紙5-6章)

イエス・キリストによって与えられた救いは、罪の支配下からの解放です。
キリストは「自由を得させるために解放」して下さった。
解放されることを願っていたあなたがたではなかったのか、それが再び奴隷に逆戻りする途を選ぶとは、何たる矛盾、何たる真理の拒絶であろうか(ガラテヤ人への手紙5:7)。
 
⑴律法からの解放即成就(ガラテヤ人への手紙5章-6:10)

「自分を愛するように、あなたの隣人を愛せよ」ということが、律法の全内容です。

このような愛は、下からのものではなく、上から与えられるみ霊によって初めて具現します(ガラテヤ人への手紙5:13以下)。

このみ霊とは、信仰義認の主体としてのみ霊です。

故に、イエスの十字架によって、律法から解放されることこそ、律法の成就だというべきです。

み霊によって始められたものを、肉によって仕上げる妄想から早く立ち直れ、と言います。
 
⑵十字架の迫る二者択一的誇り(ガラテヤ人への手紙6:11以下)

十字架のあがないとは、自己を誇ること、ひいては「肉の誇り」からの完全な解放です。

自己の行いによって自己を正当化してきた誇りを、十字架の主によって粉砕されることは、すなわち、「キリストを誇りとする」か、「自分を誇りとする」かの、二者択一の決断を迫られることです。

ガラテヤ人への手紙の終わりにしるされた、
「だれも今後は、わたしに煩いをかけないでほしい。
わたしは、イエスの焼き印を身に帯びているのだから」
というパウロの宣言は、これで、もういうべき言葉は尽きた、
「彼らは聞いても、拒んでも、彼らの中に預言者がいたことを知るだろう」と言われたエゼキエルのように(エゼキエル2:5)、パウロとしてはイエス・キリストによって、呪縛された焼き印を身におびたこの生のからだを皆の前にさらすことしかできないのだ、と言わんばかりです(ガラテヤ人への手紙6:17)。


posted by 道川勇雄 at 15:46| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする


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