2019年07月21日

エペソ人への手紙

エペソ人への手紙


「教会の超絶性の体認」


教会が、イエス・キリストの霊によって創設されたものとしては、天的起源をもつと同時に、在るがままの教会は、人間の集団としては、誤りやすく汚れやすい地的性格をもつことがたどられてきました。


エペソ人への手紙の意図は、教会の本質が驚くべき宇宙的スケール(規模)をもつものとして開示されているところにあります。


@教会の「超世界性」(エペソ人への手紙1章)


ものの考え方には、個に重点をおくものと、反対に全に重点をおくものとがあります。


人間の集団は、「全」の偏重によって「個」が犠牲にされたり、「個」の偏重によって「全」が無視されるという、そのいずれか一方に偏しやすいのですが、「全」と「個」はともに緊張的に保たれるべきであることは、いうまでもありません。


以上は人間集団の在り方についての考え方ですが、教会は、これまでにあきらかにされたように、「キリストを首」とするが、そのからだは、人間からなっているという「独自な公同体」です。


したがってその逆説的な固有性は、独自な秩序をもっています。


エペソ人への手紙によると、神と人とは、単独者として関わるのではなく、あくまでも、「キリストに在って」(キリストを首とする教会)という接点以外に、「神と人間」が関係づけられる場はないのです。


個々人ではなく、まず「教会」(公同体)が存在するのです。

「教会」が、すでに世の創めから「キリストの選び」に与っていたことに他ならないからです。


個人は、キリストに在って選ばれて存在させられている教会に、加えられるのであって、その逆ではありません。


「ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神。

神はキリストにあって、天上で霊のもろもろの祝福をもって、わたしたちを祝福し、みまえにきよく傷のない者となるようにと、天地の造られる前から、キリストにあってわたしたちを選び、わたしたちに、イエス・キリストによって神の子たる身分を授けるようにと、御旨のよしとするところに従い、愛のうちにあらかじめ定めて下さったのである」(エペソ人への手紙1:3-5)

と言われています。


この大胆きわまる断定によって、第一にあきらかなことは、教会は「キリストに在って選ばれている。」

故に、教会はその誤りと汚れとの一切「にも拘らず」、キリストの完全の故に、きよく傷のないものとして認容されているのです。


この教会が、独り子イエスの受肉(十字架と復活)によって地上に存在させられたのは、教会を通して、「万物のキリスト帰一」が実現するようにとの、神のご計画の時熟の証しに他ならないのです。


「それは、時の満ちるに及んで実現されるご計画にほかならない。

それによって、神は天にあるもの地にあるものを、ことごとく、キリストにあって一つに帰せしめようとされた」(エペソ人への手紙1:10)

からです。


この断定は、選民優位的考え方をくつがえすだけではなく、「教会優位的啓示観」の提示です。


なぜなら、アブラハムを通じ選民を通して、諸民諸族が祝福されるという、その「約束」をだしぬいて、ここには、

「神はキリストにあって、天上で霊のもろもろの祝福をもって、わたしたち(教会)を祝福した」

と断言されているし、この教会が、

「キリストにあってあらかじめ定められ、神の民として選ばれた」(エペソ人への手紙1:3、1:11)

と宣言されているからです。


それのみか、神はキリストを、

「すべての支配、権威、権力、権勢の上におき」、

「彼を万物の上にかしらとして教会に与えられた」(エペソ人への手紙1:20以下)。


このキリストを首とする、

「教会はキリストのからだであって、すべてのものを、すべてのもののうちに満たしているかたが、満ちみちているものに、ほかならない」(エペソ人への手紙1:23)

と言われています。


これはあたかも、あらゆるキリストなしの支配、権威、権力、権勢の虚無性を暴露して余りある宣言です。


これこそ、今は人の目には隠されている、キリストのからだなる教会の「絶対優位性」の証しです。


Aキリストのからだで実現された超差別的奥義(エペソ人への手紙2-3章)


このような宇宙的スケールをもつ教会の肢に与えられたのは、神の救いの恵みの絶大な富を証しするという役目です。


この恵みは、十字架のキリストの血によって初めて明確にされた、人間的差別的規定の全面的撤廃において示されています(エペソ人への手紙2:11-17)。


「そこであなたがたは、もはや異国人でも、宿り人でもなく、聖徒たちと同じ国籍の者であり、神の家族なのである」(エペソ人への手紙2:19)

といわれています。

教会は、キリストにおける万物帰一の実現する場であると言われましたが、その帰一は、権力の行使によるのではなく、神の超絶的な知恵の開示によるのです。


教会が、キリストの無尽蔵の富・ 世々隠されていた奥義を宣べる時、

「それは今、天上にあるもろもろの支配や権威が、教会をとおして、神の多種多様な知恵を知るに至る」(エペソ人への手紙3:8以下)

からだと言われています。


「ギリシア的思惟」と「ヘブル的(聖書的)思惟」の違いがあります。


聖書的な「実存知」は、神のロゴスの受肉者を「教会の首とする教会の肢体として」、初めて、実存的にその含蓄を開示されることになったのです。


【参考】

教会は、聖書によって、次の5つが規定されています。


超世界性

「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。」(エペソ書1:3-4)etc.


内世界性

「あなたがわたしを世に遣わされたように、わたしも彼らを世に遣わしました。」(ヨハネ17:18)etc.


外世界性

「不信者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません。正義と不法とに、どんなつながりがあるでしょう。光と暗やみとに、どんな交わりがあるでしょう。」(Uコリント6:14-15)etc.


共世界性

「もしできることなら、私の同胞、肉による同国人のために、この私がキリストから引き離されて、のろわれた者となることさえ願いたいのです。」(ロマ書9:3)etc.


抗世界性

「この世は彼らにふさわしい所ではありませんでしたー荒野と山とほら穴と地の穴とをさまよいました。」「あなたがたはまだ、罪と戦って、血を流すまで抵抗したことがありません。」(ヘブル書11:38、12:4)etc.


充世界性

「この教会はキリストのからだであって、すべてのものを、すべてのもののうちに満たしているかたが、満ちみちているものに、ほかならない。」(エペソ1:23) etc.


詳しくは下記をクリックしてください。





Bキリストのからだの特質の肢体的体認(エペソ人への手紙4-6章)



⑴肢態感(エペソ人への手紙4章-6:9)


教会は、その在るがままにおいて「在るべき教会」なのではありません。


教会は、教会となるべき教会ですが、それは、教会が、何か他のようになることによってではなく、教会の特質を、その肢である各人が体認してゆくことによる他ないのです。


それは、各自が、教会の傍観者としてではなく、そのおかれた固有な位置に徹する、体認のし方ですから、肢態感とよべるでしょう。


「わたしたちは、キリストのからだの肢体なのである」と言われている意味です(エペソ人への手紙5:30、4:25等)。


首なるキリストは唯一であり、み霊も一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つ。


「すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのものの内にいます、すべてのものの父なる神は一つである」(エペソ人への手紙4:4以下)。

「しかし、キリストから賜わる賜物のはかりに従って、わたしたちひとりびとりに、恵みが与えられている」が、この賜物は、それぞれにおいて、他をもって代えることのできない「個性」を与えられています。


「また、キリストを基として、全身はすべての節々の助けにより、しっかりと組み合わされ結び合わされ、それぞれの部分は分に応じて働き、からだを成長させ、愛のうちに育てられていく」(エペソ人への手紙4:16)のです。


肢体相互に求められることは、「真実を語る」ことであり、「聖霊を悲しませない」よう配慮し、互いに赦し合い、今の時を見きわめ、積極的主体的に生きるために、聖霊に満たされて居れ、と勧められています(エペソ人への手紙5:18)。


エペソ人への手紙が人間関係に言及するに当たり、きわめて特徴的なことは、あくまでも、「キリストと教会」との関係を、各自がその日常的・具体的人間関係に投影してゆくことを要請している点です。


まず夫と妻の間も、

「キリストが教会になさったようにして、おのれを育て養う」(エペソ人への手紙5:29)

べきだと言います。

「それゆえに、人は父母を離れてその妻と結ばれ、ふたりの者は一体となるべきである」(創世記2:24)

という言葉の示す結婚は、それ単独には、その含蓄の理解は不可解です。


むしろ、これは、「キリストと教会」との関係としての奥義ですから、「キリストと教会」の関係を体認させられつつ(結婚の意味と交わりとは、光をそこから与えられ)、その関係から再解釈されてゆくべきです。


家族関係、その他の関係でも、垂直的な、首なる主と肢との関係を軸としてそれを水平関係に及ぼすよう勧めています。


たとえば、

「人にへつらおうとして目先だけの勤めをするのでなく、キリストの僕として心から神の御旨を行い、人にではなく主に仕えるように、快く仕えなさい」といい、

「天の父が人をかたより見ない」

ように、各自もあらゆる偏見から解放されて在るよう心がけよ、と言います。



⑵敵前感(エペソ人への手紙6:10-24)


「最後に言う。

主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい。

悪魔の策略に対抗して立ちうるために、神の武具で身を固めなさい。

わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである」(エペソ人への手紙6:10-12)

と言われています。


在世中、十字架の死を目前にひかえてイエスは、

「今はこの世がさばかれる時である。

今こそこの世の君は追い出されるであろう」(ヨハネによる福音書13:31)

と言いたもうた。


イエスはその十字架と復活を通して、世に勝ち、あらゆる支配、権勢はキリストにおいて、根源的には制圧されているが、なおしばらくの間、サタンは許されて教会に挑戦する。


この戦いでの教会の武器は、御霊の剣としての神の言葉ですが、パウロ自身、囚人として鎖につながれている身でありながら、

「つながれていても、語るべき時には大胆に語れるよう祈ってほしい」(エペソ人への手紙6:20)

と訴えています。


改めて、囚人として獄につながれたパウロが、このような教会の宇宙的啓示を与えられたことは限りない驚異でしかないし、「わたしがすぐれた啓示を受けているので」、「高慢にならないように、わたしの肉体に一つのとげが与えられた」という彼の告白が今こそうなずけるような気がします(コリント人への第二の手紙コリント12:6以下)。

   



posted by 道川勇雄 at 15:49| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする


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