2019年07月27日

聖書各巻の意図「むすび」

聖書各巻の意図

【むすび】


初代教会時代からの聖書解釈は、次の四つの大きな流れになっています。

「天が地よりも高いように、わが道は、あなたがたの道よりも高く、わが思いは、あなたがたの思いよりも高い」(イザヤ55:8)と言われる主ですから、下からの聖書解釈の道も誤りのあるものでした。

それぞれの誤りをみてみます。


⑴「寓意的解釈」は、聖霊の御わざを、人間が代行しようとする解釈です。

(「寓意的解釈」は、聖書の文字と語句とが表わす人間的意味の奥に、「神の言葉」があるはずである、と考えたところに、その発生の原因をもっています。聖書本文とは異なる解釈をするのは、解釈者自身のうちに、「そう言わせたいもの」があるからです。歴史が示すように、そこには非常な危険が発生します。ルターから「猿芝居」と強烈に批判されたことを銘記すべきです。)


⑵「教義的解釈」は、神の広さを人の狭さで制限する解釈です。

(「教義的解釈」は古代教会では、教義と伝承とを併列的基準として行なわれましたが、中世紀にはこの両者が一つとなって、教権によって行なわれ、一種の教権的解釈のようになり、宗教改革以後には、さらに教義、伝承、信条が、二種の結合に分かれ、「教義的伝承的解釈」はローマ教会によって代表され、「教義的信条的解釈」はプロテスタント教会によって主張されるようになりました。教義は、聖書「から」出ているものですが、聖書それ自体の規範に「とって代われるものではない」ということの確認が欠けていたのです。聖書それ自体には、聖書独自の「多彩性における統一」という構造が新しくかもし出す、独自の『高さ・深さ・広さ』があるからです。)


⑶「実存論的解釈」は、自己理解における自己投影の暴露のない解釈です。

(現代人にとっての「有意義性」に優位をおく解釈です。この有意義性を問うことは、聖書が史的次元を超えて語ることの現在化ですし、この現在化においては、問う私が、逆に聖書の方から問いかけられて、そこに解釈者の実存的決断が迫られる出来事が結果すると主張しています。しかし問う解釈者と、問われる聖書との「逆転」という場合、それが「真の逆転」(「創造主」と「被造者」)となるためには、問い返す聖書それ自体は、問い返される解釈者に対しては「処理不可能」な『汝』としての対峙性をもつことを条件とします。ところがこの「実存論的解釈」での対話とは、「処理可能な史料」との対話の域を出ていません。)


⑷「歴史的解釈」は、最大の前提を、無前提と過信した解釈です。

(歴史意識が触発され始めた十九世紀の時代の進展によって生まれた解釈法ですが、教会の伝統的な教義を前提とする聖書解釈に対しては、批判的立場に立つものです。したがってその目標は、聖書の中の資料の「事実それ自体」を探ろうとします。しかし歴史上のすべての出来事は、過去の全連関の中での出来事であったわけで、その過去の全連関の中でのそれを再現させることは全く不可能です。過去の全連関は永久に過ぎ去ってしまっているからです。歴史家がその出来事を再現するために残されている史料も、歴史家のうちにある特定の評価に基づく「選択の産物」に他なりません。史料それ自身は語らないのであって、史料を選択し、それらに因果的連関づけを与える歴史家といえども、客観的であることを志しても、とうてい時代的、思想的、個人的制約を完全に脱却することは不可能です。その意味で、「歴史的発生的解釈」といえども、全く「無前提的」ではありえないのです。「歴史は解釈である」といわれる根拠がそこにあります。)」


世界的な聖書の体系学者・渡辺善太博士は、「実存論的解釈」は別にして、二千年にわたるキリスト教の歴史に現われている「寓意的解釈」「教義的解釈」「歴史的解釈」の三つの聖書解釈の流れは、何を教え、何を指示するか、と問いかけて概要次のように論述しています。


キリスト教史二千年にわたって、多少の浮沈と消長はありながら、これらの三つの解釈の型が連続的に現われたことは、この三つの聖書解釈の型に各々誤った点はありながら、そこに正しい点があったことを示しています。


したがってこれら三つの聖書解釈の誤った点を除去し、正しい点を生かして、聖書解釈への方向決定の指標としなければなりません。


この三解釈は二つずつの明瞭な対偶をなし、次の三つの組み合わせになります。           


❶第一対偶は、「寓意的解釈」と「歴史的解釈」との二つです。

「寓意的解釈」は「現在の声」を求めるものであり、「歴史的解釈」は「過去の声」を求めるものです。


「寓意的解釈」が二千年間追求してきたものは、聖書の文字の表わす人言的意義の奥に、あるべきはずと信じられた「神の言葉」で、これを聞くことに熱情をささげ過ぎたために人間的方法を用いるようになったものです。


聖書の人言の背後に「何があるか」は明確にできませんでしたが、「何かがある」ということを確信して動かなかったところから起こったのが、この「寓意的解釈」でした。


ルターに「猿芝居」といわれたのは、この願望を人間的に実現しようとした結果であり、これを果たさせるのは「聖霊のみ」であることを忘れた結果でした。


この意味で「寓意的解釈」は、「聖霊のみ業を人間が代行しようとした誤り」なのです。


しかし「寓意的解釈」が聖書から、「現在の声」を聞くことを追求の目標としてきたことが、今改めて認められなくてはなりません。


「歴史的解釈」は、アンテオケ学派での古い形でも、近代の諸種の新しい批評学派でも、聖書の「過去」またはその「成立過程」を明らかにしようとしてきました。


この「聖書の過去を知る」ことによって、「聖書の現在を知る」ことができると考えてきたのです。

換言すれば、聖書の「現在の姿」を、その「過去の姿」の中に溶解させたのです。


聖書の「過去」を、聖書の「現在」に換えようとしたことに誤りがありますが、「歴史的解釈」が、聖書の「過去」を知ろうとした点では、正しかったのです。


この意味で「歴史的解釈」は、聖書の「過去の声」を追求したといわれるのです。


ここに「寓意的解釈」と「歴史的解釈」の対偶が見られ、前者は「今ここに」の声を求め、後者は「昔の声」を求めるといわれるのです。


❷第二の対偶は、「寓意的解釈」と「教義的解釈」との二つです。

「寓意的解釈」は、聖書から「未決定の声」を聞こうとするものであり、「教義的解釈」は、「既決定の声」を聞こうとするものです。


「寓意的解釈」が、「現在の声」を求めたのは、人間によって決定されず、予想さえされない生ける神の「未決定の声」を聞くことを求めたのです。


そこには聖書は常にこれを求める者に、新しい言葉を語るものであるという信念が、保持し続けられていたのです。


一方、「教義的解釈」は、その解釈基準である教会の「教義」が、聖書によって教えられ、聖書から出たものであるという確信から、その教義によって聖書を解釈しようとしたのです。


その教義は、聖書によって教えられ、聖書から出たものですが、しかしそれはひとたび「人間の所有」となったものであり、その意味で教義によって聞かれる聖書の声は、人間によって予想された声であり、「既決定の声」でしかないことを忘れていたのです。


この意味で、「教義的解釈」の意図に共感を禁じ得ませんが、しかしそれが聖書解釈として行なわれるとき、そこには「新しい言葉」はなく、ただ「既決定の声」があるだけです。


この解釈が「神の広さを人の狭さに解した誤り」と呼ばれるのはこのためです。 


❸第三の対偶は、「教義的解釈」と「歴史的解釈」との二つです。

「教義的解釈」は、聖書「一巻の声」を聞くことを求めるものであり、「歴史的解釈」は、聖書の「史料の声」を聞くことを求めるものです。


「教義的解釈」が前述のような誤りのうちにあっても、一貫して保持してきたことは、聖書をどこまでも「一巻」の書物として信奉し、これを一つの「全体」として主張してきたことです。


一方、「歴史的解釈」は、これとは正反対に立つもので、聖書を解体して史料別にし、その「史料の声」を聞くことを求めるものです。


聖書が一巻の書であるとはいえ、それは無数の史料の縫合されたものであるという事実から、これを真に理解するには、それらの史料の最後の単位までさかのぼらなければならないと考えたところから起こった解釈方法でした。


この「歴史的批評的方法」は、全く無前提的に行なわれ得る方法であるかのような錯覚に、その確信の基礎を置いていたのです。


この解釈が「最大の前提を無前提なりと過信した誤り」といわれるのはそのためです。


ここに聖書の「一巻の声」を聞こうとした「教義的解釈」と、聖書の「史料の声」を聞こうとした「歴史的解釈」との対偶が見られます。


聖書解釈史に現われた三つの解釈の対偶的組み合わせから、上記の結果が得られましたが、これらの結果を総合すると、次の二方向の聖書解釈が指示されます。


◉第一は「過去の声」を聞こうとするものであり、「史料の声」を聞こうとするものであり、「既決定の声」を聞こうとするものです。

聖書の「過去的性格」を、その対象とする解釈方向であるということができます。

聖書を「既知」のものとして取り扱う解釈であって、そこに作り出される世界は、どこまでも「独語」の世界です。


◉第二は「現在の声」を聞こうとするものであり、「一巻の声」を聞こうとするものであり、「未決定の声」を聞こうとするものです。

聖書の「現在的性格」を、その対象とする解釈方向です。

聖書を「未知」のものとして取り扱う解釈であって、そこに作り出される世界は、どこまでも「対話」の世界です。


このように総合してみると、解釈史の三つの方向は、これを本質的に二つの方向とすることが出来ます。


渡辺善太博士は、これを「文献的歴史的解釈方向」と「正典的神学的解釈方向」と名づけています。


◉第一の「文献的歴史的聖書解釈」とは、聖書を「文献」として取り扱い、これを解釈するのに「歴史的」方法を用いるという意味で名づけられたものです。


聖書を「文献」として取り扱うとは、聖書がキリスト教会の「正典」として結集される瞬間までをその研究の対象とするものです。


したがってこの解釈の主要目的はどこまでも、聖書の「過去」を明らかにし、「聖書はいかにしてできたか?」という問いに答えるものです。


この研究に「歴史的」方法をもってするとは、従来の歴史的解釈における歴史的批評的方法を、「徹底的」に用いるという意味になります。


この意味で、この解釈の方向は、「著者的方向」と呼ぶことができます。


◉第二の「正典的神学的聖書解釈」とは、一つのまったく新しい聖書解釈の方向です。


それはまず「正典的」に聖書に対するもので、文献的な対し方と正反対であり、その解釈の方法が「神学的」であることによって、歴史的な方法と正反対のものです。


この意味で、「文献的歴史的聖書解釈」と「正典的神学的聖書解釈」とは正反対の方向に立っています。


「正典的神学的聖書解釈」は、聖書の「現在」を明らかにしようとする点にあり、「聖書とは何であるか?」という問いに正しく答えようとする点にあります。


したがって、過去における前述の三つの聖書解釈のそれぞれの正しい点を取り上げ、これを生かそうとするものです。


❶「教義的解釈」の聖書の解釈を誤まることがないようにとした正しい意図を生かし、


❷「寓意的解釈」の聖書の「昔」の言葉から「今」の言葉を聞こうとした願望を生かし、


❸この両解釈がどこまでも保持しつづけてきた「一巻としての聖書の渾一性」の意義を明らかにし、


❹「歴史的解釈」が発見しかつ直視した、聖書中の矛盾の意義を解明にすることです。


上記の諸点を生かし、それぞれに付随した解釈の誤りを除去するところに、この「正典的神学的聖書解釈」の任務があります。


この方向こそ、「文献的歴史的解釈」の「著者的方向」または「前歴史的方向」に対して、「作物的方向」を志向するものということができます。


◉「正典的神学的聖書解釈」の最高の基準は「新約聖書の旧約聖書解釈」です。



それは「歴史的聖書解釈」の立場から見れば、一大誤謬です。


ここでこの両解釈の別を明らかにするためには、歴史的解釈の立場から新約的旧約解釈の誤りを徹底的に明らかにしなければなりません。


この誤りであることを徹底的に指摘されることによって、逆に新約的旧約解釈は、その解釈学的性格と理論と方法とを明らかにすることができるのです。


ちょうど一つの蝋版(ろうばん)に一つのスタンプを押しつけるとき、押しつけ方が強くて、その面のへこみ方が強ければ強いほど、その蝋版の裏側に表われるその隆起は高くなります。


この意味で、「文献的歴史的方法」は「正典的神学的方法」に対して、補助的価値をもつのです。


連載してきた「聖書各巻の意図」は、可能な限り「正典的神学的聖書解釈」で、また可能な限り短い記述で、挑戦したものです。

ご参考になれば、幸いです。




posted by 道川勇雄 at 05:44| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする


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