2019年07月21日

ピリピ人への手紙

ピリピ人への手紙

「主客逆転者との出会いがもたらす逆説的喜び」 

イソップ物語に「北風と太陽」の力くらべというのがあります。

これを宗教の類型にあてはめてみると、北風は律法宗教を、反対に太陽は福音をさし示す宗教の対比といえます。

聖書が、全体として、上からの賜物に先立たれた課題を力説することからも、この対比の正しさが裏づけられるでしょう。

キリスト教は、教えではなく、キリストとの「出会い」を出発点とします。

「出会い」といっても、それが聖書では、十字架のキリストとの出会いですから、そのこと自体、革命的な「主客逆転」の出来事です。

@主客逆転者の生む逆説的歓喜(ピリピ人への手紙1章)

ピリピ人への手紙は、全面に、「よろこび」を示す用語があふれています。

しかもこれは、獄中書簡です(ピリピ人への手紙1:7、1:13、1:17等)。

その点の矛盾が、関心をそそらせます。

そしてそれは、ピリピ人への手紙の意図をたぐり出させる大事な手がかりです。

パウロはいう。
彼が投獄されたことが、
「むしろ福音の前進に役立つようになったことを、あなたがたに知ってもらいたい」、
その入獄の苦しみは、敵対者のねたみや闘争心によって倍加されました。
しかし、
「見えからであるにしても、真実からであるにしても、要するに、伝えられているのはキリストなのだから、わたしはそれを喜んでいるし、また喜ぶであろう」(ピリピ人への手紙1:12-18)
と。

ヤセがまんでも、気負いでもありません。
生きがいの焦点が、
「自己のため」、
から、
「キリストがあがめられるため」(ピリピ人への手紙1:20-22)
に、転換させられたからです。

単に理念としてわかることとは次元がちがいます。

誰もが喜べることのみを喜びとし、世間の評価するプラスのみをプラスとし、他に伍してマイナスをマイナスとしていながら、信者ぶっている大多数のキリスト者とは明らかに違います。

人の本心は、平常時には隠されています。

本心のあばき出されるのは、事がおきた非常時においてです。

患難に出くわす時、その信仰が「神中心的再解釈」に向いているか否かが暴露されます。

それ故、パウロは、
「何事についても、敵対する者どもにろうばいさせられないでいる様子を、聞かせてほしい。
このことは、彼らには、滅びのしるし、あなたがたには救のしるしであって、それは神からくるのである」(ピリピ人への手紙1:28)
と言っています。

A主客逆転者の問う告白的実存(ピリピ人への手紙2章)

信仰者といえども、その平常時の日常的在り方は、
「人はみな、自分のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことは求め」ないと指摘されているように、自己の欲求の充足に走りがちです。

故に、
「おのおの、自分のことばかりでなく、他人のことも考えなさい」
と言い、目を横の人から「キリスト」、しかも「十字架のキリスト」へ向け変えるようにすすめています。

十字架のキリストは、
「神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。
その有様は、人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた主」です。

それは限りなく高い者が、限りなく低い他者を負い尽くす絶大な自己限定です。
「他者のため」の徹底は、ここにしかありません。

「イエス・キリストは主である」と信仰者によって告白されている主は、このような絶大な自己限定者ーー主客逆転者なのです。

それ故、教会が、そして、その肢が、主告白をすること自体、主客逆転者によって、告白者の実存を問われることになります。

首なるキリストを主と告白しつつ、その肢体がその首の生き方によって根底から揺り動かされていないとしたら、それは、首と肢体が有機性を失った、動脈硬化的状態でしょう。

B主客逆転者の迫る信仰的自立(ピリピ人への手紙3-4章)

ここでパウロは、彼のイエス・キリストとの出会いが、「主客逆転者との出会いの出来事」であったことを力説しています(ピリピ人への手紙3:1以下)。

それはパウロが、まず彼の人間的価値(プラス)を「肉の頼み」として羅列し、それが、キリストを知る絶大な価値(プラス)によって、その前に全く色あせてしまったと言います。

それは、しかし、単なる価値転換の問題ではありません。

いわゆる人間的主体性の徹底の次元での価値転換については、哲学者ニーチェでも存分に語ることができました。

だがそれではないのです。

イエス・キリストとの出会いによっておこる価値転換は、その出会い自体が、「主客」逆転の出来事だからです。

これまでのパウロは、自分の義(行いによる自己正当化の方向)で生きていたということからいえば、神を主とせず、自己を主とする「主客倒錯」の生き方にまかせていたのです。

十字架の主にその倒錯を倒錯としてあばかれたことは、それが「主客逆転者キリスト」との出会いであったからです。

「キリストのゆえに、わたしはすべてを失ったが、それらのものを、ふん土のように思っている。
それは、わたしがキリストを得るためであり、律法による自分の義ではなく、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づく神からの義を受けて、キリストのうちに自分を見いだすようになるためである」(ピリピ人への手紙3:8以下)
という告白は、主客逆転としての、主との出会いを示しています。

信仰者といえども、つねに、自己を神の審判者とするような主客倒錯に陥りやすいのです。

「つねに、できるだけ自己を拡大し、その結果、できるだけ神を縮小しようとしているのだから」(K・バルト)。

その倒錯をあばかれ、逆転せしめられる者は、パウロのように、
「キリストとその復活の力とを知り、その苦難にあずかって、その死のさまとひとしくなり、なんとかして死人のうちからの復活に達したい」と願わずにはいられないーー そのパウロの用いるーー『何とかして』という表現は、彼の側の信仰者としての精進(自力面)をさし示しています。

「わたしがすでにそれを得たとか、すでに完全な者になっているとか言うのではなく、ただ捕えようとして追い求めている」(ピリピ人への手紙3:12三)というところに来ると、もはや何の疑いもなく、人間的自力です。

だが、それはいわゆる世間一般の修養努力を意味しません。

北風ではなく、太陽だといったのは、このことです。

キリストと(その「からだ」である教会の肢としての)キリスト者との関係からいうと、キリスト者の精進(努力)とは、独り相撲ではなく、あくまでも「賜物に先立たれた課題」であり、「他力に先行された自力」だからです。

「そうするのは、キリスト・イエスによって捕えられているからである」(ピリピ人への手紙3:12)
とはその構造の分析です。

だが、そこで終わっていません。

パウロは、改めて、
「兄弟たちよ、わたしはすでに捕えたとは思っていない。
ただこの一事を努めている。
すなわち、後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、目標を目ざして走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めている」(ピリピ人への手紙3:13以下)のだというのです。

いうまでもありません。

キリストとの出会いは、そしてそれが意味する主客逆転は、上からの「賜物」としての出来事であり、しかも、相手を「信仰的に自立させる」ための出来事です。

このことからしても、キリスト信仰は、「他力一辺倒」ではありません。

恵み絶対の宗教でありながら、キリスト者に向かっては、「他力即自力」の緊張に立つ、自立的姿勢を挑戦してやまないのが、聖書の信念です。

信仰的自立的ということで、ここに意味されているのは、喜びと寛容にあふれた在り方をさしています。

「最後に、兄弟たちよ、すべて真実なこと、すべて尊ぶべきこと、すべて正しいこと、すべて純真なこと、すべて愛すべきこと、すべてほまれあること、また徳といわれるもの、称賛に値するものがあれば、それらのものを心にとめなさい」(ピリピ人への手紙4:8以下)
という勧めには、あらゆるものに対して心を開いている、自由なおおらかさがあふれています。

そして、
「わたしは、どんな境遇にあっても、足ることを学んだ」、
「ありとあらゆる境遇に処する秘けつを心得ている。
わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる」(ピリピ人への手紙4:11-13)
という自由と柔軟性と、そして、逆説的歓喜とは、十字架の主によって主客逆転させられる者にして初めて可能な、真実な告白です。


posted by 道川勇雄 at 15:51| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする


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