2019年07月21日

テサロニケ人への第一の手紙

テサロニケ人への第一の手紙

「再臨待望者における患難の覚悟に基づく品位」 

キリスト者は、「この世の者でない者」としてこの世におかれています。

そのことは、いずれか一方の偏重に陥ることを許さない、危機的在り方を意味しています。

そのようなキリスト者独自の危機的心構えに対して、再臨待望ということから光を投じているとおもえるのがテサロニケ人への第一の手紙です。

@再臨待望者の患難における覚悟(テサロニケ人への第一の手紙1-3章)

福音に生きる者に約束されているのは、「患難を通して栄光へ」の道です。

テサロニケ人への第一の手紙も、
「あなたがたの知っているとおり、わたしたちは患難に会うように定められている」
のだから、その覚悟をもって動揺しないように、と教会に警告しています(テサロニケ人への第一の手紙3:3)。

むしろ迫害されることが、教会としての成熟のしるしである、と言わんばかりに、
「兄弟たちよ。
あなたがたは、ユダヤの、キリスト・イエスにある神の諸教会にならう者となった。
すなわち、彼らがユダヤ人たちから苦しめられたと同じように、あなたがたもまた同国人から苦しめられた。
ユダヤ人たちは主イエスと預言者たちとを殺し、わたしたちを迫害し、神を喜ばせず、すべての人に逆らい、わたしたちが異邦人に救の言を語るのを妨げて、絶えず自分の罪を満たしている。
そこで、神の怒りは最も激しく彼らに臨むに至ったのである」(テサロニケ人への第一の手紙2:14以下)
と、はげましています。

患難を覚悟して生きる姿勢として、基本的なことは何か。

それは「人間に喜ばれよう」とする誘惑に打ちかつことです。

「わたしたちは神の信任を受けて福音を託されたので、人間に喜ばれるためではなく、わたしたちの心を見分ける神に喜ばれるように、福音を語る」(テサロニケ人への第一の手紙2:4-5)
と言っています。

人間からの栄誉を求める結果は、人間にへつらうことになりますが、この誘惑くらい強烈なものはないことを熟知してかからなければならないという。

それに勝つためには、如何にしたら、人の心を見抜きたもう神を喜ばせることができるか、ということに、強いて心を向けるより他ないのです。

だがそうだからといって、「目的が手段を正当化する」とおもったら大変な誤りです。

社会生活において、他人に負担をかけるようであっては、再臨待望者としても失格です。

「神の前」に責められないことと「人の前」にも責められない、両極的配慮があってこそ患難に耐える心構えといえるのです。

この部分の終わりに、
「どうか、わたしたちの主イエスが、そのすべての聖なる者と共にこられる時、神のみまえに、あなたがたの心を強め、清く、責められるところのない者にして下さるように」(テサロニケ人への第一の手紙3:13)
との祈りがおかれていることによって、それが裏付けられています。

A再臨待望者の覚醍者としての品位(テサロニケ人への第一の手紙4-5章)

選民が、「祭司の国」「聖い民」として性格づけられていたように、キリスト者に求められるのは、自らを「聖別する」ことです。

「神のみこころは、あなたがたが清くなることである。
すなわち、不品行を慎み、各自、気をつけて自分のからだを清く尊く保ち、神を知らない異邦人のように情欲をほしいままにせず、また、このようなことで兄弟を踏みつけたり、だましたりしてはならない。
ーーこういうわけであるから、これらの警告を拒む者は、人を拒むのではなく、聖霊をあなたがたの心に賜わる神を拒むのである」(テサロニケ人への第一の手紙4:3以下)
といい、不品行がいかにキリスト者の品位を失わしめるものであるかに注意を喚起しています。

そのことを裏づけるとおもわれる決定的な証拠として、テサロニケ人への第一の手紙は「品位」という表現を用いています。

「そして、あなたに命じておいたように、つとめて落ち着いた生活をし、自分の仕事に身をいれ、手ずから働きなさい。
そうすれば、外部の人々に対して品位を保ち、まただれの世話にもならずに、生活できるであろう」(テサロニケ人への第一の手紙4:11以下)
と言われているとおりです。

だが再臨待望者とは、醒めている者です。

信仰者として、日常の仕事に専念することは、しかし、それのみに捉われ、安住することではありません。

「主の日は盗人が夜くるように来る」ことを知って目をさましていなければならないのです(テサロニケ人への第一の手紙5:1以下)。

目をさましている限り「その日が、盗人のようにあなたがたを不意に襲うことはない」(テサロニケ人への第一の手紙5:4)
と言い、目をさましていることは、
「御霊を消さず、預言を重んずる」
配慮によって、
「すべてのものを識別して、良いものを守り、あらゆる種類の悪から遠ざかる」ことだという(テサロニケ人への第一の手紙5:19-22)。

「この世の者でない者」として「この世におかれている」再臨待望者の品位は、このように両極的配慮をふまえたものです。


posted by 道川勇雄 at 15:54| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする


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