2019年07月21日

テサロニケ人への第二の手紙

テサロニケ人への第二の手紙

「再臨の主の報復の威力と栄光」 

テサロニケ人への手紙の第一と第二はともに、再臨待望を主題としています。

両者の微妙なちがいは、第一は、「再臨待望者の側の心構え」を強調するのに対し、第二は、「再臨の主御自身の威光」に焦点をしぼっています。

テサロニケ人への第二の手紙は、主の来臨についての注意として、
「霊により、あるいは言葉により、あるいはわたしたちから出たという手紙によって、主の日はすでにきたとふれまわる者があっても、すぐさま心を動かされたり、あわてたりしてはいけない。
だれがどんな事をしても、それにだまされたりしてはいけない」(テサロニケ人への第二の手紙2:2-3)という。

それはどうしてか。

旧約聖書の預言をはじめイエスの予告にもあったように、再臨は、
「荒す憎むべき者が、聖なる場所」に立つ時を意味します(ダニエル書9:27、11:31、12:11、マタイ24:15、マルコ13:14等)。

【引用】
「彼は一週の間多くの者と、堅く契約を結ぶでしょう。
そして彼はその週の半ばに、犠牲と供え物とを廃するでしょう。
また荒す者が憎むべき者の翼に乗って来るでしょう。
こうしてついにその定まった終りが、その荒す者の上に注がれるのです。」(ダニエル書 9:27)

「彼から軍勢が起って、神殿と城郭を汚し、常供の燔祭を取り除き、荒す憎むべきものを立てるでしょう。」(ダニエル書 11:31)

「常供の燔祭が取り除かれ、荒す憎むべきものが立てられる時から、千二百九十日が定められている。」(ダニエル書 12:11)

「預言者ダニエルによって言われた荒らす憎むべき者が、聖なる場所に立つのを見たならば(読者よ、悟れ)、」(マタイによる福音書 24:15)

「荒らす憎むべきものが、立ってはならぬ所に立つのを見たならば(読者よ、悟れ)、そのとき、ユダヤにいる人々は山へ逃げよ。」(マルコによる福音書 13:14)


その恐るべき現象は、いつかは定かではないが、
「彼が自分に定められた時になってから現われるように、いま彼を阻止しているものがある。
不法の秘密の力が、すでに働いている」
という(テサロニケ人への第二の手紙2:3以下)。

その現象の特徴は「不義のまどわし」がはびこるということです。

このまどわしの犠牲になる者とは「救いの真理に対する愛」を拒否しつづけた者たちです。

「そこで神は、彼らが偽りを信じるように、迷わす力を送り、こうして真理を信じないで不義を喜んでいたすべての人を、さばくのである」(テサロニケ人への第二の手紙2:10以下)
といわれています。

この場合、救われる者とは、「御霊によるきよめと、真理に対する信仰」とを条件とするとしていることに照らして(テサロニケ人への第二の手紙2:13)、惑わしの犠牲になる者とは、反対に、福音書に指摘されていたように「真理の光に照らされながら、真理を拒みつづけた者」を意味しています(ルカ12:10、マタイ12:31、マルコ3:28-29等)。

【引用】
「だから、あなたがたに言っておく。人には、その犯すすべての罪も神を汚す言葉も、ゆるされる。しかし、聖霊を汚す言葉は、ゆるされることはない。」(マタイによる福音書 12:31)

「よく言い聞かせておくが、人の子らには、その犯すすべての罪も神をけがす言葉も、ゆるされる。 しかし、聖霊をけがす者は、いつまでもゆるされず、永遠の罪に定められる。」(マルコによる福音書 3:28-29)

「また、人の子に言い逆らう者はゆるされるであろうが、聖霊をけがす者は、ゆるされることはない。」(ルカによる福音書 12:10)


【注】
聖霊を汚す罪とは、「眞実を認めつつも、なお自己の面子(めんつ)のゆえに、それを認めようとしない陰湿の極みとしてのドス黒さ。 」
イエスの行為が明らかに民衆に福祉をもたらすにもかかわらず、論敵がこれを悪霊によるものとしてイエスを誣告的に論難した場合などです。


光を拒みつづける結果の恐ろしさといえば、実は、イスラエルの出エジプトにさいして、エジプト王パロの抵抗を、「心をかたくなにしつづけた」事態として描写していることが想起されます(出エジプト記9:35)。

ところが、それを主の意志に基づく現象として解説し、「主がパロの心をかたくなにされた」とする言及もあります(出エジプト記10:20)。

そしてこの両者を関係づけとみられるのが、「しかし、わたしがあなたを(エジプトに)ながらえさせたのは、あなたにわたしの力を見させるため、そして、わたしの名が全地に宣べ伝えられるためにほかならない」(出エジプト記9:16)
という記述です。

再臨は、全く人のおもわぬ時に突如としておこるのです。

だが、神の時は隠されています。

神は、不法の者の勢力の発現の絶頂において、来臨する主の威光を極限的に顕示しようとしたもうかのように、阻止が解かれて不法の者がその最大限の挑戦をしかける時、
「この者を、主イエスは口の息をもって殺し、来臨の輝きによって滅ぼすであろう」(テサロニケ人への第二の手紙2:7-8)
と預言的にのべられています。

主の来臨の輝きとは、報復者の来臨の栄光です。

「それは、主イエスが炎の中で力ある天使たちを率いて天から現われる時に実現する。
その時、主は神を認めない者たちや、わたしたちの主イエスの福音に聞き従わない者たちに報復し、そして、彼らは主のみ顔とその力の栄光から退けられて、永遠の滅びに至る刑罰を受けるであろう」(テサロニケ人への第二の手紙1:7-9)
と言われています。

神の国のために、今、苦しむ者にとっては、主の来臨は、
「休息をもって報いて下さる日」です(一・六)。

その反対に今、怠惰な生活をしている者にとっては、と言わぬばかりです(テサロニケ人への第二の手紙3:6-13)。


posted by 道川勇雄 at 15:56| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする


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