2019年07月21日

テモテへの第二の手紙

テモテへの第二の手紙

「宣教者の孤立的確信」
詳しくいうと、人の不真実にも拘らざる神の真実を仰ぐ宣教者の孤立的確信となるでしょう。

テモテという同一人物への手紙の形をとってはいますが、第一の手紙では、いずれかというと、人々のための配慮と「とりなし」の面に重点がおかれ(テモテへの第一の手紙2:1、5:16等)、第二の手紙では「キリスト・イエスの良い兵卒として、わたしと苦しみを共にしてほしい」と言われているように(テモテへの第二の手紙2:12)、「くるしみの共感」が内説されています。

「神がわたしたちに下さったのは、臆する霊ではなく、力と愛と慎みとの霊なのである。
だから、あなたは、わたしたちの主のあかしをすることや、わたしが主の囚人であることを、決して恥かしく思ってはならない。
むしろ、神の力にささえられて、福音のために、わたしと苦しみを共にしてほしい」(テモテへの第二の手紙1:7以下)
とパウロは、テモテの涙を覚えている者として、彼に訴えています。

そう語るパウロ自身が、アジアにいる者たちにも去られてしまい、今や絶望的な囚われの身です。

@人の不真実にも拘らざる神の真実(テモテへの第二の手紙1-12章)

福音のために苦しむのは当然ですが、そのさい、大事なことは、その福音の内実が何であるかを明確にし、そこから目をそらさないことです。

「ダビデの子孫として生れ、死人のうちからよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい。
これがわたしの福音である」(テモテへの第二の手紙2:8)
という。

「復活の主」から目をそらさない時、福音のために迫害をうけ、投獄されていながら、パウロは、
「この福音のために、わたしは悪者のように苦しめられ、ついに鎖につながれるに至った。
しかし、神の言はつながれてはいない。
それだから、わたしは選ばれた人たちのために、いっさいのことを耐え忍ぶのである」(テモテへの第二の手紙2:8以下)
と告白できました。

それだけではありません。
「復活の主」に目を注ぎつづける時、そこには、超絶的な「神の真実」を仰がされます。

それは「人の不真実にも拘らない神の真実」です(テモテへの第二の手紙2:13)。

この「神の真実」から目をそらさず、ひたすら、「あなたは真理の言葉を正しく教え、恥じるところのない錬達した働き人になって、神に自分をささげるように努めはげみなさい」と勧めます(テモテへの第二の手紙2:15)。
 
A人の離反にも拘らざる神の共存(テモテへの第二の手紙3-4章)

パウロをはじめとして、
「いったい、キリスト・イエスにあって信心深く生きようとする者は、みな、迫害を受ける。」

それを覚悟で、神の霊感を証しする聖書において、確信しているところをゆずらず、曲げず、悟りなさいと勧めます(テモテへの第二の手紙3:12-17)。

召された者としては、「時が良くても悪くても」み言を宣べ伝えなさい。
しかし、その結果は、多くの人々が「耳ざわりのよい話」の方へひかれて去ってゆき、独りとり残される時が来るであろう。

こう語るパウロ自身、
「すでに、自身を犠牲としてささげている。
わたしが世を去るべき時はきた」。

親しかった者たちは、次第に去り、
「第一回の弁明の際には、わたしに味方する者はひとりもなく、みなわたしを捨てて行った。
ーーしかし、わたしが御言を余すところなく宣べ伝えて、すべての異邦人に聞かせるように、主はわたしを助け、力づけて下さった。
そして、わたしはししの口から救い出されたのである」(テモテへの第二の手紙4章)
と言っています。

たとい人間は「不真実であっても常に真実な神」を仰がせられるのはすべての人に去られた孤独の極限においてこそでしょう。

主に代わって、私の孤独をまぎらすものがありはしないか、という問いを、読む者につきつけるきびしさがそこにはあります。

【参考】
「あなたが来るときに、トロアスのカルポの所に残しておいた上着を持ってきてほしい。
また書物も、特に、羊皮紙のを持ってきてもらいたい。」(テモテへの第二の手紙 4:13)

パウロは、「書物」と書いています。
聖書ならば、当然、「聖書を」と書きます。
死を直前にしたパウロには、聖書以外の書物を悠然として読めるこころの余裕があったことを忍ばせます。
キリストにある者の強さです。


⭕️Pテトスへの手紙
テトスへの手紙


「反対者に口実を与えない宣教者の品性的健全性」 


テトスへの手紙は、あきらかにテモテへの第一の手紙と重なり合っています。


テモテへの第一の手紙が、健全な教えに基づく配慮がいかなるものかを実例的に詳しく記述する「ゆとり」があるのに対し、テトスへの手紙では、反対者に口実を与えることの致命性に注意を向ける「緊急性」が印象的です。


現代的表現をもっていえば、福音宣教にとり、緊急な課題は何よりもまず「福音と世界との出会いを妨げる条件の除去」だというわけです。


教会の長老の条件が、責められる点がなく、不品行のうわさを立てられず、健全な教えによって人をさとしうることとされるのは、

「反対者の誤りを指摘することができるため」(テトスへの手紙1:6-9)

であり、品性的健全性が教会員全体に徹底すれば、その結果は、

「反対者もーー悪口も言えなくなり、自ら恥じいることになる」(テトスへの手紙2:1-10)

からであるという。


信仰者に、品性的健全性が欠けているということは、不信仰の証拠であり、知性も、良心も汚れている証拠です。


「彼らは神を知っていると、口では言うが、行いではそれを否定している。彼らは忌まわしい者、また不従順な者であって、いっさいの良いわざに関しては、失格者である」(テトスへの手紙1:15-16)という。


教会も、旧約聖書のイスラエル・ユダヤと同じように「選民失格者」となりかねない。


教会は、十字架のあがないにより、「不法からあがない出され」、聖別された民の群れです(テトスへの手紙2:11-14)。


だが、選民としての健全な、良いわざは、自己を正当化するような、人の義に基づくものではなく、「神のあわれみによって、再生の洗いを受け、聖霊により新たにされ」た者のみが結ぶ実としてのそれです(テトスへの手紙3:4以下)。









【参考】 

キリスト者は、二つの歴史に生きています。

一つは、現実世界の歴史・「一般史」。

もう一つは、その現実を神にあって解釈した「救拯史」。

神にあっての解釈が出来なくなれば、信仰の破船です。



posted by 道川勇雄 at 16:01| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする


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